大正の…昭和の…街並みが残る
羽島市竹鼻地区
羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館のあった場所は
竹ノ鼻城があった場所で
道路挟んで、その向かいには
お城地蔵大菩薩
1600年、織田秀信の配下にあった竹ヶ鼻城は関ヶ原合戦の直前、福島正則ら東軍に攻められて落城…
この時の戦没者を供養しようと、昭和になって建立された地蔵様
この時の戦没者を供養しようと、昭和になって建立された地蔵様
その奥にあるのが
今回紹介する
真宗大谷派・竹鼻別院
樹齢300年以上といわれる「竹鼻別院のフジ」が有名で…
「藤」の季節には、この境内で「美濃竹鼻ふじまつり」が行われ、多くの人で賑わうようですが、私が訪ねたのは、2022年1月
「フジ」など咲いている訳がなく…案の定、誰もいません!
100パーセント、ソーシャルディスタンス!!
立派な1本の「藤」…
ぜひとも、また「フジ」の季節に再訪したいものだ
それまで、「フジ」で…もとい「ブジ(無事)」で元気でいられるようにと古木に向かって手を合わせる…
さてさて、この「竹鼻別院のフジ」は境内にあって、当然、山門をくぐらないと、お目にかかれない訳で、前後逆になってしまったけど
山門
1833年に建立された山門は「御坊大門」と親しまれていたが、濃尾大震災で倒壊
現在の山門は、1925年に再建
倒壊した山門と同様「唐破風造」で、桃山式の風趣を伝える極めて華麗な山門であるとのこと…棟梁は、本堂と同じ伊藤平左衛門さんだそうな
鐘楼を眺め
手水舎が見当たらなかったので(参拝後にみつけた)持参の手指消毒液でシュッシュ!!
果たして、これが手を浄めたことになるのかわかりませんが…
その後、本堂へと
竹鼻別院は、1235年、親鸞聖人が関東から上洛される途中、三河国矢作の柳堂に立ち寄り布教された…その時、尾張国葉栗郡門間庄の住人河野四郎通勝は、同郷の八人とともに帰依し、木瀬に草庵を結んで聖人を招いた…この草庵が竹鼻別院の前身といわれている…
この時、門弟となった九人がそれぞれ開いた道場は、室町時代中期には木曽川両岸の美濃国と尾張国に分かれて点在し、河野九門徒と呼ばれて濃尾真宗門徒の中心となったそう
この時、門弟となった九人がそれぞれ開いた道場は、室町時代中期には木曽川両岸の美濃国と尾張国に分かれて点在し、河野九門徒と呼ばれて濃尾真宗門徒の中心となったそう
1470年に、八代蓮如上人が当地に下向され、洪水で流出した木瀬の草庵を再興し、「河野御坊」と名づけたといわれ、その後、専福寺と改称
元亀・天正年間の、織田信長との石山合戦(1570~80)には、河野門徒も馳せ参じ、専福寺住職らが討ち死にしている…
石山合戦後は教如上人に従い、1602年の本願寺の東西分派に際しては東本願寺に属した…1604年、竹鼻下町に移転し、1607年には本願寺十二代となった教如上人によって御坊に取り立てられ、近郷の東派五十四カ寺を附与されているとのこと…
その後、二度の火災に遭い、1760年、さらに現在地に寺基を移転
「本堂」「山門」「経堂」などを建立するもこれらの諸堂は1892年の濃尾地震でことごとく倒壊した…
しかし門信徒によって仮御堂が建てられ、親鸞聖人以来の法灯は護られ、現在の本堂は1922年に建立、山門は1925年に造られた
1876年に竹鼻別院と改称され、専福寺住職が輪番を勤めることとなった…これにより、専福寺は住職持ちの寺院ではなくなったので、住職は取り消しを求めて本山に訴えを起し、その結果、専福寺は地所や本尊・御影を授与されて別に再興された…
親鸞聖人旧跡の木瀬草庵は専福寺と竹鼻別院に分立し、別院へは本山から輪番が派遣されるようになり、現在に至っているとのこと
そんな竹鼻別院本堂にて、合掌!!
その後は、本堂から境内を眺め
再建された「経堂」
さてさて、ここで目に留まったのは
「竹中伝六喜伯之墓」
この方は幕府の直臣で、1754年、薩摩藩が幕命によって実施した宝暦治水工事の御手伝普請を監督するため、当地に来て御小人目付となった方
彼の担当であった一の手普請場の第一期工事は1754年3月に完成し、 逆川締切などの第二期工事も年内に完了して、ただ検分を待つばかりとなっていた翌年1月13日、突然、この竹中氏が竹ヶ鼻村の止宿先旅館藤丸屋平右衛門方に於て刺刀で自害を遂げたとのこと
その理由は遺書もなく不明であるが、恐らくは監督上の責任を負ったものと思われるとか…
彼の担当であった一の手普請場の第一期工事は1754年3月に完成し、 逆川締切などの第二期工事も年内に完了して、ただ検分を待つばかりとなっていた翌年1月13日、突然、この竹中氏が竹ヶ鼻村の止宿先旅館藤丸屋平右衛門方に於て刺刀で自害を遂げたとのこと
その理由は遺書もなく不明であるが、恐らくは監督上の責任を負ったものと思われるとか…
宝暦治水工事では薩摩藩士51名が自害、33名が病死といった治水工事を背景にして、多くの尊い人命が失われたことによる自責の念が感じられる…
平田靱負を中心とし行わさせた宝暦治水工事は、あきらかに幕府の嫌がらせ
宝暦治水工事に薩摩藩が使った資金は約40万両(約300億円)といわれている… この治水工事で大名を痛めつけ、薩摩藩の力を削るのを目的とした政策
その監督をしていたこの方、竹中伝六喜伯は、幕府のお方
治水工事のプロでもないシロート同然の薩摩藩士が理不尽で悲惨な扱いを受けながら働いて死んでいく様子をずっと見ていて、それも監督の立場なので、もっと働けといっていたのか、薩摩藩士の不満を浴びていたのか、真相は定かではないが…どういう想いだったんでしょう
人として…
眼を閉じて、手を合わせる…
竹中伝六喜伯が自害した真相は闇の中
ふと森友事件の公文書改ざんで亡くなった官僚とかぶって思えてきた…
竹鼻別院参拝だったのでした…