作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

吉田松陰山河襟帯詩碑

2014年08月23日 | 日記・紀行

 

 吉田松陰山河襟帯詩碑

この漢詩碑は京都府立図書館の南に立っている。図書館前の駐輪場の傍らに昔からあるのは知っていた。しかしその内容はほんの最近まで知らなかった。石碑は大小幾らも市内には建っているし、あまり関心もなかったから。この詩碑が吉田松陰のものであることを知ったのは最近のことである。

この日図書館を訪れたとき、たまたま詩碑の内容を詳しく知る気になって、標石と詩碑の本文を読もうとしたけれど、標石の方は「吉田松陰先生山河○○詩碑」と読めただけで、漢詩碑の本体の方は、漢詩文の素養も全くない私にはまったくちんぷん漢文で読めない。吉田松陰の大きな詩碑が、なぜこの地に立っているのか、この詩碑の文言や刻まれている来歴などが読み取れれば直ぐに理解でき たかもしれないが、分からない。

それで、デジカメで記録のために写真に撮って、自宅に戻ってから、調べてみることにした。この日はそのまま図書館に行って奥平康弘氏の『「萬世一系」の研究』を読んだ。

自宅に戻ってこの吉田松陰の詩碑の写真をブログ に記録しておくついでに、詩碑の内容も調べてみようと思った。ネット時代の恩恵もあって、「吉田松陰、山河、詩碑 京都」などをキーワードに検索してみる と、直ぐにこの漢詩碑の内容が分かった。次のような内容の漢詩が刻まれている。

 山河襟帯自然城  東来無不日憶神京
今朝盥嗽拝鳳闕  野人悲泣不能行
上林零落非復昔  空有山河無変更
聞説今皇聖明徳  敬天憐民発至誠
鶏鳴乃起親斎戒  祈掃妖氛致太平
従来英皇不世出  悠々失機今公卿
安得天詔勅六師  坐使皇威被八絋
人生若萍無定在  何日重拝天日明

  右癸丑十月朔旦奉鳳闕、粛然賦之。時余将西走入海。

    丙辰季夏           二十一回藤寅手録

詩碑の原文は以上で、次のように訓読されるという。

「鳳闕を拝し奉る。山河襟帯自然の城、東来日として神京を憶はざるなし、今朝盥嗽して鳳闕を拝し、野人悲泣して行くこと能はず、上林零落、復た昔に非ず、空しく山河の変更なき有り、聞説く今皇聖明の徳、天を敬ひ民を憐み至誠より発す、鶏鳴乃ち起き親ら斎戒し、妖気を掃ひて太平を致さんことを祈る、従来英皇世出てず、悠々機を失す今の公卿安んぞ天詔を六師に勅して、坐ながら皇威をして八紘に被らしむるを得ん。人生は萍の若く定在なし、何れの日にか重ねて天日の明なるを拝せん。右は癸丑十年朔旦、鳳闕を拝し奉り、蕭然として之を賦す、時に余将に西走して海に入らんとす、

丙辰季夏、二十一回藤寅手録。」

漢詩や漢文の世界からほど遠くなった平成の御世に生きる無教養の私には直ぐには読解できない。辞書を片手に現代語訳を試みることにした。素人のことなので誤訳があるかもしれない。

「宮城を拝し申し上げる。山と河が襟と帯のような天然の城郭。江戸に来てからも、神の都のことを一日も思わない日はない。今朝、手を洗い口を漱ぎ清めて宮城を拝すれども、一介の野人に過ぎない私は悲しみ泣いても宮城へ行くこともできない。朝廷は零落して再び昔の面影は無い。ただ山河のみが空しく昔に変わらずに残されて在る。聞くところによると今上陛下の優れた御徳は、至誠をもって天を敬い民を憐れみ、鶏鳴と共に起きて自ら斎戒して身を清め、妖気を払い清めて平和な世の中がもたらされむことを祈る。 もとより優れた帝は世に現れることはない。それなのにのどかに過ごして機会を失っている今の公卿たちに、軍師どもに皇勅を発して、帝の威光を全国に被わしめることがどうしてできようか。私の生涯は浮き草のようなもので定まったところもない。 いずれの日にか必ず再び太陽のように明澄なる天子様をお拝しすることが出来るだろうか。右の詩は癸丑の年(嘉永六年一八五三年十月一日)。御所を拝し申し上げて、謹んで厳かにこの漢詩を賦した。時に私は将にこれから長崎に行き海外に出ようとしている。

