荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

東京下町商店街ー9

2021年03月10日 | 散文

記事に困ったときに登場する「商店街」シリーズです。

物忘れの年頃です。古い商店街の写真を見てぼやいています。 「仙気いなり通り会」 2013年5月の写真です。・・・覚えていません。「仙気」の文字に記憶の引っ掛かりがあるのですが、もどかしい・・・ 5月の真っ青な空が、今年の梅雨が明けなかった歴史的気象状況と、コロナ禍の世相の暗さも相まって、ただただ羨ましいです。

 

「千住ほんちょう商店街」 ここはよく通ります。旧日光街道の商店街です。後ろが「宿場通り商店街」で、向かう先は「やっちゃば通り」を経て足立市場に続き、やがて隅田川です。

 

「千親会」 ・・・何処だろう? 堀切菖蒲園の近くか? 2013年7月の訪問の記録がありますが・・・。

 

「川の手 もとまち」 荒川区東尾久に在ります。中空を横切る高架は日暮里・舎人ライナーのモノレール線路です。「尾久銀座」等商店街が多い界隈です。

 

「巣鴨地蔵通商店街」 「お婆ちゃんの原宿」と呼ばれている商店街です。この道路は旧中山道です。ずっと行ったら日本橋で、後ろの道を行けば板橋です。昔、「いちにちじゅうやまみち」と原稿を読んだアナウンサーが居たことを思い出しました。彼女はもう故人になりました・・・

 

「大正通り商明会」 電柱の住所を見て分かりました。東向島らしいです。だったら正面中空は東武電車です。

 

向島界隈はよく通ります。でも、この景色に記憶がありません。

 

「大島らかん通り」 大島(おおじま)に在る明治通りの商店街です。今は暗渠になった竪川の土手を下っています。2013年6月の撮影です。

 

「大島銀座通り商店街」 2013年6月の撮影です。明治通りを入った商店街です。もう殆ど民家の路地です。今でも小さな銭湯が在ります。

 

商店街の終点はJR貨物専用線の土手です。この雰囲気好きです。

このシリーズ、ネタ切れの時に登場します。

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下町に咲いたミモザ

2021年03月09日 | 散文

下町の路地を散策していました。こんな所にミモザが咲いていました。国際女性デーのシンボルフラワーです。飲み屋通りの木造モルタル造り三軒長屋の塀の中から路地に張り出した花です。

 

電線だらけの空を見上げます。綺麗!と思いました。

高級住宅街にも下町にも、春は平等に来ます。

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恐ろしい! 二宮金次郎の手首

2021年03月09日 | 散文

以前行き当たった商店街で二宮金次郎を見付けました。

その時の記事の抜粋です。あの角のところです。

 

あれっ!? 二宮金次郎ではないですか! 商店街に金次郎は初めてです。昨今、歩きスマホを肯定するとの意見で学校から締め出されているそうです。学校から移されたのでしょうか? 

 

でも、手に持っているのは1円玉です。じっと1円玉を見つめる二宮金次郎です。本来手には書物を持っていた筈です。手のひらは削り取られたような跡に見えます。やっぱり歩きスマホ対策でしょうか? 暫し立ち止まって、二宮金次郎の将来について考えさせられました。

 

ここにもホーム下にトンネルがあります。長い駅です。

 

そして京成堀切菖蒲園駅の改札口です。

こんな商店街でした。二宮金次郎が気掛かりです。

 

そして先日二宮金次郎に再会しました。今時の銅像らしくマスクをしています。

 

えっ!! て、手首が無い!? 歩きスマホを連想するからこんな姿にされたのでしょうか?? その前に、可哀相とは思いませんでしたか?こんな事して・・・?

残酷です! 直視できません!!

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特別展「渋沢栄一と江東」に行ってみた。

2021年03月08日 | 散文

久しぶりに中川船番所資料館の前を通ったら、渋沢栄一特別展を開催していました。ここのところ渋沢栄一の足跡を訪ねていたので、これも縁でしょうか?私には時々こういうことが起こります。求めていたものがやって来ます。

 

案内板を見ると、昨年の10月末からやっていたのですね。入ります。

 

パンフレットです。実業家としての始まりが、ここ江東区という企画です。

 

裏側です。説明書きを抜粋します。「栄一は明治9年(1876)から12年間、深川福住町に居を構えました。今回の展示では栄一が当時住んだ福住町の邸宅、また栄一が立ち上げた様々な近代産業を紹介し、江東区と栄一のつながりをたどります。」 真ん中の写真が、先日訪ねた「渋澤倉庫」の古い写真です。

 

