宮城県気仙沼市へ夕夏と会社若手たちと3日間ボランティアへ行ってきた。
まずは一通りの流れから。
今回は、僕の会社と同業の会社の若手の有志による「GWにぜひ東北でボランティアを!」という計画に参加させてもらった。
前回の石巻よりも交通の便が悪い気仙沼で活動できたのも、このグループに入れてもらえて行動したからこそで、感謝感謝。
金曜の朝7時に夕夏と大倉山を出て、東京駅から復旧したばかりの東北新幹線で一ノ関へ。
そこからこれまた復旧したてのワンマン電車大船渡線で気仙沼へ。
ここは今ちょうど桜の季節で、電車から見る桃色の淡い景色はきれいだった。
気仙沼に到着したのがちょうどお昼。
そこから歩いて気仙沼のボランティアセンターへ。
この約15分の田舎道も、心に残るきれいな道だった。
単線の線路沿い、桜や菜の花、タンポポが咲き誇る緑いっぱいの道。
津波の被害のないここは、まるで震災が嘘のような、平和な春だった。
そして、これから見る、たくさんのものが破壊された被災地でも、やはり桜や菜の花、タンポポなど、自然は本当に強く生きていて、唯一といっていい「色」をその景色に添えていた。
ボランティアセンターでは、今日から泊まるテント村や明日からのボランティア活動の説明を受けて、タクシーでテント村へ。
テント村にはたくさんの大きな鯉のぼりが海風に舞っていた。
僕と夕夏以外のメンバーは、車で関東から向かっていたが大渋滞のために大幅に到着が遅れてしまった。
テント村には、意外にも食堂兼居酒屋が営業していた。
その日の夜は、そのお店でボランティアセンターのスタッフやボランティアたちでの飲み会に参加した。
翌日からはいよいよボランティア活動開始。
朝8時半にボランティアセンターに行き、その日の活動とグループを決める。
センタースタッフの「男の方○○人、女性の方○○人」
という呼びかけに、集まったボランティアたちが
「はいはい!!」と手を挙げ、グループが決まっていく。
その繰り返しで、200人を超えるボランティアたちのグループと活動が次々と決まっていく。
さながら、鉱山近くの道に集まった日雇い労働者たちを数人を選んでトラックに乗せていくあの光景だ。
僕は、10人グループで津波に被災した家の泥出し作業。
家からは既に家財道具が運び出されており、床板もはがされていた。
作業は床下の泥をひたすらかき出し、土嚢袋へ詰め、外へ運ぶの繰り返し。
単純作業だからこそつらい。
11時ごろから30分のお昼休みを挟んで15時までの作業。
最後は、あと少しで一通り泥を出し終わるということで、メンバー総出での猛スパート。
さすがに体力的にも筋力的にも悲鳴をあげた。
これこそ短期ボランティアの瞬発力だ。
翌日の作業は、6人のグループで同じく民家の泥のかき出し。
ここでは、床板をはがす作業から始まり、泥出し、石灰撒き、白蟻駆除剤撒き、黒炭撒きを経て、床板をはめる作業まであったが、非常に効率よく作業が進んだためお昼までには全ての工程が完了した。
ここには、親戚の方々や近所の方々も応援に駆け付けていて、みんなが準備されたお昼ご飯までいただいた。
五目御飯やおでん、ニラのおひたし、ポンカンまでこんなにおいしい料理をボランティア期間中に頂けるなんて思ってもみなかった。
料理をいただいている間、この家の方がしてくださったお話は、いろんな言葉が心に残った。
この日の作業がお昼までで終わったことで、15時まで時間が余った。
このため、メンバー4人で津波の被害が最もひどかった陸前高田まで車で行ってみることにした。
今日のボランティアをした家の方が、ぜひ見るだけでも見てきた方がいいとアドバイスをしてくれたからだ。
気仙沼から車で約30分。
そこは石巻や気仙沼とは比較できない、本当に町が丸ごとかき消されていて、あまりにも何が何だかわからないくらいに破壊されていて言葉にできない場所になっていた。
ここでの気持ちは、あとで少し詳しく書こうと思う。
陸前高田から戻り、会社の若手のメンバーに別れを告げた。
僕らはこの夜の電車で横浜に戻るが、彼らはまだ残る。
長い人はGWの終わりまで活動する。
ボランティア活動そのものももちろんそうだが、キャンプ生活だけでも肉体的、精神的な疲労が大きいと思う。
本当に、無事でがんばれ。
夕夏と気仙沼駅前の銭湯で三日分の汗を流し、一路横浜へ。
家に着いたときは翌日の1時近くなっていた。
まずは流れだけをと思っていたが、結局長文となってしまった。
うーむ、よくない。
このあと、個別の印象に残ったことをいくつか書く予定。
まずは一通りの流れから。
