銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

貴陽が8年目に咲いた。遅い?・・山寺重子指導の指原いく子と、島田章三指導の廣田成生には、犬猫扱いを受けた。私は、自分では、自分を人間だと思うが?

2022-03-18 11:51:04 | 政治

  この白い花は杏の花です。しかし、ただの杏ではありません。2001年(=20年以上前)にニューヨークで、8月(すでに、果実が熟す舜のシーズンは過ぎている)に、皮にしわが寄っている古いものを食べて、そのおいしさに、驚嘆した種なのです。

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副題1、『ケーヨーデーツー久里浜店の園芸売り場に、この杏の苗木が売っていた時は、驚嘆した。こんな場末にと思って。だって、貴陽などを、植える人が、横須賀市にいるかどうか、わからないと思ったからだ。お庭はある・・・・・人は、横須賀市には、多いだろう。しかし、完熟した貴陽を食べた人が、横須賀にいるかどうかを知らない。バカにしているわけではない。日本では、売る果物は、未熟な段階で、出荷をされるからだ。だから、鎌倉のユニオンで、一個280円で売っていて、微妙なお値段ですね。私のお財布にとっては、と思いながら買っても、ニューヨークのあの古びた、果実ほど、満足したことはない。郵便局や、生協ほかで、ひと箱5000円で売っているものを贈答品として、使うが、相手にあの2001年の時の感動した甘さの状態で、届いているかどうかについては、疑問の余地があるし』

 貴陽という種の杏は、非常に味が濃いです。完熟した上等な白桃はおいしいですが、時には、4分の1程度の大きさの貴陽が、白桃と、同じくらいの、満足感を与えてくれます。

 この白い花が咲いている場所は、日本の横須賀市、北久里浜の丘の上です。ええと、植えてから、なかなか、花が咲きませんでした。おかしいと思っていて誰かが、莟を、摘んでいるだろうと、推察していました。

 実は、5人の、泥棒が、北久里浜にはいます。で、この果物と園芸の話で、始まった文章も、実は政治の文章となります。いつもと同じ流れとなります。

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副題2、『この貴陽のつぼみが積まれてしまう25年ぐらい前(1995年ごろ)に、この家を借家として住んでいる人が「誰かが、車のバクミラーを折るのです」と、言った。その人は犯人が、誰か、判っていたのだろうと思う。私も即座に分かった。しかし、当時は、パソコンを使っていないし、ブログを始めてもいないし、2008年に始めたこの、ブログで、いろいろ、CIAエージェントと、それに協力する人々の事を、実名で、書き始めた2016年よりも、20年は、むかしだったので、私は自分の力が弱いと思っていたので、黙っていた。同じように、借家人も、実名を言わなかった。しかし、今は言おう。その犯人は、益山智恵子さんだ。と、断定してもいいと思う。彼女は、すでに、死亡済みなので、貴陽のつぼみを摘む人は、その遺志を継いで、私を殺したいと、思っている、5種類の人間で、そのうちの二、または、三人は、実名を表記できる。その件について、いろいろ、丁寧に、仔細を書いて行こう』

 益山智恵子さんというのは、都立大学の建築学科を戦時中に卒業した人で、元、海軍参謀・益山重夫氏の後妻として、結婚をした主婦です。原節子似の近代的なお顔の美女です。が、非常なる働き者で、我が家の東北に面している道路(幅4mの立派なもの)が、その当時は、全部彼女夫妻の、私有地だった(私道)ので、週に、2、回は、落ち葉掃除をしていました。4m✖、40m、を一人で、早朝にです。そして、夜に、重要な、対・私をだますための書類【地積変更届】を我が家に持ってきたこともあるので、住民が、気が付かないうちに、バックミラーを折るなど、お手の子さいさいでしょう。

