吉田松陰『東北遊日記』(原漢文)
1852年嘉永5年2月閏廿四日 晴。
本庄を発す。川あり。舟もて之れを済る。海浜に出で平沙を行き、道川に至りて午食す。是れ亀 田候岩城伊予守領する所なり。本庄・道川の間に石脇・松崎の二駅あれども、海浜を行きしをもって経ず。道川を過ぐれば長浜あり、亦経ざりき。塩越よりここ に至るまで、本庄・亀田の二封地は皆四十八町を以て里と為すと云ふ。長村に至り海を離れて村に入る。是れより秋田の得する所に係る。新屋を経、舟もて御裳 川を済る。川は雪水方に漲り、濶さ八町ばかり、渡処より川口に至るまで一里にして、大船泝りてここに至るべし。久保田に宿す。是れ佐竹左京大夫二十万石の 都城なり。行程十一里。久保田の地、最も斗出せるものを牡鹿と為し、二峯峙立せるを本山と為し、新山と為す。昨より之れを遠望して、二島と以為ひ、稍近づ きて又一島と以為ひしに、長村に至りて初めて其の内地と連なれるを知りぬ。土人云はく、「是の地五十三村、歳入二万石、港三、止賀・船川・船越と曰ふ」 と。秋田の米価は三斗を以て苞と為すもの一貫七百銭なり。数日間、土人の往還する者を見るに、皆面を裏み頭を冒ひ、僅かに両目を露すのみ、比々皆然り、亦 土風の笑ふべきものなり。新潟よりここに至るまで、大抵海浜平沙、漫々浩々として行歩頗る困しむ。
『東北遊日記』、幕末ロシア南下の報に接し、東北国情偵察の旅に出る。吉田松陰二十三歳の学識、能力。今日の学校教育はその足許にすら及ばない。
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