故郷の風景です。
ここから世田・笠松山の全体像がよく分かります。
左が世田山で右が笠松山です。
ご覧のように、両山は尾根で繋がっています。
私の生家は、バイパス道路の向こうにある丘の向こう側です。

あの山塊を北朝方が取り囲んだとのことなので、生家も戦場だったのかもしれません。
氏神様の近くから見た世田・笠松山です。

こんな近くに暮らしながら、昨日まで「世田山の戦い」を知らなかったのです。
故郷の歴史を知らな過ぎです。
「ひとの話を聞いていなかった」では済みません。
さて、脇屋儀助廟の一件があり、生家から3kmくらいの所に「世田薬師」があると聞いて、雨上がりの午後にママチャリで出掛けました。

昨夜、老父や老幼友達から「世田山の戦い関係の寺」と聞いています。
世田薬師の本堂です。

余談ですが、掲げられている提灯の寄付者の所在は「ハワイ」と書いていました。
太平記が頭を占領していたので、ちょっと唐突感がありました。
世田薬師の石段前から道前平野を望みます。
雲の上には石鎚山が見えます。

この辺りでも「世田山の戦い」が繰り広げられました。
やはり、在りました。
「嗚呼忠臣大館氏明公至誠存」で始まる石碑です。
その傍に案内板があるので、そちらを読みます。

「大館氏明公位牌殿
大館氏明公は新田義貞公の甥にあたり、南北朝時代(14世紀)に南朝方の重鎮として全国各地で大活躍し、伊予の守護とし、世田山城の城主となる。
1342年に北朝方細川頼春と壮烈な戦いの後、戦死す。
墓は山上本堂横に有り、位牌はこの三方荒神尊社横にまつられている。
太平洋戦争終了戦までは命日の9月3日には位牌殿前で盛大に大館祭りがおこなわれていた。
社殿前には大正12年に大館保存会にて顕彰碑が建てられている。
楠河公民館 楠河地区生涯学習指導委員会」
案内板の裏に廻ると、本堂まで1km、世田山山頂まで1.4kmと書いています。
案外近いではないか、行こう!

この決断が苦行を強いられることになります。
次回に続きます。
ここから世田・笠松山の全体像がよく分かります。
左が世田山で右が笠松山です。
ご覧のように、両山は尾根で繋がっています。
私の生家は、バイパス道路の向こうにある丘の向こう側です。

あの山塊を北朝方が取り囲んだとのことなので、生家も戦場だったのかもしれません。
氏神様の近くから見た世田・笠松山です。

こんな近くに暮らしながら、昨日まで「世田山の戦い」を知らなかったのです。
故郷の歴史を知らな過ぎです。
「ひとの話を聞いていなかった」では済みません。
さて、脇屋儀助廟の一件があり、生家から3kmくらいの所に「世田薬師」があると聞いて、雨上がりの午後にママチャリで出掛けました。

昨夜、老父や老幼友達から「世田山の戦い関係の寺」と聞いています。
世田薬師の本堂です。

余談ですが、掲げられている提灯の寄付者の所在は「ハワイ」と書いていました。
太平記が頭を占領していたので、ちょっと唐突感がありました。
世田薬師の石段前から道前平野を望みます。
雲の上には石鎚山が見えます。

この辺りでも「世田山の戦い」が繰り広げられました。
やはり、在りました。
「嗚呼忠臣大館氏明公至誠存」で始まる石碑です。
その傍に案内板があるので、そちらを読みます。

「大館氏明公位牌殿
大館氏明公は新田義貞公の甥にあたり、南北朝時代(14世紀)に南朝方の重鎮として全国各地で大活躍し、伊予の守護とし、世田山城の城主となる。
1342年に北朝方細川頼春と壮烈な戦いの後、戦死す。
墓は山上本堂横に有り、位牌はこの三方荒神尊社横にまつられている。
太平洋戦争終了戦までは命日の9月3日には位牌殿前で盛大に大館祭りがおこなわれていた。
社殿前には大正12年に大館保存会にて顕彰碑が建てられている。
楠河公民館 楠河地区生涯学習指導委員会」
案内板の裏に廻ると、本堂まで1km、世田山山頂まで1.4kmと書いています。
案外近いではないか、行こう!

この決断が苦行を強いられることになります。
次回に続きます。