荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

故郷は「世田山の戦い」の地-3

2015年06月18日 | 散文
昨日の続きです。

奥ノ院に着きました。
左側には居住施設があり、最近まで住んでいた気配があります。

左奥に一輪車が置いてあります。

右側に墓所がありました。
(案内板の表示内容)
「大館氏明公墓所
南朝の忠臣大館氏明公は、新田義貞の甥にあたり武勇すぐれ、伊予の守護に任じられ世田城主となる。

伊予の宮方(南朝)を守るべく活躍するも、1342年(興国2年)北朝方細川頼春の大軍1万余騎(筆者雑感:脇屋儀助の碑には7千とあったが、まあいい)が攻め入り遂に力尽き城に火を放ち17勇士とともに切腹する。時9月3日、氏明38歳なり。
これを世田山の合戦という(太平記より)。


この墓は1837年(天保8年)氏春(17代)建立する。寺説では左後ろの小さな墓が元々の墓といわれる。

世田山城はその後も2度の大戦(1364年と1379年)がある。
名実共に世田山城は中世伊予の国の防衛拠点であった。
楠河公民館・楠河地区生涯学習推進委員会」

大館氏明と脇屋儀助の関係を夫々の説明板から整理するとともに、その背景と結果を推察してみます。

大館氏明は新田義貞の甥であり、脇屋儀助は新田義貞の弟です。
ともに同時期に38歳で死亡しているので、大館と脇屋は親子ではなく甥・叔父の関係でしょう。
脇屋が従三位で、大館が正四位なので、脇屋の方が位階が上です。三位以上は「公卿」で、名前に「公」を付けて呼ばれます。
四位以下は「朝臣」です。
両者の死は、大館が興国2年、脇屋が興国3年と記載されていますが、西暦表示はともに1342年となっているので、脇屋が5月に、大館が9月に相次いで死亡したようです。
一方、南朝は後醍醐天皇以降、3代で消滅しています。

つまり、後醍醐天皇の後継者後村上天皇は各地の戦いで有力武将を失った。
そこで、南朝方の軍事的支柱であった新田義貞の甥大館が支配していた伊予に叔父の脇屋を南軍の総帥として派遣して不利な体制を挽回しようと図ったが、両者が相次いで死亡したことで軍事的背景を無くし、南朝方が衰退していった・・・。
こういうことでしょうか。

(筆者余談)
子供の頃母の妹の嫁ぎ先は「お世田山に先祖のお墓があって、年に1度親戚が集まって供養する」と聞かされた私は、「不便な山の中にお墓があるなんて、嫁ぎ先は樵の家か?」と思っていました。
ここのことだったのですね。でないとそんなこと言わないし・・・。
じゃあ、十七勇士の一人じゃないですか!
誰も詳細を教えてくれませんでした。
それとも、この時もひとの話を聞いていなかったのでしょうか?・・・。

暫く佇んでいました。


お墓の前に山みちは続きます。

山頂に向かって進みます。

振り返ると、お地蔵さんの向こうにお堂が見えます。



けっこう峻嶮です。

一瞬、引き返そうと思いましたが、「年齢的に、ここで諦めたらもう世田山には登れない」と判断して、進みます。

次回(最終回)に続きます。


コメント (2)
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