参考までに、先日の記事です。なお、先日紹介した住居に栄一が住んだ順番は、江東区永代(福住)、日本橋兜町、飛鳥山の順である、なんてことも学びました。

 

彼は500以上の会社を興しましたが、やっぱり思っていたとおり「渋澤」の名前が付いた唯一の会社です。

 

さて、撮影禁止ばかりなので説明が難しいのですが、要は江東区との関わりの資料です。徳川慶喜を福住の邸宅に招いたとか、江東区に造った養殖場で慶喜と釣りをしてもてなしたとかの話です。

また、「七分積金」を創設した松平定信を尊敬し、感謝の念篤く、彼の墓がある江東区の霊厳寺で100回忌を行ったとかの話もあります。

 

〈余談〉中川船番所の3階から見る景色です。昨年12月までここでカヤックを漕いでいました。コロナ禍による2回目の緊急事態宣言により、ずっと活動を休止しています。

 

窓の上にある資料です。こんな場所だったのですね!

水温む季節になりました。早く活動したいです。

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「東京メトロ新木場車両基地」から、

2021年03月08日 | 散文

「みどりと海の橋」を引き返しています。ふと、足元の絵に気がつきました。なんだろう?

 

ひょっとして、今立っている場所が電車の連結部で、その先の左右に3席あって、ドアがあって・・・あの先に左右いっぱい引かれている白い部分が連結部、ではないか!

 

そしてその先には左右に走る線路です!

 

何から何まで電車です。

 

この先に有楽町線の地下鉄駅があります。この線路は全部地下鉄に繋がっているのだ!スマホの地図には「東京地下鉄車庫」とも書いています。地下鉄はここから地下に入るのです。

 

じゃあ、地下に入る場所を見てやろうと、みどりと海の橋を戻ります。

 

やって来ました。「東京地下鉄株式会社 有楽町線工務区」と書いています。やっぱりそうだ!

 

向こうに線路があります。地下鉄は、一旦空中を走って地下に入るようです。

 

あれは?ホームに見えます。ひょとしたら、地下鉄は社屋に近いここで一旦停まって作業員などを降ろして、自らは、さっき「みどりと海の橋」から見下ろした車両基地へ行くのに違いない! また逆に行く時には、ここで一旦停まって作業員などを載せるのに違いない! 律儀な仕事をするじゃないか!

 

で、地下に入る場所を追いかけようとしたら、すぐにJR京葉線の高架にぶつかって90度左折しました。正面の金網の向こうカーブです。

ここで追跡を断念しますが、ちょっと興奮しました。鉄ちゃんの素質があるかも知れない・・・。

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「みどりと海の橋」上で、

2021年03月07日 | 散文

「のんびりサイクリングロード」を走っていたら、金網の向こうに電車がありました。

 

前方に陸橋があります。

 

橋に止まるかもめマークの坂を上がります。

 

頂上に、ビューポイント・案内があります。ここから海と対岸が見られるようです。

 

やって来た坂です。

 

なるほど、東京ディズニーリゾートが見えます。

 

それより陸橋の下の方が気になりました。電車がいっぱい停まっています。

 

金網の隙間から眺めます。

 

凄いね! こんなビューポイントがあったのですね。

 

ちょっと興奮しています。

 

スマホで調べたら、「東京メトロ新木場車両基地」らしいです。で、今立っている陸橋が「みどりと海の橋」らしいです。「車両基地と海の橋」の方がピッタリ来るのに・・・橋を更に行きます。

 

真下に大きな交差点がありました。左右の道路が、埋め立て地の工場団地の真ん中を若洲臨海公園を経てゲートブリッジに行く路です。

場所を確認したので、気になっている「東京メトロ新木場車両基地」に戻ります。

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「の」はNONBIRI CYCLINGで、ヘリが飛ぶ。

2021年03月07日 | 散文

サイクラーがまったりしています。操舵盤がある休憩所です。対岸は葛西臨海公園と東京ディズニーリゾートです。

 

砂町南運河を挟んだ休憩所の対岸は、若洲サイクリングロードの「展望台休憩所」です。先ほどあそこに居ました。

 

休憩所の上流は荒川湾岸橋です。長閑な春の海です。

 

休憩所の錨マークから上流を望みます。長閑な春の空とサイクリングロードです。

 

このサイクリングロードの各所にこのバナーが立っています。「の」の字の「のんびりサイクリングロード」です。

 

春の陽射しの下を行きます。

 

すぐに休憩所があります。

 

ヘリコプターの看板がある休憩所です。

 

みんな操縦席状の椅子で寛いでいます。

 

目の前には展望台があって、その向こうにはヘリポートが広がっています。

 

