§13
Zuerst ist das Ich das rein(※1) unbestimmte. Es kann aber durch seine Reflexion von der Unbestimmtheit übergehen zur Bestimmtheit, z. B. zum Sehen, Hören u. s. f. In dieser Bestimmtheit ist es sich *ungleich* geworden, aber es ist zugleich in seiner Unbestimmtheit geblieben, d. h. es kann, indem es sich in sie begibt, wieder zurückkehren in sich selbst.
§13〔決断について〕
まず、「私」は全くに規定されないものである。しかし、「私」はその無規定性について自ら反省することによって規定性へと、たとえば、見ること、聴くこと、等々へと移行してゆくことができる。この規定性において「私」は自己と不同のものとなる。しかし同時に、「私」は自己の無規定性にもとどまっている。すなわち、「私」は自己を規定しながらも、再び自己自身(の無規定)の中へと戻ることもできる。
Hierher gehört auch das Entschließen, denn es geht ihm die Reflexion vorher und besteht darin, dass ich mehrere Bestimmtheiten vor mir habe, in unbestimmter Menge, welche aber doch wenigstens diese zwei sein müssen, nämlich irgend eine Bestimmung von etwas oder auch dieses nicht.
ここにまた決断がある。なぜなら反省は決断に先行するし、次のことのうちに決断は存在するからである。私の前にさまざまな規定性を、「私」は規定されない総体のうちにもっているが、しかし、そこには、少なくとも規定された二つのものがなければならない。すなわち、あることについて何らかの決定をするか、あるいは、また、この決定をしないか。
Der Entschluss hebt die Reflexion, das Herüber- und Hinübergehen von einem zum andern, auf, macht eine Bestimmtheit fest und macht sie zur seinigen. Die Grundbedingung des *Beschließens,* der Möglichkeit, sich zu entschließen oder vor dem Handeln zu reflektieren, ist die absolute Unbestimmtheit des Ich.(※2)
決断とは、一つのことから他のことへ、あっち行ったり、こっちへ行ったりする反省を止揚することであり、一つの決定を確かなものとすることであり、それを自らのものとすることである。決断の根本条件、自らを決定する能力の根本条件、あるいは行為の前に反省する能力の根本条件とは、「私(自我)」の絶対的な無規定性である。
(※1)
rein
adjective: ピュア, 純粋な, 純正, 純然たる, 真, 清い, 清浄, 清らか, 生粋, 潔い, 生, 健気
noun: 真正
(※2)
ヘーゲル弁証法の「あれもこれも」を浅薄にしか理解し得なかった実存主義の創始者キルケゴールやサルトルなどは、それを批判し「あれかこれか」を主張して、投企や決断の個人の主体性を強調した。しかし、この第13節に見るように、ヘーゲルのいわゆる「決断Bescliessen」⎯⎯が個人の主体性を知らなかったわけではない。むしろ、ヘーゲルの「あれもこれも」が「私」の無規定性を媒介にしているがゆえに、個人の投企や決断が客観性、科学性の根拠をもちうるものとなった。この点において実存主義者たちの恣意的で悟性的な単なる主観性に終始した投企や決断よりも高いものである。
ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十三〔決断について〕 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/Ri5u3Z