 その上、高さ5m、幅2mの木製の倉庫を兼ねた、塀に囲まれた自宅内で、せっせ、せっせと、水道山の原始林(一時期は里山だったと思うが、益山氏が、横須賀市に働きかけて、立ち入り禁止にしたので、1960年から、1980年の、あいだにすっかり原始林と化していた)を開墾していたのです。果樹を植えて、あたかも、自分たちの持ち物であるかのごとく、偽装をするためです。

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副題3、『わたくしは小学校、4年生の時(1952年)に、谷川温泉から朝出発して、天神平を通って、谷川岳に登っている。夏休みだったが、森林限界に至る、までの、森林は、非常に美しい混合林だった。植林をされていない自然林だった。その後、転居したありとあらゆる場所で、山林と、遭遇することは、旅行以外は、無かったのだが、1974年から、住みはじめ、1979年に、毎週活動がある、PTA広報委員を、横須賀市、根岸小学校で、引き受けるまで、里山に触れることはなかった。そして、1984年、鎌倉に、引っ越してきて以来、再び里山には触れていない。我が家は、森林の大木に囲まれているが、これは、お百姓さんが入って手入れをしていない山なので里山の、美しさはないのだった』

ところで、横須賀市の水道山が里山だっただろうと、思うのは、この同じ丘の、北側に里山が、残っていて、私は、こどもの小学校のPTAに出席する際には、常に、その山道を通って、一時間ぐらいかけて、通っていたのでした。そのPTA活動とは、島田章三さん(国画会の大物・・・元愛知芸大学長)の実妹である、大沼嘉津江さんが、委員長をしていた広報委員活動で私はその委員会で、島田章三さんの、実像をしたたかに知ることとなります。島田さんは、CIAのご愛顧を受けていたので、横須賀市から、公金が大量に流入する人でした。それを愛知芸大に注いでいたのです。

 そして、そのバーター取引として、陰に陽に、国画会内部で、私をいじめたのでした。私が出品していた(そして、入選していた)1991年から、2001年ごろの国画会は隆盛を極めていて、普通だと、一人の画家の家に置かれるはずの、事務所用に、独立したマンションを借りて(まさか買ってはいないでしょう。今は、使っていませんから)いました。芸大の奥の方です。そこに、過去カタログを見せてもらいに行った時の事です。奥の部屋(6畳程度)に、2mx2mの白木の作業台がありました。口実としては、次年度の、応募用紙を送るために忙しいから、それは、使わせないとのことでした。口実としてです。ところが、私自身がとっくに受け取っているので、その作業はやって居ないことは見え見えでした。入れないというのは、自分たちが、(作業台に置いてある、一山のみかんを食べながら)、雑談をしている姿を見られたくなかったのです。どうして、それを見られたくなかったかというと、専従でお給料をもらっていたからでしょう。だから、遊んでいると、口外されると困るからです。

 そのお給料ですが、2000年当時で広田さんには、300万円から、500万円が出ていたと思います。助手の男性は画家で、この人と、事務専門の女性は、110万円から、200万円の間の報酬だったと思います。あの女性は、国画会内部の誰かのお嬢さんか、奥さんで、国画会から出るお給料で、生活全般を担っているとは、私は思っていません。で、家賃を合わせて安い方を予想すれば、1000万円、高い方を予想すれば、1200万円ぐらいの費用が掛かっていたと、感じます。

 あと都美館(当時)の使用料が、当時で、500万(今はもっと高いだろうが)、交際費(メディアの人を接待したり、他団体との、役員との交流会)に、500万円で、全体で、2000万円で、運営をされていたと思います。交際費とは、実際には、役職についている人が、月に一回程度、1万円から3万円程度の、飲食がタダでできると、言う仕組みです。

 なお、2022年度は、会期が、2週間だそうです。それは、それで、いいでしょう。そうなると新国立美術館の借り賃が、500万円以下と抑えられます。ところで、新国立へ、上野から、移るのは、抽選だと、言われていましたが、それは裏側があって、本当は、嘘だったでしょう。小さい団体は、移動していません。でもね。国画会は、移動をしたことが損だったと、見ています。公募団体展を好んで、見に行く関係者は、高齢者が多いので、六本木に行くのは面倒くさいのです。上のの飛び菅の電灯h重要です。カロンじてゃいけません。

