新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

桶狭間の戦い…名古屋市にある桶狭間古戦場公園ではなく…豊明市にある「桶狭間古戦場伝説地」に行く…

2023-06-12 05:56:13 | 歴史史跡

NHK大河「どうする家康」に便乗して

桶狭間の戦い

この桶狭間の戦い…

桶狭間の戦いというんだから、桶狭間で戦いが起きたことは間違いないんだろうけど…実際、具体的に、どこで起きた…どこで、戦ってた…なんてことは、はっきりわかっていないのか…

名古屋市から見れば

以前、このブログにもアップした

桶狭間古戦場公園

 

「桶狭間古戦場公園」(桶狭間の戦い…今川義元公戦死の地)に行く!!)

その片隅には




「今川義元戦死の地」


その右側…
写真の中央には
今川義元公のお墓




ここに足を運んだ時は、ああ、ここで今川義元公はお亡くなりになったのね…なんて思って帰ってきたんだけど

 

豊明市サイドからみれば

名鉄中京競馬場駅そばのこの日本庭園風に残された公園が

桶狭間古戦場跡であり

今川義元公がお亡くなりになった場所なんだな…

まあ、私の勝手な妄想を含んだ想いを露呈すると、今川義元公はきっと二人いたんだな…で、一人は名古屋市の管轄する「桶狭間古戦場公園」で殺されて、もう一人は、今回紹介する豊明市の「史蹟桶狭間古戦場」で殺されて…

あ、どちらかが影武者、まあ今川義元公のそっくりさんだったので、織田側もまあ、二人とも殺しておけば問題なかろうって??

で…どっちがどっちか今川義元公が殺されたホントの場所はわからないということで、お墓も二つ作っておいたみたいな…

 

いやあ、歴史って、このように妄想することが一番オモロイよね!!

 

さて、今回紹介する豊明市の「史蹟桶狭間古戦場」

「桶狭間古戦場伝説地」と呼ばれていて

こちらは、なんと国指定史跡なんだな…

国指定史跡なんて言われると、こちらがホンモノっぽい気もするけど…今、マイナンバーカードのトラブルとか、国にはイロイロ不備があって、かえって国指定史跡なんて言われると、怪しい…

 

桶狭間の戦いは…

名古屋市サイドの「桶狭間古戦場公園」かもしれないなって…

事実を知っているのは、お空にいる今川義元公だけ??

 

と前置きをだらだら述べたところで

今回は国指定史跡といった怪しさが漂う??

「史蹟桶狭間古戦場」こと「桶狭間古戦場伝説地」を紹介しよう…

日本庭園っぽく整備された公園

東屋なんぞあって、くつろげます…

特に、夜中に一人で、ああ、ここで武士がたくさん殺されていたんだろうな…と歴史のロマンに想いを馳せると…

そこで、物音でも聞こえてこれば

下手なジェットコースターよりも、ウンとスリルがあると思います…

とか言いながら、廻りにはお寺があるけれども、他は駅前で住宅地に囲まれて人出の多そうな場所にこの公園はあるんですけどね…

 

歴史を感じる

「古戦場」と書かれた木製の看板

 

みどころがいろいろあるよう…

「おばけ地蔵」???やっぱりでるんだ!!足のないお方たちが…

 

公園の奥にも

「桶狭間古戦場址」の石碑があって

その横には

弔古碑

まったく何が刻まれているのかわかりませんが…

今川義元の重臣、松井宗信の子孫で津島神社の神官・氷室豊永が建立したそうで
この碑文には桶狭間の戦いを回顧する文面や詩が刻まれていて、尾張藩初代藩主の徳川義直が執筆した「成功記」と内容が一致していることから、尾張藩からこの碑の建立を許可されたものであるよう…

