ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十四節[偽善について]
§64
Mit der Verleumdung, (※1)welche eine wirkliche Lüge ist, ist das üble Nachreden verwandt, die Erzählung von solchen Dingen, die der Ehre eines Dritten nachteilig und dem Erzählenden nicht an und für sich offenbar sind. Es pflegt in missbilligendem Eifer gegen unmoralische Handlungen zu geschehen, auch mit dem Zusatz, man könne die Erzählungen nicht für gewiss versichern und wolle nichts gesagt haben.
第六十四節[偽善について]
第三者の名誉を傷つけるような、もともと話し手にとってすらはっきりしない物事について語ることは、タチの悪い中傷 にほかならず、それは本当に嘘をつく誣言と同じである。
こうした中傷は、不道徳な行為については決して容認できないという反感から起こりやすい。また、それに加えて、それははっきりと断言することはできないとか、それについてとやかく言いたくないといったことを人は言いがちである。
Es ist aber in diesem Fall mit der Unredlichkeit verbunden, die Erzählungen, die man nicht verbreiten zu wollen vorgibt, durch die Tat wirklich zu verbreiten; und in jenem mit der Heuchelei, moralisch sprechen zu wollen und wirklich böse zu handeln.
しかし、この場合においては、人は話を広めたくないようなふりをしながら、実際の行動においては広めているという不誠実さと結びついている。そして、そこには、道徳的に話そうとしてはいるが、実際には悪を行うという偽善 と関わりがある。
Erläuterung.
説明
Heuchelei besteht darin, dass die Menschen böse handeln, sich aber gegen Andere den Schein geben, eine gute Absicht zu haben, etwas Gutes haben tun zu wollen. Die äußerliche Handlung ist aber nicht von der inneren verschieden. (※2)Bei einer bösen Tat ist auch die Absicht wesentlich böse und nicht gut gewesen. Es kann dabei der Fall sein, dass der Mensch etwas Gutes oder wenigstens Erlaubtes hat erreichen wollen. Man kann aber dabei nicht das, was an und für sich böse ist, zum Mittel von etwas Gutem machen wollen. Der Zweck oder die Absicht heiligt nicht die Mittel.(※3)
偽善とは、他者に対しては、自分は善意をもっているとか、何か善いことを行おうとしてると見せかけながら人間が悪を行うということにある。だが、外に現れる行為は内心とは切りはなせない。悪行においては意図も本質的に悪であり、善ではありえない。たしかにそこには人間が何か善いことを、あるいは少なくとも何か他者に認められるようなことを成し遂げたかったという場合もありうる。しかし、人間はその際にも本来的に悪であるものを、何か善きものの手段とすることはできない。目的や意図は手段を神聖にはしない。
Das moralische Prinzip geht vornehmlich auf die Gesinnung oder auf die Absicht. Aber es ist eben so wesentlich, dass nicht nur die Absicht, sondern auch die Handlung gut ist. — Eben so muss sich der Mensch nicht überreden, dass er bei dem gemeinen Handeln des individuellen Lebens wichtige, vortreffliche Absichten habe. Wie nun der Mensch einerseits seinen eigenen Handlungen gern gute Absichten unterlegt und seine an und für sich unwichtigen Handlungen durch Reflexionen groß zu machen sucht, so geschieht es umgekehrt gegen Andere, dass er großen oder wenigstens guten Handlungen Anderer durch eine eigennützige Absicht etwas Böses beilegen will.
道徳的な原則はとくに心情や意図を問題にする。しかし、たんに意図だけではなく、むしろ行為もまた善であること が重要である。── それゆえまさに、人は個人的な生活におけるふつうの行為においても、重要で立派な意図をもっていたのになどと言い訳してはならない。なるほど人は一面において自身自身の行為については、それに善い意図があったことや、そして、もともと重要でもない自分の行為を振り返って、それを偉大なものに見せかけようとする。そうして、それとは反対に他者に対しては、その偉大な、または少なくとも善い行為については、そこに利己的な意図があるとか、何か悪意が秘められているといった、逆に貶めるようなことを言う。
※1
die Verleumdung
名詞: 中傷、 誹謗、悪口、 誣言、悪態
※2
Die äußerliche Handlung ist aber nicht von der inneren verschieden.
外に現れる行為は内心とは切りはなせない。
先の第六十三節において、意識が分裂することによって、心情と行為に不一致の生じることが明らかになった。そこからさらに、心情や内心に反する行為が意図的に行なわれるようになる。これが偽善であり偽悪である。
※3
Der Zweck oder die Absicht heiligt nicht die Mittel.
目的や意図は手段を神聖にはしない。
たとい人間の平等を実現して貧困を撲滅しようとしても、その手段としての暴力革命は正当化できない。
むしろ、行為もまた善であることが重要である。
心情と行為に不一致があるとしても、すべては行為によって、その結果によって判断される。
イエスは偽預言者を警戒して「その行為によって、 彼らを見分けよ」と弟子たちに言い、また「ブドウの木の良し悪しはその実によってわかる」と言った。
(マタイ書7:15〜16)
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