 

 これで、十分に採算が合うのは、収入を計算すると、大丈夫なのです。別に役員ではなかったけれど、私は、すべての減少についてだいたい正しい予算配分を、察知することができるからです。ほぼ、間違っていないでしょう。

 で、広田さんは、なんと、「玄関で、しゃがんで、読め!」というのです。また、「筆記したい場合は、膝の上で、筆記しろ!」というのです。広田さんの絵って、どんなだったっけ? 全然覚えていません。鑑賞者に「これは!、と思わせる力量があったかしら?」 

 しかも、立派なコピー機が置いてあるのに、コピー機を使わせないというのです。50円出します」といっても、使わせないと、強弁します。彼本人は、お給料ももらっていて、しかも島田さんたちと一緒に独立の、絹谷さんたちと、豪華な会食で、私たち、一般入選者が、支払った費用を年間、一人、30万円は、飲み食いに、使っていると思いますよ。でも、カラーコピー、10枚程度、500円を使わせないというのでした。

 私は仕方がなくて、思いカタログを、5冊~7冊程度抱えて、今も存在している、谷中6丁目のコンビニに往復したのでした。事務所って過去記録については、一種の図書館の役目をするのではないですか? おっそろしい。本当におっそろしいです。広田さんの後ろには島田さんがいて、そのまた後ろには、CIAエージェントがいます。それで、彼は、一切の反省の弁を述べません。これが、日本社会の現実です。だから、私は、10年目には、国画かいと、関係を切ろうと、思いました。しかし公募団体展って、足抜けができないのです。一種の花街とか、やくざ組織みたいな、風潮を内包しているので、大変なのです。どういうことかというと、そこをやめても、美術界で生きていこうとするとです。NHKアナウンサーは、独立してても、大丈夫ですね。一種の公立みたいなものだから。だけど、ジャニーズ事務所から、独立すると、大変でしょう。それと同じです。

 なお、私は、2002年の2月に、四月に、応募する予定の、国画会用の作品(100号一枚)を、望月画廊の、ICU同窓会展に出しました。しかし、まだ、二か月あるので、どうして、そこに100号を出したのかはだれにもいえませんでした。そのために、当時、同僚として、そこで、一緒だった、渡辺幸子さんに「川崎千恵子は私を出し抜いて、私に勝とうとしている。こんな、趣味の会に、プロ用の、あんないい作品を出すのはずるい」と、誤解をされて、散々な大騒ぎが起きてしまったのです。

 その同じ会に、石塚雅彦さんが、存在しているので、敵の敵は味方だという事になって、渡辺幸子さんは、それ以降、論功行賞が与えられ、銀座の有名画廊、ガレリアグラフィカで、ただで、個展ができる上に、その準備費用100万円が 👉

こで、家事をするために無断で、二時間休みました。恐れ入ります。その後、現在午後五時ですが、実は、前夜、三時間しか寝ておらず、かつ、既に19時間おき続けているので、よい文章をかける自信がありません。だから、骨格だけ提示しておきます。

 👉与えられる。それは青木繁大賞展という展覧会で、大賞をとったということで、正当化されている。酒井忠康氏指導の下で行われた、CIAエージェントたちの策であろう。その後、渡辺幸子さんをめぐって、種々様々な心理的嫌がらせを受ける。栗田玲子さんがその筆頭に立って居る」と考えられる。

