荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

今治藩主の墓

2015年06月12日 | 散文
先日帰省した時の報告です。

水に浮かぶ今治城です。

国内屈指の水城と言われています。

旧国道沿いに「今治藩主の墓」の案内板があります。

その存在を随分前から知っていましたが、一度も行った事がありません。

今回、思い切って(思い切るような事でもないと思われますが、行きづらいまま過ぎていました。子供心に「墓=死」が恐ろしかったのだと思います)行ってみました。

もう、一人でも行けます。

緩やかな坂に向かって歩きます。



すぐに石段が現れます。

緑深い坂を登って行きます。

石段が続く急坂の向こうが開けている気配があります。



もうすぐのようです。



今治藩主の墓所が山の上に現れました。

(参道から墓所を見る)

(案内板の表示内容)
今治藩主、初代久松定房、三代定陳、四代定基の墓所である。久松氏は徳川氏の一門であり、また松山藩久松氏の分家でもある。藤堂高虎が伊勢に移った後へ、寛永12年(1635年)久松定房は伊勢長嶋6千石から、4万石(後3万5千石)今治藩に転封になった。それから10代明治に至るまで、代々今治藩主として藩政を行ってきた。
この山は通称古国分山といわれ、山上中央には初代定房、左に三代定陳、右に四代定基と巨大な三基の宝侠印塔形の墓石が瓦葺土塀に囲まれている。
石畳の参道の両側には60基ばかりの灯篭が並んで藩公の墓所にふさわしい所である。
久松家300年は平和に満ち、政治に心を注ぎ産業の発展に努力した。
江島為信、深上安圀らを抜擢して堅実な藩政の基礎を作った初期数代の治績はよく知られていることである。
(雑感:二代目と五代以降の墓はどこにあるのだろう?)


(初代の墓から参道を見る)

南には唐子山が見えます。

唐子山には今治城の基となった城がありました。

唐子山を山頂として円錐状に広がる丘陵には前方後円墳をはじめ、弥生時代末期からの土壙墓、円墳、方墳など100基以上の古墳が分布しています。

温暖で自然災害のない、物なりの豊かな場所であったと思います。

唐子山の山みちにある道標です。
国分寺に向かってママチャリを漕ぎます。

山みちの登りは辛いです。
途中から押して上がります。


(余談―1:小学校で教わった話)
藤堂高虎が伊勢に移封された時、彼は天守閣を解体して持って行きました。
その際「たかだか6千石(後任の久松家が伊勢で6千石だった)に天守閣は要らない」と言ったとか。
但し、このセリフは徳川御一門に対して言ったかどうか、子供の頃から疑問に思っています。

彼が天守閣を持って行って以降、今治城には天守閣が無かったと聞いています。
今の天守閣は平成になってから再建された記憶があります(自信ありませんが)。
従って、藤堂高虎が造ったものを再現できているか疑問です。
図面も、かの地での再建に必要でしょうし、敵になるかも知れない他国には残して行かないと思います。

それでも今治城には藤堂高虎の騎馬像があり、10代治めた久松一族の像はありません。
藤堂高虎の方が有名人だから観光政策には都合がいいのでしょうか?
彼の前には福島正則も治めています。
戦国時代のスター及び徳川一門が治めているところをみると、海運が盛んで物なりが豊かな、重要拠点であり人気の領地だったと思います。

(余談―2)
子供の頃一番の繁華街だった「今治銀座」の現在の姿です。

夏には「銀座夜店」が開催されて、よそいきを着て出掛けた場所です。
コメント (9)
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