荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

芸予要塞跡(小島)へ行く-1

2015年06月27日 | 散文
子供の頃から、今治沖の小島に要塞跡があると聞いていました。
今回の帰省で行ってみようと思い立ちました。


(各種資料要約)
小島は、明治35年に芸予要塞が置かれた島です。
日露戦争に備えて造った施設です。
島内には、ロシア艦隊迎撃に備えて造られた砲台、弾薬庫、司令塔等々の施設が保存されています。
南部、中部、北部の3か所に砲台が築かれ、中部砲台に設置された28cm榴弾砲6門をはじめ、加農砲、速射砲などが備えられていました。
明治37年2月に日露戦争が勃発し、国内の海岸要塞から28cm榴弾砲が旅順等に送られました。
小島から送られた6門のうち2門が、旅順要塞攻撃に使用されました。
芸予要塞は大正13(1924)年に廃止されたのち、当時の波止浜町に払い下げ保存が図られたことから、要塞としての実質的期間が短く、結果として、全国的にみても日露戦争前の要塞としての状況を今日まで良く残しています。

全島要塞化しており、多くの施設がある為(定期船の運航時間の制約もあり)、2日に亘って訪問しました。
報告も数回に分かれると思います。

船は、前回報告した、波止浜から来島を経由して渡ります。

小島の全景です。
三つの山が、それぞれ南部・中部・北部の要塞です。

小島港に着きました。

乗客は、1日目/私とお婆さんの二人、2日目/私と釣り人の二人です。

いきなり、28cm榴弾砲が迎えてくれます。

これは、レプリカです。
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の撮影の為、当時の資料をもとに忠実に作成されたものです。
松山市が譲り受けたのち、ゆかりの地、小島に設置したものです。

この台座を記憶していたので、この後砲台を見学した時にその構造等が推察でき、大いに役立ちました。

(砲手でしょうか、猫が座っていました。)


<南部の施設>
(探照灯台跡)
説明板を読みます。
「探照灯跡
石の階段と赤レンガで築かれたこの探照灯跡は、北部砲台の探照灯とともに、芸予要塞の一翼である小島砲台の重要な機能であります。
探照灯(サーチライト)は、夜間に海峡を往来する船舶を確認するための照明で、一説には灯火は波方町の大隅の鼻の岩場まで照らしていたといわれています。

今は台座の施設しか残っておらず、探照灯がいつの時期に撤去されたかは資料も残っていません。
先の灯台(黒灯台)付近は、浅瀬で干満時には川のように流れる潮流が見られます。
向かいの波止浜湾ではこの自然の干満差を利用して塩田や造船業が発達しました。」

内部の様子。



探照灯台上部の様子。



「発電所跡 南部砲台跡」へ向かいます。



(発電所跡)
この島の赤レンガの施設は英国式工法で建てられたものです。





所々展望が開けて、瀬戸内海としまなみ海道の景観も楽しめる散策路です。



<南部砲台跡>
説明板の記載内容
「この南部砲台は、小島の中で一番南側の砲台で規模は小さかったが、馬島から糸山間の来島海峡を防衛する位置にあります。
当時の日本(陸軍)は、帝政ロシアの東アジアへの侵攻に対して、国内の沿岸に防衛体制として要塞の配備を進めました。
石垣の石は、当時1個が3銭で、人夫の賃金が27銭であったと伝えられ、小島要塞の全構築費用は、当時の金で30万円であったといわれています。

砲台の設計図は、陸軍工兵大佐上原勇作(後の上原元帥)によって作成されました。
整地工事は広島側の業者が請け負った労力だけでは足りず、今治側からも数百人が参加し、明治33年(1900年)に終わったとされています。
大砲の据え付け工事は軍の機密を保つため、要塞司令官と地元有力者が選定した作業人員で務め、厳しい秘密厳守を課し、近辺の地域住民にも守秘を強いていました。
南部砲台跡には、竣工当時は軽砲(12cm加農砲)2門が備え付けられていました。
現在は、砲座跡と地下兵舎が残るのみであります。」



(砲座跡)



(地下室跡)
ここだけでなく、砲台ごとに地下室があります。







弾薬庫跡へ向かいます。


今日はここまで。
・・・次回に続きます。




コメント
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