荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

深川の葵の御紋

2015年07月17日 | 散文
台風のニュースを見ながら書いています。
台風の進路の皆さん、気を付けてください。

深川に、詩人度会園女の墓があります。
彼女を知りません。
調べてみました。
「園女は斯波一有の妻で、大坂で夫と医業を営み、俳句を芭蕉に学びました。
芭蕉は大坂の園女宅で病没しました。
夫の死後江戸に移住し、富岡八幡宮前に住み、眼科医をしていました。
富岡へ36本の桜を植え歌仙桜と称し、そこが桜の名所となりました。
享保11年4月20日死去し、ここ雄松院に葬られました。
また、晩年は和歌にも親しみ、伊勢神宮に和歌を奉納しています。」とのこと。

この時代に、女性が夫の死後、単身大阪から江戸に引っ越して来るのは凄いと思います。
辞世の句が墓石に記されています。
「秋の月 春の曙見し空は 夢かうつつか南無阿弥陀佛」

ここが雄松院です。
門扉に葵の御紋があります。

どうしてだろう、と思いました。

近くには霊巌寺があります。

緑深い、大きなお寺です。

ここには、8代将軍吉宗の孫であり、寛政の改革の推進者松平定信の墓があります。

私でも知っている歴史上の有名人です。

かなり広い廟所です。

本人以外の墓もこの中にあります。
夫人らの墓と思います。

霊巌寺の近くに、雲光院があります。
このお寺には阿茶の局のお墓があります。

彼女は徳川家康の側室です。
大阪冬の陣の後、淀君を説得して(騙して?)、大阪城の内堀まで埋めさせた功労者です。

正面にあるのが阿茶の局のお墓です。



立派なお墓です。
立札には従一位と書かれています。
側室でありながら、非常に高い階位です。

さて、家康の墓と遠く離れて、どうしてここに彼女のお墓あるのでしょうか?
古地図をみると、この辺りは松平家の屋敷があったところです。
この地は徳川一門の領地だったようです。その縁でしょうか?
でも、どうして一人なのでしょうか?
前述の雄松院に葵の御紋がありましたが、あそこも徳川一門の墓所なのでしょうか?
もう少し勉強の必要があります・・・。

近くには行き付けの蕎麦屋があります。
根津の蕎麦屋とは真逆の、下町っぽい庶民的な店ですが、大正六年創業の歴史があります。

何を食べても美味しいのですが、私は、深川丼ともりそばが好きです。
素朴な蕎麦が好きです(深川丼セットにも付きます)。
でも、不定期に休みます。気が乗らないと休みます。
従って、近隣の勤め人の評判は良くありません。
私はいつも電話で確認してから行きます。
今日は営業していました。

また近くに、名物オヤジが営んでいるつくだ煮屋があります。
十数年来の雑談友達です。
近隣の観光案内をしてくれ、美味しい店も教えてくれます。
時々TVで紹介されるオヤジですが、この暑い中、今日もカツラを被って頑張っています。

先日「モヤモヤさま~ず」の撮影があったそうです。
放送は今度の日曜日かも知れません。

コメント
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