作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

冬枯れの大原野

2007年01月20日 | 日記・紀行

 

沓掛近くの柿農園畑から、京都の市街地を眺望。正面中央に京都タワーが見える。

バイクを修理に出さなければならなかったので、洛西のバイク店まで行く。その帰り、散歩がてらに自然歩道を歩いた。

例年にない暖かい冬で、一応の防寒の用意はしていたが、寒さはそれほど気にはしていなかった。とはいえ冬はやはり冬で、久しぶりに見る沓掛近くの農園の柿畑もすっかり葉を落としていた。冬枯れを免れているのは竹林くらいで、柿農園の多いこのあたり一帯はすっかり赤茶けた柿の木畑が続く。殺風景な畑の中で、農夫たちが、掘り起こした太い大きな柿の木の切り株をいくつか集めて、燃やしていた。その煙があちらこちらで、霞のように立ち込める。

やはり、徒歩が一番よい。路傍の植物などもゆっくりと眺めることができるし、時には手にとって観察もできる。

風景の真価はおそらく冬景色にあるのではないだろうか。春や夏や秋は、花や緑や紅葉などの色彩が豊かで、それらに目を奪われて、その土地のもつ地理自体の構造などにまで目が行かない。植物などが生い茂って、土地もそれらに覆い隠されて露にはならない。

しかし、冬は違う。花や葉はすっかり殺ぎ落とされ、樹木も土地もその裸の姿を露にする。もし、この風土に感情があるなら、そんな露な姿を見つめられて恥ずかしいにちがいない。

京都芸術大学の校舎の見える沓掛のあたりから、自然歩道を南に歩いて大原野の方面に向かう。

大原野あたりの里山は、源氏物語の行幸の巻の中に、雪の舞い散る師走のころに、殿上人や女官たちが冷泉帝のお供をして、鷹狩に出る様子が描かれている。そこで、紫式部は、冷泉帝に

  雪深き 小鹽の山に 立つ雉の  ふるき跡をも
  今日は  尋ねよ

と詠ませている。おそらく、紫式部もこの地を訪れたことがあり、その時の体験をもとに、この巻も描写されているにちがいない。かって、このあたり一帯は日本でも有数の風光明媚なところであっただろう。当時は師走にも雪が深く降り積もったこともわかる。

しかし、近代以降、日本のその他の多くの地方と同様、その殖産興業のために、その山紫水明は犠牲にされてきた。生活のためにやむを得なかったのだろう。今はビルや瓦屋根の民家が雑然と建ち並んでいる所も多い。


ただ、自転車で走っているときにはそれほど気がつかなかったが、道端の畑の中に、空き缶やペットボトルなどが、さらには、弁当の発泡スチロールが無造作に投げ捨てられているのも、少なからず目に付いた。歩いているとよく見える。

歴史的にみれば、このあたりの風土は今もっとも痛めつけられているのかも知れない。現代の日本人は自然にはそれほどやさしくはないのだ。自然にやさしくないということは、もちろん、お互いの人間どうしもやさしくはないということである。人間も自然の一部であるから。

もっとも美しい風土を与えられながら、醜い人間によって損なわれる。地上を支配する権限を人間は与えられているのに、その人間が悪しきときは、大地は呪われた地となる。神はいくど後悔されたことだろう。

しかし、いずれ、この地上に真実の宗教が行き渡り、誰も神を知れとも言わなくなったとき、そして、人が神と共に棲むときが来れば、この大原野の地も、かっての本当の美しさを取り戻す時代が必ずくる。それまでは、その美しい風光が一部破損されてしまうのも避けられない必然なのかもしれない。

真の科学と人間性が回復されるとき、そのときは、自然も人間もその真に美しい姿を回復するときである。もちろん、それはいつの日かは分からない。

冬枯れた景色のなかを歩きながら、あちこちに捨てられた醜いゴミを目にして、春や夏と違う感慨を持つことになってしまった。

コメント (1)
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