 渡辺幸子さんは、本当は、ICUを卒業していない(入学はした。だが、ご実家の事情で中退)が、私一人を残して、その敵を褒賞し、私を取り残して、無残にさせておくという典型でICU同窓会の管理するサイトで、渡辺真理アナウンサーによる、ロングインタビューが掲載されている。ほかの成功者(または、大衆的社会で、有名になった、メディア露出者)とともに、超上等な扱いを受けている。その時より、気が付くようになった、敵さんの常とう手段で、ありとあらゆるところで、どうとうなケースを発見している。50は、越えるだろう。

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副題4,『廣田成生と、同等か、それ以上にひどいことをしてきたのが指原いく子さんで、その夫たる人は、上品だったが、彼が、富士フイルムの研究所勤務だろうと思うので、

 アビガンの治験中止に抗議をしたいが、指原郁子さんの、ひどい仕打ちを思うと、足が、すくんで、正しいことをかけないのだった。人の人権をひどく傷つけることをやられたと思っている』

 指原いくこさんは、その時の個展、ギャラリーオカベで、女子美の先輩でもあり、国画会中の中ボス、山寺重子さんの作品と、そっくりな絵(8号か、10号程度)をずらっと、30点は並べていた。これは、山寺さんが支配している女性や、男性会員などに、自分は山寺重子の愛顧がある人間だと、アッピールするのが狙いだと思う。

::::::::ここで、挿入となるが、私が、ある方から、聞いた話が裏付けとなっている。もし、現在も生きておられたら、100歳を超えるであろう、有名画家から、直接聞いているのだが、・・・・・山寺重子さんは、中ボスで、票を何秒か持っているのだが、その票だけでは足らないので、島田員子さんと、組んでいるのですよ。そして、お互いに、譲り合って票数を合体し、会員を作って行くのです。本年は、島田さん、あなたの番よ。来年は、私に、ね」という具合にね・・・・・と。それを現実に示されたのが、指原いく子さんだった。::::::::

 それが、暗黙の了解となって、次の四月、会友であった指原さんは、会員になった。会員になることのメリットは、審査が無くなるので、作品を一年に、一つ作るだけでいい。経済的、または、体力の上で、ずっと楽になる。また、画家として、国画会会員というその資格が、パスポートになって、ありとあらゆるところで、威張ることができる。

 指原さんのご主人は、いかにも理系で、東大卒か、東工大卒だと、推察された。お見合いで結婚をしていると思われる。国画会などで活動する作家は、男女を問わず、裕福な人が多い。自分自身が、教員(小学校から、大学まで、種々あるが、国画会のケースでは、大学教授が多い)であったり、NHKなど大組織勤務のサラリーマンであるケース。そして、女性は、その手の夫と結婚をしているというケース。

 この結婚スタイルと、正反対の形が、瓜南直子さんだ。売り南さんの方が画家としては、ずっと、上等だと、思うけれど、直子さんの方は、自分の選んだ思想にがんじがらめになっていて、経済的にも心理的にも相当に苦しんでいた。実質婚の相手、伴清一郎さんは、うつくしくかつ芸大卒で、かつ才能のある妻を支配しているという、メリットを享受しながらも、直子さんの思想に悪乗りして、直子さんに、けいざいていな援助を与えなかった。

 ところで、今、現在の国画会会員名簿を見たところ、山寺さんがいない。で、ぼっ子作家のところをのぞいたら、山寺さんがいた。そのついでに、過去の作家で、亡くなった方を、調べた。10人ぐらい、人となりと、絵を知っている画家がいたが、

 私としては、西野浩子さんが、亡くなっているのでその絵が素晴らしかったと、覚えている。まるで、日本画みたいだけれど、絵画部(主に洋画を発表する場だった)に出品をしている、画家。深い精神性を感じた。一度も顔を見たことがない。パーティなどには、出席しなかった人だと、思われる。また、google 検索で経歴が出てこないので、流通可能なサイズの絵を描かなかったと思われる。売る絵を描かなったので、画家としての足跡が少ないのだ。残念。何もわからない。

 一方で指原さんが、東洋英和の高等部の卒業生であることが分かった。2008年4月22日発行の東洋英和が出版する雑誌【楓風】の13頁に立派な画家として、登場して、立派なことを言っている。

