新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

一日、1「マンボー」歩くぞー!!!…もとい…1万歩歩くぞーと思って名古屋城!!

2023-06-09 06:37:39 | 歴史史跡

2022年1月のこと…

もう新型コロナウイルス感染症が蔓延しだしてから、2年が経とうというのに

またまた「第〇波」とかいって、感染者数増大!

で、もう忘れるくらい何度も経験している「マンボー

最初、国のお偉い方が「自粛!自粛!」というから、昔から、言われたことは守る子でしたので、そのとおりに自粛して

マン画」なんぞ読んで、動かないのに、食事は「マン腹」、ボーッと休日を過ごしてたら、お腹の「しボー」がとんでもないことになってしまったのよ!!

 

もう、同じ過ちは繰り返したくない!!!

 

一日、1マンボー歩くぞー!!!…もとい…1万歩歩くぞー

と目標を立てて、さて、どこを歩こうかってことですが、ただ「ボー」と歩いてても面白くない!!

 

 

そう、私は「城マニア」

もう何度も行ってるお城ですが…ここはウォーキングがてら、1月のクソ寒い城を歩こうと…

行ってきました!!

 

名古屋城…

 

 

地下鉄市役所駅(現、名古屋城駅)で降りて…

 

あ、この「NAGOYA」モニュメントのそばにも、寒すぎて、もしくは「マンボー」でコロナが蔓延しだしてるせいか、誰もいませんな…

映像で、徳川宗春公がお出迎え…この映像は、見た方がエエゾウ

 

 

城マニアの中でも「石垣フェチ」の私…もう何度も、この光景をみてるけど、テンションがあがる!あがる!!

 

 

これを敵にみつからずに、よじ登るのはとてもじゃないが不可能じゃないだろうか…いつも、この光景を眺めてて思う!!

 

 

さてさて、この名古屋城の本物のシャチホコは天守閣の上に乗っかってますが…

ニセモノのシャチホコが正門近くに飾られていて

 

一緒に写真が撮れちゃう!!こんなふうに…

 

 

さて、この名古屋城が建っていた場所には、もともと室町時代に「那古野城」と呼ばれる城が築かれていて、今川氏親が今川氏の最前線の拠点として築いた城だったんだな…

室町幕府が没落すると、尾張守護代であった織田家の中でも、信長の父・織田信秀が、1538年今川義元の弟・氏豊の居城だったこの城を奪い取る…

その後、1546年頃には、古渡城を築いて居を移すと、信長がこの城の城主だったこともあったようで…

その織田信長の生誕地かも…と言われている那古野城

 

このレプリカ金シャチの近くの総合案内所で…

今流行のご城印が、な、なんとタダで…タダで…私の大好きなタダでいただけました…笑

 

私、城マニア…といっても、ご城印なんぞ集めてはいませんが…タダだと嬉しい…ちなみに「名古屋城」のご城印は300円で販売!!

はい、私…ご城印を集めている訳ではないので…買いませんでした…いただくとき、受付のオネーサンからいかがですかと勧められてもらったけど…

 

城内、二之丸庭園の手前に

 

 

この那古野城址の案内看板と

その右側に石碑がありますが…

 

ほとんど読めないけど「那古野城」と刻まれていると思われる!!

ほら!「那」が読めた!!!

 

その近くに「青松葉事件之遺跡の碑」があることを今回初めて知りました…

「青松葉事件」とは…幕末、尾張藩の実質的な権力を握っていた勤王派の徳川慶勝が、徳川家を守ろうとする佐幕派の藩士14人を処刑した事件とのことで…処刑された14人の中の尾張藩の重臣だった渡辺新佐衛門の異名が「青松葉」だったため「青松葉事件」と呼ばれたとのこと

渡辺新佐衛門らは藩主徳川義直を擁立して関東に下り、旧幕府とともに新政府軍と戦おうとしていた…それをさせまいと起きたこの事件

さて、ちょいと離れた「二之丸広場」の手前には…
もう一つ「藩訓秘伝の碑」という石碑が…
この石碑には、初代尾張藩主徳川義直が定めた藩訓の第1項に「王命に依って催さるる事」と書かれていて…これは「天皇の命令には絶対服従」とのことで、それが尾張藩の大原則…
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れ、天皇から姦徒誅戮(新政府に抗う者の誅戮)という勅命が発せられた以上、新政府軍支持に回らざるを得ないというのが、勤王派の徳川慶勝の考え…だったようで…一方で、青松葉事件は、佐幕派以外の処罰者も含まれていたことから、藩内の権力闘争という見方もあるとか…
 
 
 
いやあ、今まで気づきもしなかった名古屋城にある、こういった石碑…
こんな歴史があったなんて、知らなかったし…今日、ウォーキングをしにきてよかったなと…
 
「幕末」って、江戸、京都のことばかり描かれるけど、名古屋にもこんな旧幕府軍と新政府軍に関わる対立するような大きな事件があったんだ…と言うことを知ることができて…よかった!よかった!!
 
