FBは怖いからやめたという話がありました。
書き込みをやめたのか、見るのをやめたのか、多分どちらもしないことにしたというのでしょう。
人と会うのが嫌なので誰も来ない山奥に引きこもろうというのと、どこか似ているところがあります。
名前で検索されると、動向がわかってしまうのが怖いと思うらしいのですが、人さまの名前を、何の理由もなしに検索するような奇行に及ぶ人が、世の中にどれほどいるでしょうか。
どこかにそういう人がいたとしても、郵便受けに入っているポスティング・パンフレットの差出人よりも、はるかにかかわりは薄いでしょう。
まあ、どうということはないと思うのです。
人間は、知人非知人の差別をするという説があります。
知人なら安心、非知人は怖いという感覚でしょうか。
安心度も非安心度も、既知未知にはごくわずかの差しかないと思うのですが。
もし非知人がみな恐ろしければ、道を歩いたりも電車に乗ったりもできません。
人間は、信頼というごく頼りない関係の中でみんなが過ごしています。
何があっても大丈夫とまでは、とてもいくものではありません。
私たちは、3年前にその実証を見せつけられました。
何かの変化をとらえて瞬時に対処する心得が少しでもあれば、それはそのときと思っているしかなさそうです。
私たちは、どこかに居を構えれば、住民登録を済ませた段階で、もう管理監視の網に引っ掛かっています。
街を歩けば、その映像はどこかに記録されています。
SNSも、電波でつながっている、顔が見えない、範囲がだだっ広いというだけで、山奥生活との違いと言えば、逃げ場はすでにないということなのです。
パソコンでもスマホでも、インターネットを見さえすれば、もうWebのネバネバが足に絡んでいます。
電波は、山奥に逃げ込んでも、どこまでも追いかけてきます。
それが証拠に、何かをちょっと検索したり、通販のカタログを覗いてみたり、広告に心を動かしてみたりすれば、そのアイテムが次に開くネット画面に現れます。
あなたはこれを欲しがっていませんか、また思いだしてください、忘れないでくださいと。
これはどこか特定のサイトでアカウントを持っているかどうかにはあまり関係がなさそうです。
では、どうしたらよいのでしょうか。
それぞれのサイトは画相を持っています。
人相風態に似た感じのものですが、画相の怪しいものには素知らぬ顔をしておく、どうもそれしかなさそうです。
いかがでしょうか。