荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

伊予国分寺

2015年06月15日 | 散文
昨日カヌーの片づけをしていて、またぎっくり腰になりました。外出できません。
従いまして、帰省時の報告が当分続くと思います。

国分寺に着きました。
50数年ぶりの訪問です。
小学校1年生の遠足で訪れて以来です。

ここから南2Km弱の所にある小学校にとって、距離といい歴史を教える素材といい、1年生の遠足には最適の場所だと思います。

お遍路さんがお参りしています。



階段がありますが、私の記憶に違和感があります。
記憶では、石段が無い・・・。

冷静に考えると、国分寺くらの大きなお寺には、石段位あると思います。

他にもお参りしている方が居ます。

お遍路さんの存在は予想されたことですが、この本堂及び境内の様子と私の記憶の国分寺が、全く一致しません。
ちょっとショックでした。
あれは、どこの記憶なのでしょう?
探してみたくなりましたが、それは無理でしょう・・・。

お遍路さんの訪問が途切れることはありませんが、私はショックのあまり、お参りもしないで石段を下りてしまいました。




この石像と握手だけしました。
最近の新しいものだと思います。

もちろん、記憶にありません。

お寺の近くに、「史跡 伊予国分寺塔跡」の石柱が建っていました。

ここも、全く記憶にありません。

(案内板の表示内容)
「史跡 国分寺塔跡
奈良時代聖武天皇の勅願によって、桜井国分に伊予の国分寺が建てられたが、国分はその境内の跡で金堂の他七堂伽藍の大きな堂塔が造営されていた。


この巨大な花崗岩の13個の礎石は、1.5m~2mの自然石で表面に頭大の繰形突起があり、径50cm程度の繰形座の柱石が刻み出され、天平時代の粗うちのみのあとも鮮やかで豪壮なものである。礎石間の間隔は約3、6mで多少傾いたものもあるが整然と並んでいる。

調査の結果、いく段にもつきかためた粘土の層のうえに置かれた礎石は、創建当時の姿をそのまま残しているといわれている。この上のあった七重の塔は200尺(約60m)ともいわれ、広大な国分寺の姿をしのぶ重要な遺構である。
大正10年3月3日指定 文部省
史跡・名所の小路 今治市」
(筆者雑感:下手な文章だと思います。) 

(余談)
ここは国分寺があることから「国分」という地名です。
ここから海寄りに「古国分」という地名があります。今治藩主の墓がある所です。
以下、小学校で習った話。
古国分の方が開発の歴史が新しいのですが、名前を付ける時に「新国分」と「新」を付けることは、国分寺に失礼であると判断したそうです。
当時「新しいものをもたらしてくれるものはありがたい」として、仏教を伝えた国分寺がある国分より新しいとすることは恐れ多いことだったそうです。
・・・こんなことばかり覚えています。

(追伸)
国分寺の境内にも脇屋儀助の石柱がありました。
ここで病没したということもあって建てられたものと推察しますが、何か気になってしょうがないものがあります。

故郷に於ける南北朝の歴史を勉強しようと思います。
コメント (2)
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