外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

中川和亮さん

2010-07-13 19:28:56 | 大学野球
週べ今週号には、福井優也くんの投球を、巨人のスカウトであった中村さんが、プロの視点で解説されています。
題して「甲子園の申し子が、最終学年の神宮で躍動!」
早稲田ファン必読といえる内容です。

さて、神奈川県鎌倉市在住の早稲田OBの組織である鎌倉校友会。
その会報を何気なく読んでいたら、市内にお住まいの野球部OB・中川和亮さん(昭和23年入学。旧制・茨木中学出身)が、当時の野球部に関する思い出を語る文章を寄せていらっしゃいました。

中川さんが早稲田の野球部に入った年、新入部員が何と150名もいたそうです。
甲子園球児も40名近く含まれていたそうですから、部内競争は凄まじいものだったでしょう。

その150名を「適正人員」に絞り込もうと、毎日、朝の10時から夕方5時まで練習し、その後に駆け足でグラウンド30周というメニューが連日続きました。
一年生たちは過労と栄養失調で、たびたび黄疸となり、練習を休んでシジミ汁を飲むこともあったそうです。

その猛練習の結果、入学時に150名いた同期生は、卒業時には10数名に減っていたそうです。

中川さんは、名手・蔭山和夫遊撃手(市岡中学出身。後に南海ホークス)の控えとして、3年生の春からベンチ入り。
蔭山さんが卒業し、さあ自分がレギュラー遊撃手だと思ったら、これまた名手の広岡達朗さんが入学してきて、中川さんはサード・セカンド・ショートを守る内野のユーティリティ・プレーヤーとなりました。
時にはサード・コーチャーも務められたそうです。

日本球史に残る名手二人とのポジション争いというのですから、これはもう、巡り合わせが良くなかったと言うしかありません。
プロ球団でレギュラーになるよりも、当時の早稲田の正遊撃手になる方が大変であったと思います。


当時の早稲田の内野陣。
前列左から、名将・森茂雄監督(松山商業出身)、山田(成田中学)、宮崎(小倉中学)、中川(茨木中学)
後列左から、上春(高松一高)、小森(松本市立)、広岡(呉三津田)、枝村(鎌倉学園)

当時の六大学は、法政に関根潤三、慶応に平古場・藤田、立教に五井・大沢、明治に杉下・秋山らがいる時代。
東都や関西リーグと交流試合しても、二軍クラスを出してダブル・スコア勝つというぐらい、圧倒的に東京六大学が強かったそうです。


以前に取り上げた、四十勝投手・末吉さんとの一枚。
前列・末吉投手(小倉中学)、後列左から、荒木(池田高校)、中川(茨木中学)

昭和28年に卒業した後、中川さんは日本鋼管で野球を続けられました。
日本鋼管は、その前年に野球部を創設したばかりで、初代監督は早稲田出身の名捕手・宮原さん(岡山二中)であったと。
末吉さん、宮原さんの写真と記事
私が住む鎌倉の市内に野球部OBの方がお住まいとは、これまで知りませんでした。
次に鎌倉校友会の会合に参加した時には、ぜひご挨拶させていただきたいと思っています。
Comments (2)
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