作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

8月1日(金)のTW:中川八洋掲示板を読んでつぶやいた、ヘーゲル哲学の意義、など

2014年08月02日 | ツイツター

中川八洋氏の論文の研究について:中川八洋氏の著作についてはよく知りませんが、幸いにも中川八洋氏の論文の掲載されているサイトも出来ているようです。【中川八洋掲示板】nakagawayatsuhiro.hatenablog.com

おかげで、そこで中川氏の論文の概略についても知りうるようになりました。


私もかなり前から中川氏には関心があって書評なども書こうとしたこともありますが、私の能力の無さもあって、いっこうにその研究は進んでもいません。それはとにかく、いずれにしても中川八洋氏の論文は私にとってもこれからも大きな課題になると思っています。また出来る限り多くの人にも


中川八洋氏の思想に関心をもってもらいたいとも思っています。その理由の一つは、中川八洋氏の思想的、哲学的立場が現在の私にはもっとも近いと思われるからです。もちろん中川氏はヘーゲル哲学を理解もできず学んでもいませんから、氏の思想哲学が悟性的なレベルを超えられることはないだろうとは思います。


さしあたって現在の私の思想的な哲学的な使命の一つとして、我が国にヘーゲル哲学を完全に移植させ土着させて、その上に我が国独自の哲学の大輪を咲かせることにあるとすれば、もちろん、この立場も言うまでもなく一つの政治的な立場ではあります。言うまでもなく、ヘーゲル主義は立憲君主制を


主張していますし、したがってこの立場は必然的に共産主義や共和制論者の立場とは相容れないものです。また、自由や民主主義についても、戦後民主主義のいわゆる左巻き連中の左翼のようにそれらを狂信することなく、それらの思想の意義も限界もきちんと把握した上で、肯定していると思います。


要するに、現代においてもなおヘーゲル哲学の意義はきわめて大きいと思います。この哲学は今もなお日本国においても国家哲学の基礎となるべきものです。現在の日本のアカデミズムはヘーゲル哲学に極めて無自覚だと思います。日本の学術水準が哀れで貧弱であるその根本的な理由もここにあると思います。


かって我が国で明治時代に大日本帝国憲法を制定するときにも、当時の政治指導者である伊藤博文や井上毅たちは、当時のプロイセンの法学者であったルドルフ・フォン・グナイストや、ローレンツ・フォン・シュタインなどの学者たちに憲法の本質を学んで、大日本帝国憲法の制定に役立てました。


しかしこれらのプロイセンの二流の法学者に学ぶのではなく、むしろ彼らの師であるヘーゲルなどの一流の哲学者に(彼はすでに亡くなっていましたけれども)学んで、大日本帝国憲法を制定すべきだったと思います。現在もいくつかの新聞社や政党などから、現行日本国憲法の改正案が提案されていますが、


ざっと見ただけでも、極めてお粗末で欠陥の多い憲法草案ばかりだと思います。比較的にましな小堀桂一郎氏などの学者に指摘させれば、いくらでもその欠陥は指摘されると思います。今の日本人には少なくとも井上毅クラスのまともな憲法草案を構想できる法学者がいないのが根本的な理由だと思います。


憲法学者もそのほとんどは凡俗の三文学者ではないかと思われます。下手に憲法改正をしない方がいいと思うのもそのためです。GHQの三流の進歩的知識人によって作られた日本国憲法は話にもなりませんが、だからといって、まともな憲法一つ「作る」ことが出来ないのも今の日本の現状だと思います。


793/西行法師/朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄形見にぞ見る #tanka #waka

shuzo atiさんがリツイート | RT

昔、左遷され陸奥守として東北多賀城に赴任してきた藤中将実方は、罰当たりにも道祖神の前を下馬もせず通り過ぎ、そのため落馬して死んでしまった。後の世になって西行が彼の地を訪れた折り、歌人としての藤原実方を追憶しその無情の死と無常を悲しんで歌を詠んだ。


「朽ち果てることもない歌人としての名声をこの世に留めて、 あなたはお亡くなりになりましたが、今となってはもう、枯れ野に靡く薄ばかりが、 あなたの残された形見のように見えます。」


 
 
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする