来るを迎えることにおいて将来は、又去るを送ることにおいて過去は成立つとすれば、その来るはいづこよりであり又その去るはいづこへであるか。考察を厳密に体験の範囲に限定する限り等しく「無」又は「非存在」と答えねばならぬやうにも思われる。波多野精一(ibid s 8 )
しかしながら、後にも論ずる如く、回想の内容として主体の前に置かれるのは、実は反省によって客体化されたる何ものかであって、それの有り方は過去ではなく現在なのである。回想は現に生きる主体の働きとしてそれの内容はかかる主体に対する客体として存在するのである。(ibid s 9 )