 

左はゲートブリッジがある若洲臨海公園です。

 

右に夢の島です。随分埋め立てたものです。

 

操縦席状椅子からの目線です。

 

ヘリコプターがやって来ました。椅子から立ち上がります。

 

展望台から着陸を眺めます。ヘリポートは、羽田空港の展望台から見るジェット機の離着陸とは違った長閑さがあります。

 

操縦席状の椅子の背景は、「ヘリコプターを見て休憩しましょう」と呼んでいるようです。左に停まっている自転車は、買い物カゴが付いている男性用の一般車です。

ここはサイクラーが我が物顔で走るサイクリングロードとは一味違って、ノーヘル・普段着ファッションの人達も多くやって来る「のんびり サイクリングロード」なのです。

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春の海/荒川と江戸川の合流点

2021年03月06日 | 散文

春の海が見たくてやって来ました。若州サイクリングロードの東側です。対岸の東京ディズニーリゾートが春の自然現象で霞んでいます。多分、杉花粉もPM2.5も飛んでいます。春の空です。

 

春の陽気でレジャーボートが沢山走っています。

 

去って行きます。空には旅客機が飛んでいます。

 

自転車もやって来ました。長閑です。この対岸は、葛西臨海公園です。

 

ふと思いついてポイントを探しています。サイクリングロードは魚の回遊の絵で、背景の左端は「荒川湾岸橋」で、右端は「舞浜大橋」です。

 

ポイントをマンタの絵に決めました。左に荒川、右に江戸川です。この両川が交わる手前の海は、大潮の干潮になると浅瀬が顔を出す場所です。荒川と江戸川が運んできた土砂が堆積する場所なのです。

もう春の海です。

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「ハッピー商店会」を行ってみた。

2021年03月06日 | 散文

真っすぐな商店街が在りました。

 

角に町内会の掲示板がありました。良く見える場所なんでしょうね。「訃報」も載せるんですね。

 

真っすぐな商店街は「ハッピー商店会」と言うらしいです。

 

近くの堀切とお花茶屋の間に「ラッキー商店街」が在りましたが、人が歩いていなくてあまりラッキーな状態ではありませんでした。ここもあまりハッピーな商店街ではないようです。

 

こんなに真っすぐな商店街は珍しいです。一方で、ずっと見通せてしまう、誰も居ない商店街は如何なものでしょうか?もう住宅街ですね。

 

時々商店が在ります。

 

この辺が中心地でしょうか?古い店が集中していますが、シャッター通りになっていますね。

 

民家の塀にこんな看板が出ていました。「打ち刃物製作所」です。「刀匠三代宗秋」の文字が見えます。刀鍛治を連想します。

 

「研ぎ直し」もやっているようです。800円は安いのか高いのか、相場観がありません。儲かるのでしょうか?まあ、材料費は要らないし、技術職だから大きな機械を維持する訳でも無いので固定費は掛かりません。要は需要の有無ですね。

 

路地に入って行きます。小綺麗で魅力的な路地です。

 

ここですね。

 

路地を抜けると新たな魅力的な路地が現れました。散々迷ったけど、「ハッピー商店会」の途中です。右折して戻ります。

 

商店がフェードアウトして(というか、最初から)住宅街になって、商店会の看板が無くなりました。

 

しばらく行くと、角にポツンと蕎麦屋がありました。新しい店です。今度この商店街に行き当たって、昼食前だったら暖簾を潜りましょう。

そんなハッピーな偶然が訪れるでしょうか?

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こんな場所に東京国際郵便局が在った。

2021年03月05日 | 散文

春の陽気の江東区南東端です。すぐ左に荒川が流れていて、この先は砂町水再生センターがあって、砂町運河の対岸に夢の島マリーナがあります。ずっと先に見えるのは夢の島の清掃工場の煙突です。こんな場所に郵便局のマークがありました。

 

行ってみました。

 

「東京国際郵便局」の文字があります。「東京外郵出張所」の文字もあります。

 

そういえば、ここから右方向の明治通り沿いに、大きな「日本郵便東京支店」があります。そこの出張所のようです。つまり、東京の国際郵便はここに集められ、ここがハブとなって各国に配送される訳ですね。

 

面白いデザインの郵便ポストがありました。

 

あ、使えないのですね?残念です。

 

ロボットのようなデザインで、親しみが持てます。

 

隣に木があって、説明板があります。何だろう?

 

へえー!? これが話に聞いた「はがきの木」ですか!初めて見ました。

 

普通の郵便ポストもありました。周辺は工場地帯で人が住んでいません。利用者が居るのだろうか?