丙辰季夏(安政三年一八五六年夏の末)二十一回藤寅手録(猛士吉田寅次郎自ら書す) 」

この漢詩碑の裏面にはこの詩碑の来歴が次のように刻まれている。

是先師松陰吉田先生嘉永癸丑十月朔過京都拝
禁闕詩真蹟也初先師為山縣公爵厳父有稔翁書之
翁以伝公爵公爵謂是先師精神之所鍾豈蔵之私家
乎因献於御府焉今茲戊申十月丁先生五十年忌辰
奏請得允撮影以頒同志者京都府教育会員相謀勒
諸石会長大森知府属余記其由乃叙其梗概云
明治四十一年十月
                        従二位勲一等子爵野村   靖撰
                        正三位勲一等男爵野村素介書

                                                         芳村茂承鐫

この漢詩は亡くなられた松陰吉田先生が嘉永癸丑十月一日(嘉永六年一八五三年十月一日)の朝、京都を通過したとき御所を拝して詠んだ漢詩の松陰先生の真筆である。そもそも故先生は山縣公爵の厳父である有稔翁のためにこの詩を書かれた。有稔翁はこれを公爵に伝えたが、公爵が仰られるには、この漢詩は亡き先生の精神を実現したもので、この漢詩をどうして私蔵してよいものだろうか。だからこれを宮中に献納した。今ここに戊申十月丁(明治四十一年一九〇八年十月)は先生の五十回忌に当たるので願い出て撮影の許しを得て、それを同志の者に頒布した。京都府教育会の会員はこの漢詩を石碑に刻むことを互いに計画して、会長である大森京都府知事は私に(子爵野村 靖)この碑の由来を記録するように依託された。よってその経緯などを叙したものである。
           明治四十一年十月
                            従二位勲一等子爵野村  靖撰
                            正三位勲一等男爵野村素介書
                                                             芳村茂承鐫


吉田松陰が詠んだこの漢詩の内容や、詩碑の裏に記された来歴からもわかるように、長崎の港にロシアのプチャーチン艦隊が停泊していることを耳にした松陰は、海外の情勢を知ろうとして、江戸から長崎に向かいます。その途中に京都在の同志、梁川星巌のところに立ち寄ったときに、この漢詩が詠まれたようです。この詩の内容からも、吉田松陰の生きた時代の急迫した状況が伝わってきます。

海外から列強が開国を迫り来る状況にあって、それに対応する能力もすでに失った幕府権力を眼のあたりにして、松陰は皇室の権威をもって国家の威光を回復しようとします。この漢詩にはそうした松陰の根本思想がすでに読みとれます。

その後さまざまな経緯をへて、松陰が安政の大獄で殉難したことは現代に生きる私たちは知っています。松陰の死後、その跡を継いだ伊藤博文や井上毅たちの尽力によって、この松陰の思想はやがて大日本帝国憲法に受け継がれ、明治新生日本の形として残されたことも知っています。しかし、もし歴史上類い希な才能をもった吉田松陰が生き残って、自ら大日本帝国憲法の制定に携わったとすれば、その憲法はどのような形に成ったでしょうか。

それは歴史の空しいIFでしかありませんが、松陰の思想は有為な井上毅などに引き継がれていますから、それほど大きな違いはなかっただろうと想像されます。いずれにしても、皇室やその伝統の形而上学は歴史上すでに客観的に存在していたものです。ただ、その恒久的な理念をどのように正しく間違いなく言い表し定式化するかは、吉田松陰や井上毅のような希有の碩学に依らざるをえないものです。

