真理、真実に謙虚でない国民、民族、国家の行く末、その末路は皆同じ。「真理に対する謙虚さ」これが国民の自己教育の第一歩。日本国民は朝鮮を他山の石とすべき。 【杉浦正章◎韓国紙の偏向報道は「誤報の連座」を危惧:永田町幹竹割り】:
thenagatachou.blog.so-net.ne.jp/2014-08-07
少し時間に余裕が──それでも時間貧乏であるのも相変わらずでもあるけれども──できはじめたので、奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究──「皇室典範的なるもの」への視座』をまた読み始めた。本格的な書評は後にして(それを書く能力が私にあるかどうかもとにかく)、読書の感想のようなものを
記録代わりにツイートして行こうと思う。移り気で能力もない私のことなので、どこまで続くかどうかもわからないけれども、とにかく読んで感じた限りの思い付きでも書き留めておくことにします。場合によれば非公開のツイートにするかもしれません。まず、「序章 本書の意図と構成」から。
「一系の天子」※筆者奥平康弘氏の問題意識。「憲法研究者としての私(奥平氏)が本書で意図するところのものは、もっともっと限定的ではるかに小さい。「萬世一系の天皇」という観念体系を振りかざして、明治国家以降の社会支配層が──法制官僚たちを通じて──天皇制という制度をどんなふうに構築a
あるいは再編したかを、考究してみようというのである。天皇制ということを一言で言ってのけたが、私が照射しようと試みるのは、憲法および皇室関係法によって形成されている制度のうちで、天皇の地位の受け継ぎ(皇位の継承)に関わる部分である。それも皇位継承の体系を究めるといった課題を b
担うつもりはない。皇位継承(「世継ぎ」)のありようを、それも「“女帝”の可能性」、「“庶出の天皇”の認否」および「天皇の退位」という三つの要素に特化して考察してみようというのである。(本書S10)【“万邦無比”の「萬世一系」論】「神勅の名宛人として、これを発した神々にずっと a
つながっているという神話的な構成なしには、「萬世一系の天皇」は自らを正統化することも正当化することもできないのである。」(ibid s 5)
「ひたすら「萬世一系」を喚起し、もっぱらそこから出発して天皇制護持をはかろうとした事実があるからなのである。ある意味で「敗戦後」においてb
てこそ高い頻度で、「萬世一系」は語られた、と言いたくもあるのである。」(ibid s 6) ・・・「要するに「萬世一系」は天皇制生き残りのための方便として、使えるだけ使われて、いまや政治思想史博物館に収められているだけのことだ、と言うのである。よろしい。c
残すときは歴史(本書でなんども指摘するごと明治の天皇制形成期には、「古代ノ恒
典」などというフレイズがあたかもトランプ=切り札のように用いられた)や伝統文化が大動員されたが、一旦残すことに成功したのちは、天皇制の政治理論・哲学論議はどうでもいいことなのだろうか。d