ここは年に1回だけツクシを採りに来る場所ですが、今年は出遅れて誰かが採集した後で、残っていたのは今年の暖かさで胞子が開き切っていました。でも家からそう遠くはありません。今度郵便を出してみようかな。・・・多分その時はこのポストの存在を忘れているでしょうね。ワザワザ繁華街の反対側に来る必要も無いしね。

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「渋沢栄一居宅跡」を探して/江東区永代

2021年03月05日 | 散文

春の陽射しの永代橋です。橋を渡ると江東区です。

 

橋から覗きます。日本橋川が隅田川に合流します。その河口に白い豊海橋が佇みます。好きな景色です。

 

橋の中央から上流にスカイツリーを望みます。

 

やって来ました。あそこのビルが建っている場所です。

 

永代橋を越えてすぐにある、仙台堀川に架かる福島橋を越えた所です。

 

サラリーマンが休憩中です。あのビルで働く社員でしょうか?看板があります。

 

ここにも家があったのですね。おや、旧深川区の区議会議院も務めたのですね。

 

大きな家です。

 

丁度昼休みです。彼もこのビルで働いているのでしょうか?

 

コンビニもあります。

 

看板が立っています。このビルの看板です。

 

ここにも説明板がありました。

 

「渋澤倉庫」が入っているビルです。

「渋沢」の名前を残す会社もあるんですね。

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「渋沢栄一居宅跡」を探して/日本橋兜町

2021年03月04日 | 散文

渋沢栄一は飛鳥山以外にも住んでいたことを知りました。やって来たのは彼が興した証券取引を営む会社が集まっている場所です。居宅跡の前です。

 

このビルの場所に居宅が在ったようです。

 

周りは証券会社街です。

 

日本の株式取引で有名な兜町の1丁目です。

 

隣に「兜神社」が在ります。数年前に来たことがあります。その時は渋沢栄一に興味がありませんでした。

 

改めて由来を読みます。ここにも八幡太郎源義家の足跡があります。関東は各地に義家ゆかりの神社があります。

 

本殿です。

 

屋根の上は首都高速都心環状線(首都高6号線)です。

 

 

お参りします。

 

由来書きにあった兜岩です。・・・何しに来たのか分からなくなっています。

 

そうです。渋沢栄一の居宅跡を訪ねています。

 

すぐ近くが東京証券取引所です。証券取引制度を渋沢栄一が創りました。なるほど、こんなに近い場所に住んでいたのですね。・・・居宅跡の表示が無かったけど、どんな家だったのでしょうね。

 

すぐ側に鎧橋が在ります。「兜」に対する「鎧」です。日本橋川を渡って振り返った正面右がさっき見上げた証券取引所です。

 

トイレに行ったので偶然出逢った説明板です。ここに谷崎潤一郎の「幼少時代」の文章が紹介されています。なんと!?こんな文章がありました。「・・・私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・」

・・・こんな偶然の出逢いがありました。

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「渋沢栄一像」を探して/常盤橋

2021年03月04日 | 散文

日本銀行です。

 

背後の橋の向こうに銅像が建っています。

 

大きな立像です。

 

説明板を読みます。第一国立銀行の頭取であり、500社以上の会社を設立し、養育院の院長を務め、一橋大学や日本女子大学をつくり等々、経済人だと思っていたけどそれだけの人ではなかったのですね。改めて敬服しています。

 

その偉業に像を見上げます。

 

背後からも見上げます。鳩が顔を出しているのが愛嬌です。

 

「財団法人渋沢青淵翁記念会建立」との文字が見えます。爵位だけでなく号も持っていたのですね。ゆかりの地を巡るほど、凄い人だと認識しました。

 

ここで彼が見ている景色には、いくつかの創業した企業があるのでしょうね。

 

表から見上げます。

 

 

常盤橋の袂です。

 

帰り際に振り返ります。

春の陽射しの中の立像です。

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谷中「大雄寺」からBATHHOUSEへ、

2021年03月03日 | 散文

養育院の「義葬之冡」を確認・お参りしました。お寺を眺めます。

 

 

墓地の向こうに切り取られた煙突が有りました。

 

これって、立地からして、あそこです。

 

隣の壁が素敵です。

 

びっしり貼り付いたツタの紅葉時期に再訪したいです。

 

「義葬之冡」訪問の目印の大楠は「東京都のくすのき8号」です。

 

さて、「義葬之冡」を訪問・お参りして戻ります。大雄寺の向かいは「愛玉子」です。一度入ったことがあります。台湾原産植物から抽出した寒天状の高カロリー食品です。店主のお婆さんは今でも元気でしょうか?