今回は、僕の会社と同業の会社の若手の有志による「GWにぜひ東北でボランティアを!」という計画に参加させてもらった。
前回の石巻よりも交通の便が悪い気仙沼で活動できたのも、このグループに入れてもらえて行動したからこそで、感謝感謝。
金曜の朝7時に夕夏と大倉山を出て、東京駅から復旧したばかりの東北新幹線で一ノ関へ。
そこからこれまた復旧したてのワンマン電車大船渡線で気仙沼へ。
ここは今ちょうど桜の季節で、電車から見る桃色の淡い景色はきれいだった。
気仙沼に到着したのがちょうどお昼。
そこから歩いて気仙沼のボランティアセンターへ。
この約15分の田舎道も、心に残るきれいな道だった。
単線の線路沿い、桜や菜の花、タンポポが咲き誇る緑いっぱいの道。
津波の被害のないここは、まるで震災が嘘のような、平和な春だった。
そして、これから見る、たくさんのものが破壊された被災地でも、やはり桜や菜の花、タンポポなど、自然は本当に強く生きていて、唯一といっていい「色」をその景色に添えていた。
ボランティアセンターでは、今日から泊まるテント村や明日からのボランティア活動の説明を受けて、タクシーでテント村へ。
テント村にはたくさんの大きな鯉のぼりが海風に舞っていた。
僕と夕夏以外のメンバーは、車で関東から向かっていたが大渋滞のために大幅に到着が遅れてしまった。
テント村には、意外にも食堂兼居酒屋が営業していた。
その日の夜は、そのお店でボランティアセンターのスタッフやボランティアたちでの飲み会に参加した。
翌日からはいよいよボランティア活動開始。
朝8時半にボランティアセンターに行き、その日の活動とグループを決める。
センタースタッフの「男の方○○人、女性の方○○人」
という呼びかけに、集まったボランティアたちが
「はいはい!!」と手を挙げ、グループが決まっていく。
その繰り返しで、200人を超えるボランティアたちのグループと活動が次々と決まっていく。
さながら、鉱山近くの道に集まった日雇い労働者たちを数人を選んでトラックに乗せていくあの光景だ。
僕は、10人グループで津波に被災した家の泥出し作業。
家からは既に家財道具が運び出されており、床板もはがされていた。
作業は床下の泥をひたすらかき出し、土嚢袋へ詰め、外へ運ぶの繰り返し。
単純作業だからこそつらい。
11時ごろから30分のお昼休みを挟んで15時までの作業。
最後は、あと少しで一通り泥を出し終わるということで、メンバー総出での猛スパート。
さすがに体力的にも筋力的にも悲鳴をあげた。
これこそ短期ボランティアの瞬発力だ。
翌日の作業は、6人のグループで同じく民家の泥のかき出し。
ここでは、床板をはがす作業から始まり、泥出し、石灰撒き、白蟻駆除剤撒き、黒炭撒きを経て、床板をはめる作業まであったが、非常に効率よく作業が進んだためお昼までには全ての工程が完了した。
ここには、親戚の方々や近所の方々も応援に駆け付けていて、みんなが準備されたお昼ご飯までいただいた。
五目御飯やおでん、ニラのおひたし、ポンカンまでこんなにおいしい料理をボランティア期間中に頂けるなんて思ってもみなかった。
料理をいただいている間、この家の方がしてくださったお話は、いろんな言葉が心に残った。
この日の作業がお昼までで終わったことで、15時まで時間が余った。
このため、メンバー4人で津波の被害が最もひどかった陸前高田まで車で行ってみることにした。
今日のボランティアをした家の方が、ぜひ見るだけでも見てきた方がいいとアドバイスをしてくれたからだ。
気仙沼から車で約30分。
そこは石巻や気仙沼とは比較できない、本当に町が丸ごとかき消されていて、あまりにも何が何だかわからないくらいに破壊されていて言葉にできない場所になっていた。
ここでの気持ちは、あとで少し詳しく書こうと思う。
陸前高田から戻り、会社の若手のメンバーに別れを告げた。
僕らはこの夜の電車で横浜に戻るが、彼らはまだ残る。
長い人はGWの終わりまで活動する。
ボランティア活動そのものももちろんそうだが、キャンプ生活だけでも肉体的、精神的な疲労が大きいと思う。
本当に、無事でがんばれ。
夕夏と気仙沼駅前の銭湯で三日分の汗を流し、一路横浜へ。
家に着いたときは翌日の1時近くなっていた。
まずは流れだけをと思っていたが、結局長文となってしまった。
うーむ、よくない。
このあと、個別の印象に残ったことをいくつか書く予定。
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