それにしても、この詩碑の内容を読んで、松陰がいなければその後の日本がどうなったか、現代に生きる私たちが吉田松陰の苦難の生涯にどれほどに限りない深甚の恩恵を被っていることか、それを知ると心に涙とともに感謝せざるをえないものです。

来年のNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」では、吉田松陰の妹が主人公に描かれるそうです。しかし現在のNHKのドラマ制作スタッフたちに、はたして一体どこまで歴史を歪めることなく、その真実の深みにおいて描ききれるものでしょうか。

 

 

※参考資料


『奉拝鳳闕詩』長崎紀行収載(全集:第九巻、三四六頁収載)
 http://goo.gl/MLngqJ

 吉田松陰拝闕詩碑
http://goo.gl/OhDO7w


 

 

 

 

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8月22日(金)のTW:すべての問題の根源は戦争に負けたこと

2014年08月23日 | ツイツター
 
 

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20xx年6月1日に結婚する予定です。 Wir werden am 1. Juni 20xx heiraten.

shuzo atiさんがリツイート | RT

核戦争によって荒廃した国を手に入れるよりも、物資が十分供給されている国に手をつけるほうが賢明ではないだろうか。そこで戦争は心理戦の形をとるようになり、誘惑から脅迫に至るあらゆる種類の圧力を並べ立てて、最終的に国民の抵抗意志を崩してしまおうとする。(スイス政府『民間防衛』)

shuzo atiさんがリツイート | RT

中国人民に行っている中国共産党の反日教育はきわめて深刻だから、中国民衆の日本国民に対する憎悪は「核戦争によって荒廃した国を手に入れるよりも、物資が十分供給されている国に手をつけるほうが賢明ではないだろうか。」ぐらいの理性の枠に収まりきれるか。チベットの二の舞にならないために。


橋本聖子氏。1998年、元ラグビー選手で島村宜伸農林水産大臣のSPも務めた警視庁警備部警護課所属の巡査部長の石崎勝彦と結婚。参議院議員としては初の出産。国会議員の産休が制度化する。橋本は直前まで議員活動をし、入院後2時間で初の出産。現在、三男三女あり(実子3人)。とのこと。


敗戦国の惨めさ、哀れさはこれほどのものか。来年は戦後70年。大日本帝国が戦争に負けてさえいなければ、慰安婦問題も、朝日新聞問題も無かっただろう。国内外から貶めつづけられる日本国と国民【慰安婦で新談話を・朝日に制裁必要…自民政調 :】 yomiuri.co.jp/politics/20140…


自民党の会合で「虚偽を垂れ流した朝日新聞には制裁が必要だ」という意見が出たという。制裁で朝日新聞が改心するのならやってみるがいい。「マルクス主義問題」の解決なくして「朝日新聞問題」の解決もない。【 慰安婦で新談話を・朝日に制裁必要…】 yomiuri.co.jp/politics/20140…


国連人種差別撤廃委員会は不公平ではないか。「対日審査」の前に「対韓審査」「対中審査」を先立って行うべきだろう。少なくとも日本は中国韓国の「反日」のように国家レベルで差別教育は行ってはいない。【国連人種差別撤廃委員会による対日審査 】asahi.com/articles/ASG8P…


ヘイトスピーチ「禁止法が必要」と国連委、日本に勧告案。「反日」の朝日新聞は嬉々として国連による日本国民に対する言論弾圧を報道する。隣国の大統領が先頭に立って扇動する「反日」に、日本国内の「ウヨ」単細胞ウマシカたち(彼らも反日だ)がヘイトスピーチで反応したものだ。背景を説明せよ。


国連やアメリカを利用して国内左翼と中国共産党や韓国はディスカウント・ジャパン運動。それに何の為すすべもなく指をくわえて見ているだけの外務省。高給を取っているならそれに見合うだけの仕事をしろと言いたいが、外務官僚自身がすでに国内「反日教育」で脳内が犯されているために反論できない。哀れ敗戦国。


考えることは最も困難な仕事だ、だからほとんどの人はやろうとしないのだ。(ヘンリー=フォード) Weil Denken die schwerste Arbeit ist, die es gibt, beschäftigen sich auch nur wenige damit.