 それで、私は、こう考えた。この人は、昔、鎌倉の西隣に住んでいた、遠藤夫人とタイプとして同類なのだと。「おてんとうさまが見ていますよ。誰も人間は、ほかに見ていなくても」という種類の発想はない。遠藤夫人は、毎日毎日、庭ごみを履いて、一め^取る低い我が家に入れ込んでいた。しかし、養老孟司先生とか、川合良一先生には、ひたすら下手に出たのだと思う。その姿勢で、お嬢さんが、妙本寺に、お嫁入可能だった。日蓮宗の中で、お寺としては、歴史上一番古いそうだ。そういう一宗派のトップの奥さまに、お嬢様が、いずれなっていく。

 いずれ、自分にとって、得になる相手には、ひたすら、下手に出る。そういう人には、かわいいとか善良とか思われるだろう。しかし、相手が、自分にとっては、得にはならない。しかも目下だと考えると、人間性を打ち捨てて、野獣化する。恐ろしい。しかし、指原さんもクリスチャン(ミッション)学園の広報雑誌に、成功した人、第二番目として出ている。これは、CIAエージェントのお指図でしょう。渡辺幸子さんと同じでしょう。中退なのに、堂々と、同窓会サイトで、有名人として扱われているケース。

まあ、いいでしょう。それが、この現代日本で、生きるのに、適切な手法なのでしょうから。

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副題5、『さて、ここで、やっと・・・・・・私には敵がいる。それは、CIAe-じぇんとたちで、どうして、そういう人たちが敵になったか? というと、三つのエポックメーキングな出来事があって、1965年ICUないと、1978年、7月から、11月まで続いた、北久里浜における、大詐欺事件(実質的には、ただで、水道山を、私有化したのだから、大詐欺事件だけれど、書類が、整っているので、事件化できない)の際、に、私が、益山智恵子さんにひき殺されそうになって、

 それを、電話が盗聴されていることを承知で、弁護士さんに報告をしたので、智恵子さんの夫が、その日に、急死したのです。それを逆恨みされているからですで、借りている人の車のミラーを、おったり、借家人が出た後で、植えた杏(起用という特別な種)の莟を、全部、掻き取ったのでした。

 これは、2014年か、2015年に植えたのに、徒長するままで、つぼみが付かないので、そう考えたのでした。

 ところで、この起用は最初に書いた様に、ニューヨークの版画界のいろいろを描いた、情緒的なまとまりを示す、【黄色いさくらんぼ】の中で、書いているので、すでに、重要なアイテムとなっているので、CIAエージェントの手下としての、警察の特殊部隊が、つぼみを掻きとった可能性があります。いまだ、生きている、井上ひさしの命令でね。

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副題6、『ここで、たった500冊程度、銀座の画廊外で、献呈しまくった、【黄色いさくらんぼ】が、2008年の、出版以来、2012年ごろまで、アマゾンで、18000円の値が付いて、中古本として取引をされていたことをご報告をしないといけない。それを書くと、情報が、引っ込められてしまうのだが、きっと、ものすごく面白いのだ。

 その本には、いろいろな人が登場するのだが、最後に二人の対照的な、老人作家、ボブ(ロバートブラックバーン氏、これが、本名)と、エドゥアルド(本名、ホアレス)というカラード(有色人種)の版画家が登場する。

 エドゥアルドは、身体的には、健康に見えたのだが、私が、2000年の11月末にニューヨークを去ると、その9か月後に孤独死する。死因は、貧しさゆえの飢えだったらしい。