そして、この近く…側道沿いには

今川治部大輔義元墓

かつては塚があるだけだったというが、明治時代に墓石が建てられたようで、江戸時代から、ここが今川義元が討ち取られた場所だと信じられてきたらしい

この横たわった木は

「駒つなぎのねず」

今川義元公がこのねずの木に「駒」をつなぎ、ここで酒宴を張っていたところ、たまたま雷雨となり、織田信長の急襲を受けたよう

このそばには

七石表の案内看板

「今川義元が戦死した場所を示す最も古いものである」という石碑

もう風化して、何が刻まれているのか読めませんが

七石表は、古戦場伝説地の中で一番古い史跡で、1771年12月18日に尾張藩士 人見弥衛門・赤林孫七郎により建立
全部で7本あり、全てに「桶峡七石表之一」と彫られ、6本は伝説地内にあり

一号碑には、「今川総介義元戦死所」と刻まれているのが、これ…

お墓の裏、道路沿いに

「今川義元公戦死所」と示す石碑が…

「七石表」の石碑は公園内を散策すれば、あちこちに散在してて、なんせ広くない公園ですのですぐに目に留まります

 

さらには公園内を散策すると

江戸時代の歌人、香川景樹がこの地で没した今川義元のことを偲んで

「跡とへば昔の時のこえたてて 松にこたふるかぜの悲しき 景樹」

と刻まれた石碑がありました…

公園を散策すれば…もうのどかな街の憩いの公園のような雰囲気で…

そして側道を挟んだ、高徳院の敷地内と思われる土手には

「徳本の名号」

桶狭間の犠牲者を慰霊するため文化文政期の徳本行者が建立した慰霊碑

その横には

今川義元仏式の墓碑

 

方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔

そばにいるたぬきは今川義元公が化けたたぬきか、もしくは徳川家康公かも??

ここには仏像や石碑が立ち並んでいて

 

「阿闍梨締念の墓」

このお墓は、桶狭間の戦いとは関係なく高徳院に関連する僧侶のお墓も知れないな

お化け地蔵

このお地蔵様が建立される前はお化けが出没し放題だったんですね

そんな仏像や墓碑が、この竹林の中に散在

その横に側道沿いに並ぶ石仏群、実にシュールな光景

まあ、側道は車の往来が多くて、それほど、実はシュールではありませんでしたけど

 

さて道路を挟んだところにあるお寺が

高野山真言宗の寺院…香華山高徳院

空海開創という古刹

当然、ここも桶狭間の戦いが繰り広げられた場所でして

高徳院 桶狭間古戦場絵図は、歴史を重ねて、判読が難しくなってはいますが

立派な山門

 

仁王様が睨んでます…でも表情がちょっとユーモラス…

この山門をくぐったところにあるのが

「桶狭間古戦場」を示す石碑と

今川義元公本陣跡を示す石碑

本来、古戦場伝説地内にこの石碑の建立を求めたが、国指定史跡のため建立が認められず、高徳院内に建立されたそう…なので、ホントの本陣地は、先ほどの公園のようで…いや、あの公園が、ホントに本陣地だったってことすら怪しいんですけど…名古屋市の主張する桶狭間古戦場公園だったかも知れないし

でも石碑が「今川義元公本陣跡」とあるので、ここで、今川義元が腰を降ろして酒宴を行っていた様子が目に浮かぶようで

 

この境内からみえる…眺める…奥の方にある朱色の納骨堂である瑜祇塔がもうデカくて圧巻で

 

散策がてら、瑜祇塔に向かって歩いてみる、その途中には

「桶狭間七石表二号碑」

そして、松井兵部少輔宗信墓が

今川義元とともに討死した今川家重臣、松井宗信の墓碑

ちなみに、本堂とか、咲き誇っていた紫陽花もかな…高徳院は、どうやら撮影禁止のようで…

この後、さっさとスマホの電源をおとして、本堂で合掌して、高徳院を後にしたのでした…

 

中京競馬場駅へは徒歩五分

帰りに眺めた

中京競馬場駅前の像の子供は、今川義元ごっこをしてるのかな

兜(かぶと)を被ってる少年の目には、今川義元公が目にうかぶとか…

 

お父さんが指す指の先には今川義元の亡霊が…みえてるような

それをみて、お母さんは言葉を失っているような…