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ヘイトスピーチの法規制は、左翼リベラル政治家の有田芳生氏が中心となって推進して来たものです。なぜ保守を名乗る政党が保守派庶民を苦しめ、左翼リベラルや外国人を利することをするのでしょうか。左翼リベラルに媚びるような政策に反対します。左翼に媚びるとろくなことがありません。

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財布のひもを握る者が権力を握っている。(ビスマルク) Wer den Daumen auf dem Beutel hat, hat die Macht.

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私にとって後白河院が帝に比べなんとなく疎遠な存在であったのは、この意味から言っても当然であった。朝廷人たちの典雅な挙措に較べただけでも、背の高い、ゴツゴツした身体つきの後白河院は、異様な感じを私たちに与えたのだ。だいいち声が大きくところ構わず大声で笑った。廊下を歩くとき、


そのどしどしという足音は遠くからも聞こえた。それを耳にした人は、間に合うことなら、院の前から逃げ出したいと思ったのだ。院の心に毒があったわけではないが、その傍若無人ぶりは、院庁の人間でも持て余し気味であった。院は遊楽も好きで、鳥羽離宮に人々を集めて花に月に宴を催すのが


つねであったが、そんな折、院が京の巷を鳳輦で行く折々に眼をつけた女房や白拍子たちが、殿上人に混じって今様をうたい舞を舞った。後白河院は女たちに囲まれ、ひどく酩酊の様子に見えたが、それが本当に酩酊したのか、ただそう振る舞っているのか、人々には測りかねた。というのは泥酔してもう


ほとんど崩れ落ちるばかりに見えた院が、不意に立ち上がり、何かを思い出したように、三条殿に戻っていくというなことが何回もあったからである。それがどんな用事であったのか、気に入らぬことがあって用事にかこつけて鳥羽離宮から出ていたのか、そのあたりのことは誰にも分からなかったが、


人々がその度に驚かされたのは、直前の泥酔ぶりと、直後の平然とした様子とが、あまりにも劃然と分かれていて、果たしてどちらが本当の姿か誰にも決めかねたからであった。(西行花伝15頁)


私が一度藤原惟方殿の居間で書類の整理をしていると、たまたま藤原俊憲殿が立ち寄り、それとなく後白河院の噂をしていたが、それは中納言藤原信頼殿が院の寵愛を一身に受けていることに対する憎々しげな嫉妬であり、あからさまな侮蔑であった。俊憲殿は「蟇でも後白河院にはまさる」と


声をひそめて言い、それから惟方殿と声を合わせて笑われた。それにまた「あれほど無能な二枚舌の男を側近に召してご満悦の体たらくでは晋の恵帝も身体を二つに折って笑い転げることだろうな」と言った。私は次の控えの間にいたから二人の姿を見たわけではないが、 二人が何を目論んでいたかは


ほぼ察することができた。ただそれを直ちに平治の騒乱と結びつけることは私にはできなかった。平治の騒乱は別当藤原惟方殿を長門国に配流させたり、信頼殿を斬首させたり、義朝殿を惨殺させたりする結果を招いたが、それは、何か事をしようとした人に付き纏うあの青ざめた血まみれの首と同じで、


どうすることもできないものであった。私はこの争乱の折りも、海亀のように首をすくみ、何も見ず、何もしない人のふりをしていた。それ以外には、不吉な血まみれの運命から免れる道はないように思えたからだ。それならなぜ私は藤原忠重に呼び出されたとき、心をときめかして


白河に出かけたのか。やはり私は有力な後ろ盾が欲しかったのだ。忠重は私にとって親しい関係ではなかったが、縁者には違いなかった。向こうもそれを重く見てくれて私を呼んだのであり、こちらもそれゆえに屋敷へ出向いたのである。今だが、私が恐れた何か事を成すということは、


実は、こうした些細な結びつきから始まるのではないか。(西行花伝一五頁)


 
 
 
 
 
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