 私は、【黄色いさくらんぼ】の中では、まだ、彼に対する同情心が少ないが、今では、深く、深く、同情をしている。そして、申し訳ないと思う。私は、毎日、23丁目の、西側にあった、韓国人経営の、お惣菜や(30種類ぐらい置いてある。冷ややっこさえあった)で、8ドルから、10ドルのお惣菜を買ってきて、お昼に食べていた。部屋の隅で、食べていたが、彼にとっては、目の毒、鼻の毒だったのだ。知らなかった。彼は、毎日サツマイモ入りの蒸しパンを食べていたのだから。一時期、日本人女性と、同棲していた(もしかしたら結婚?)らしいので、サツマイモ入りの蒸しパンの作り方を、知っていて、それを、常食としていたのだった。主食として、使っていて、おかずを買うお金もなかったのだった。まったく知らなかった。

 彼の収入源とは、版画工房における他人の作品の、摺りの手間賃だけだった。ところが、版画工房が、私が去った、直後につぶれる。それは、日本人版画家よよのせいだった。読余は、自分がお金を払わないで、版画工房を使える仕組みを作り上げた。モニター制度というもので、一種のアルバイトだ。それをする人を、自分を入れて、12人選んでいた。それが、若手の重要な版画家ばかりだったので、支払いのモラルが、徹底的に落ちてしまったのだ。それで、モニターをやっていない人も、支払いをやめてしまって、版画工房がつぶれた。それで、唯一の収入源である、摺り代が入らなくなったので、エドゥアルドは、飢えという、今時、珍しい、死因で、孤独死した。

 この先、5万時ぐらい書きたい。酒井氏を批判する要因は、一年に一作、コンクール狙いの作品しか作らないよよを、ニューヨーク在住だというだけで、賞を与えている。読余の制作現場、例えば、実物のカギをニードルで、なぞるだけだったりするを知っている私は、如何に日本の美術評論家の判断が甘いのかを、よよを通じて、熟知することとなった。

 だから、私は渡辺豊重、X 一ノ瀬智恵乎に、共同して、いじめられることとなった。原因がわからなかったのだが、三鷹ストーカー事件の被害者、鈴木紗綾ちゃんが、一ノ瀬さんのお嬢さんだと、わかって、急に一切の原因がわかったのだった。

 私は、その事実を一か月後に知った。で、いわゆるリベンジポルノは、すでに消えて居たが、衝撃的な事件だったので、動画以外の情報が、一か月後にもいろいろ残っていた。その中で、・・・・美術9条の会・メンバー票・・・・・というのがあって、それで、一気に色々なことがはっきりしたのだった。

 渡辺豊重、野見山暁次、赤津侃ほか、25人が、委員で、会員は、アから始まって一ノ瀬さんのところで3行ぐらいになり、そこで、切れていた。井上ひさしの名声(?)で、しかも反戦だというので、みんなが飛びつく。だが、その会の本当の狙いは、一次会のシンポジウムなどに在るのではなくて、二次会とか、飲み会に在って、その際に、私の悪口を美術界の隅々まで、浸透をさせることが目的だった。だから、事前に何の悪辣な因果関係がない、一ノ瀬さんが、それに乗せられていて、私を軽蔑しているのだった。この件は、なぜ、いけないかを、心理学の側面から、特に教育心理学の側面から、丁寧に書いている。

 だが、別の原因もある。

 本日は、第二の面から入って行こう。この美術9条の会の、委員には、美術評論家が多い。彼らは、金銭的な謝礼をとっている。そこへ、私が無償で、美術評論を書き始めた。私は、自分が書いてるうものは、個人的な感想だから、と、思っているので、むろん、謝礼は取らない。それが、美術評論家たちから、自分たちの大切な、稼ぎ場所に殴り込みをかけていると、誤解をされたのだった。

 私は、本当に誤解を受けることが多い。

 この先、莫大なりょうのぶんしょうを置きたいのです。ニューヨークの文化遺産・ホテル・チェルシーが、いつの間にか、日本の富豪、森コンツェルンに買収されていたとか。しかし、無理をすると、自分で死期をはやめているということと同じなので、寝ます。すでに、22時間起き続けているので。

 

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