論語読みの論語知らずならぬ論語読まぬ論語批評かもしれないが、四十にして惑わずはともかく、二十一世紀では五十以降は改訂が必要な気がする。取り敢えず、七十を前にして再び惑えを付け加えてみたらと思う。
何を馬鹿なことを言い出すと学者は無視されるだろうが、ご本人が怪力乱神は語らずとおっしゃっている通り、孔子は教祖ではなく教師で論語は優れた人生訓、処世術の書と受け取っている。であれば改訂も必要だろう?。
四十にして臨床医として生きようと迷わずやってきたのだが、あとせいぜい働いて四、五年の年になって惑っている。市井の医者は収入は恵まれているのだが、中々まとまった自由時間が取れず、やっておきたいことができないのに気が付いのだ。これは程度形は異なっても多くの人に共通の現実だろう。贅沢な悩みと言われるかも知れない。
年を取れば分相応を悟るというか諦めることを覚えるので、あれもこれもは減ってきたが、それでも行ってみたい国、読んでおきたい本、見ておきたい絵や映画は数多い。
もっと年を取れば、諦めざるを得ない脳力体力になるので、それこそ七十にして心の欲する所に従って矩を踰えずという惨めな終末を迎える可能性が大きい。何を間違った解釈をしているかとお叱りを受けそうであるが、百数十人を自宅で看取ってみて、あとでやいつかは結局ないということを思い知るとそんな解釈も頭に浮かぶようになる。
惨めなのではなく小人にわからぬ悟りの境地としても、七十を前にしてもう一度惑うことがあってもいいと思っている。