 
 
さてさて、二之丸庭園の横、東門入ってすぐの庭園が
 
二之丸東庭園
 
 
明治の初め、陸軍鎮台分営が郭内に置かれて以来、二之丸庭園内にある権現山の南側を削り、池を埋めるなどして兵営化が進められていた場所で、原型なんぞ、とどめていませんでしたが…
昭和50年から、絵図に基づいて一部の発掘調査を行い、そこで現れた北池・南池・霜傑亭跡・北暗渠の四つの遺構を中心に整備して、昭和53年「二之丸東庭園」として開園したとのこと…
 

もう池ではありませんが、もともとは池だったんだなとわかるくらいに復元されています…

 

東庭園

 

 

このあたりをぶらぶらと

旧二之丸…東二之門をでたところには

石垣だったらしき巨石がごろごろと…

 

 

二之丸広場、あるいは二之丸庭園で整地したときに、でてきたものがここにまとめられているのでしょうか…

石垣、そして、外堀を眺めながら

 

 

この後は、さらにウォーキング目的で

二之丸庭園へと

二之丸庭園は、尾張藩の初代藩主、徳川義直が築いた庭園で、元和年間(1615年〜)に二之丸御殿の造営にともない御殿の北側に聖堂を中心として作庭された大名庭園

明治になって、陸軍省が入り、築庭当時の建物はすべて失われたものの、戦後になって、当初のものよりかなり改変されていたが、築山や大形の庭石、青石を用いた石組等が残存しており…

昭和28年、国の名勝に指定

その後名古屋市によって主要部が整備公開されたこの庭園をぶらぶらと…

前庭…二之丸庭園の入り口ですね

 

 

 

 

そんな二之丸庭園にある「栄螺山」

最初、古墳かと思っちゃいました…

お魚咥えたドラネコを追いかけてる女性みられませんでした…それ「サザエやなー」…これは「サザエヤマ」

その右側の岩山は、たとえば中国から伝わるなにか(蓬莱山とか??)を表現していたのでしょうか

 

相撲取りの親方みたいだな…

小学生の頃は、初代貴ノ花がヒーローみたいだったことを思い出す…

 

その廻りは池がぐるりと囲んでいたようで…

北園池

 

 

 

「ごんぎつね」の「ごん」はみあたらないけど…

権現山

 

旧二之丸…東二之門をくぐって

 

 

この門の正面にみえるのが

 

この石垣の左側にみえる巨石が

 

「清正石」

大きさ約八畳敷、重さ推定10トンとされる名古屋城の石垣で最大の巨石…この石を清正が運んだという伝承があり「清正石」と呼ばれているこの石…

 

でも、この石垣の施工大名は黒田長政なので加藤清正が運んだ巨石というのは事実と異なるようで…

なんか眺めてると

あの世で、黒田長政の無念が伝わってきそう…

この像は、加藤清正でなくて、黒田長政であるべきだと!!…「加藤清正が運んだ話は「黒」だ!」なんて叫んでいそう!!

この巨石を運んでもいないのに、運んだように思われているラッキーな加藤清正さんがいました!…笑

「虎退治」はできても、新型コロナウイルス退治は難しいようで…ちゃんとマスクを…これは「清正の意思」でしょうか…

だから「清正いし」…苦笑

ちなみに私、小学生の頃「清正石」はこの加藤清正が立っている、この写真の石のことだと、固く信じておりました…

 

 

汗…さらには、実際は、加藤清正は指示するだけで、運んでないやないか!!実際に運んだのは、清正に命令されてる下級民衆やないかと!!…そう思ってた、小学生の頃が懐かしい…笑…

あの頃、私は心がピュアだったのに…歳を重ねて、今となっては、こんなに心が澱んでしまったのは

ある面「しか」たがない!!

 

 

そう…最後に紹介するのがこの動物…

内堀で、なんか久しぶりにこの動物を見た気がしました…

「鹿」

 

 

 

 

「ヒマン」になったのは、食っちゃ寝!してたから「しか」たがない!!と言わんばかりに…「ヒマン」解消のためには、運動「しか」ない!!と言わんばかりに…この連続のオヤジギャグ、つまらなくて、あ「しか」らず…

 

ちなみに…これで今回のブログもおしまい

「しか」らず