 

墓地から見た素敵な壁は和菓子屋「岡埜栄泉」です。表も裏も好いです。

 

切り取られた煙突の建物へ行きます。岡埜栄泉の隣のこの壁が、もうその建物です。

 

「BATHHOUSE」銭湯です。

 

正確には、銭湯でした。現在はギャラリーになっています。

 

3月9日から、大庭大介氏の絵画展のようです。

 

本格銭湯の風情です。もう、人気住宅街になった谷中に銭湯の需要は無いのでしょうね。

 

でも、こうして広い建物空間を利用してギャラリーとなっています。

左端の水タンクが好いです。青い空を映した瓦も好いです。白壁に映えます。・・・この街に残して欲しい風景です。

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養育院の引取人の無い遺骨を埋葬した先を訪ねて/大雄寺

2021年03月03日 | 散文

やって来ました大雄寺です。

 

ここは一度訪問したことがあります。

 

初冬に、ここの紅葉の見事さに惹かれて訪ねました。

 

そして、高橋泥舟の墓がありました。

 

板橋養育院に関する説明板もありました。前回訪問した時にも読んだと思いますが、当時は養育院に興味無かったのでしょう、全く記憶にありません。

 

改めて読みます。板橋の養育院跡地で読んだのと同じ内容です。最後に「義葬之冡」への順路が書かれていました。

 

説明板にある目印の大楠です。

 

案内に従ってここを左折します。

 

びっしりと墓が込み合った迷路のような墓地です。東京の墓地は狭い敷地に沢山の墓を造らざるを得ないのでこのように墓の間隔が狭いです。

 

ここでしょうか?「義葬之冡」と書かれています。

 

裏を覗いたら卒塔婆があって納得しました。ここです。

 

義葬冢から見る景色です。光溢れるも風が冷たい午後です。

 

「義葬」が分からなかったので色々調べていたら、こんな記述に出逢いました。結局、「義葬」の意味は不明です。

「養育院の最も古い史跡:
明治 6 年に建立の大雄寺の養育院『義葬之塚』について
稲松 孝思
東京都健康長寿医療センター

「養育院は明治 5(1872)年に創立された東京の福祉・医療施設である.当初は鰥寡孤独の人を収容す
る施設であったが,140 余年の歴史の中で各種福祉・医療施設に発展分化した.その歴史については,
養育院 60, 70, 80, 100, 120 年史が編まれており,大久保一翁,渋沢栄一がその設立・発展に大きく貢
献している.文献資料は一部が残されているものの,明治・大正期の建造物など,施設の多くが木造で
あり,関東大震災,先の戦災,施設の改築,引っ越しなどで形あるものは,ほとんど失われている.同
時期に渋沢が関与して創設された富岡製糸場が,今日,世界遺産として残されているのと好対照をなす.


そこで,僅かに残されている養育院史を語る,“形ある物”のうち,もっとも古い,谷中の大雄寺にあ
る『義葬之冡』について述べる.
明治 5 年 10 月,ロシア大公を国賓として迎えるに当たって,急遽収容された浮浪者を本郷の加賀藩
上屋敷の空き長屋(現東京大学医学部)に収容した事が,養育院事業のはじめとされる.五日後に収容
者は浅草溜に移され,長屋は事務所として使用されたが,その痕跡は無い.明治 6 年 2 月,上野の護国
院の一部(現東京芸術大学美術学部)を買い取って恒久施設を建設し,大久保一翁府知事が開院時に視
察しているが,その痕跡もない.漢方の町医 村上正名が任用され,健康問題に対応したが,同年 12 月
までに百余体の引き取り手のない遺骨があり,賄方赤井善蔵の菩提寺,台東区谷中の日蓮宗・大雄寺に
葬り,「義葬之冡」が建てられた.高さ 150 cm の扁平な角柱型の三段墓である.墓石の正面には『義葬
之冡』,背面には『明治六年癸酉始養窮民於養育院其死者葬此』と彫ってある.

寺の過去帳には 104 名の記載がある(名前のみで姓や年齢はなく,男 81,女 22,不明 1 名で,戒名は 6 名のみに併記されて
いる.なお,60 年史に記載がある 22 名の年齢をみると,1–20 歳 3 名,21–40 歳 11 名,41–60 歳 5 名,
61–80 歳 6 名,不詳 1 名である).この義葬之冡は養育院創立当時の唯一の遺構である.長年,養育院
の都職員により,春秋香華を手向けられて回向されてきたが,平成 22 年に『養育院を語り継ぐ会』に
より,由来碑が立てられた・・・後略」

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