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文化的・芸術的表現の優越性

2010年05月20日 | 学習ノート
【概要】憲法学にいう二重の基準論の根拠についての議論を振り返る。その上で、根拠の一つとして挙げられる民主的政治過程論について、公共圏の観点から具体化し、文化的・芸術的表現にも強く妥当することを主張する。また、その理由づけから他の問題についても考え方の指針が得られないか検討する。


1 二重の基準論の実質的根拠

1.1 二重の基準論とは

日本の憲法学では、「二重の基準論」という理論がある。ある法令等が憲法に違反しないか検討するにあたり、いかなる基準により憲法違反になるか判断するか、という違憲審査基準論が問題となる。その違憲審査基準論を考える上での指針として、精神的自由(表現の自由・思想良心の自由等)を規制するものに対しては、経済的自由(職業の自由・財産権等)の場合よりもより厳格な審査基準が必要である、というものがある。これが二重の基準論である。

二重の基準論は一般論としては判例・実務でも承認されているが、その根拠が何であるかについては議論が確立したとは言えない。そのために必ずしも二重の基準論が十分に反映されたとは言えない事件の解決が見られる。根拠としては、経済的自由の判断は立法府が適しているといった裁判所の審査能力を理由とする機能的なものと、精神的自由には本質的に優越性があるという実質的なものに分けられる。ここでは、後者の実質的根拠について検討をする。そして、精神的自由の中でも議論の主戦場となっている表現の自由を想定して進める。

1.2 自己実現と自己統治

実質的根拠として広く言われているのは、表現の自由は(1)自己実現の価値を有する(2)自己統治の価値を有する、ということである。(1)を具体化すると、個人が人格を発展させ自律的に生きるためには、自ら意見を自由に表明し、多様な考え方に接する必要があり、個人の自己実現や自律に奉仕している、というものである。この根拠に対しては、表現の自由が自己実現につながるのは確かであるが、職業の自由といった経済的自由にも自己実現に資する面があり、とりわけ表現の自由を厚く保護することにはならないのではないか、という批判がある。

(2)自己統治の価値とは、民主的政治過程の維持とも言われる。表現の自由が侵害されると、政治についてよりよく判断するための情報が奪われることとなり、民主的な政治過程で回復することが困難になる。対して経済的自由の規制においては、たとえ不合理な規制がされても民主的な政治過程で回復が可能であり、そのことが望ましいとも言える。この根拠に対しては、民主的政治過程の維持に照らすと政治的な表現の自由しか保護されず、表現の自由やその他精神的自由の保護の根拠としては不十分であるという批判がある。また、経済的自由も表現の自由を実質化するために必要であり、表現の自由のみ厚く保護するという帰結は知識人特有の偏見であるという批判もある。

1.3 思想の自由市場論・国家の疑わしい動機

このような批判を受け、以上の2つの根拠では不十分と考える学説は、他の根拠を持ち出す。代表的なものは(3)思想の自由市場論である。真理に到達するためには真実か誤りか問うことなく自由な競争をさせることが必要であり、表現の自由に対する規制は忌避されるべき、というものである。これは学問的な表現について優越性を根拠付け、(2)民主的政治過程論では不十分とされた領域を捕捉する意義がある。もっとも、この根拠に対しては、市場経済の類推を持ち込んでいるが、市場経済は独占禁止法等の規制が当然に伴うものであり、同様に、例えば私人が他人の思想を抑圧するような行為をすれば国家がそれを防止するため介入することを正当化するのではないか、という疑問がある。

また、(4)国家の疑わしい動機という根拠も出されている。表現の自由を規制する国家の側に着目し、歴史的経験上、表現の自由を規制しようとする国家の動機は批判を抑圧し体制を維持するためのものであり、そのような疑わしい動機がないか厳格な審査が必要である、というものである。これに対しては、動機が疑わしいことは審査の「慎重さ」を要求すれど「厳格さ」を必然的に求めるわけではないのではないか、という疑問を個人的に抱いている。立法事実の慎重な審査でも裁判所をすり抜ける危険があるから、予防原則に則って厳格な基準が必要であるというステップが必要である。しかし立法事実の偽装は各種距離制限規定など経済的自由で華やかであり、裁判所の審査をすり抜けた例も観察できる。これは裁判所の審査能力が経済的自由のほうが低いからであって、むしろ経済的自由に予防的に厳格審査を要求するのが適しているように見える。それでも精神的自由の規制に予防が必要と言うのなら、別の根拠を援用する必要があるのではないか(そして民主的政治過程論に行き着くように思う)。

1.4 民主的政治過程論の再評価

以上のように議論の状況を自分なりにまとめてみたが、今回私が主張したいのは、(2)民主的政治過程論で十分じゃないのか、ということである。特に、民主的政治過程論では政治的表現以外の自由を基礎付けるには不十分というが、文化的・芸術的表現の自由であっても民主的政治過程論で理由付けが可能ということである。その理由を一言で言えば、「文化的表現は複数の個人が経済的利害なしに結びつく機会を提供しており、そこで形成される人間関係が個人の政治的認識を高める作用をしていて、民主的政治過程の不可欠な基盤を作っている」ということである。折しも現在は民主的政治過程論の再評価という方向のようであり(大河内・ジュリスト1400号60頁以下参照)、今回の主張は、自己実現の価値のある表現と民主的政治過程とは密接に連関し、政治的表現以外の表現でも同じく保障されるべきという指摘(芦部『憲法学Ⅱ』222頁)の具体化を試みるものと位置づけることができる。


2 文化的表現と民主的政治過程論

2.1 文芸的公共圏・政治的公共圏

基本的なアイデアは、社会学の定番で出てくるハーバーマス『公共性の構造転換』である。ここでは、18世紀から19世紀初頭にかけてのイギリス・フランス・ドイツで起こった出来事として、「文芸的公共圏」から「政治的公共圏」へと成長していき、教会と君主が支配する封建社会から市民社会へと移行したことが指摘されている。

「文芸的公共圏」とは、文学作品を共通の関心事として語り合う空間のことを言う。この文学作品をめぐって交わされる言論においては、(1)平等性―社会的地位を度外視して対等な議論が行われるべき、(2)自律性―教会や国家の権威による解釈の独占を排除し、相互理解の下で自立的・合理的に解釈をする、(3)公開性―文学作品を入手する財産と議論するための教養がありさえすれば、全ての私人が公衆として参加できる、というルールが形成される。このようなルールの下では、身分を超えた自由な議論が多く交わされることになる。それはやがて政治の話題を議論する場になり、公権力に対する批判も行う公論形成の空間としての政治的公共圏へと成長するのである。

2.2 日常生活へのリアリスティックな認識

以上のような文芸に関する言論が政治的言論の基盤を作るという過程は、現代の日本社会における日常生活を見ていても大いに観察することができる。「政治と宗教の話はするな」という言葉があるように、政治の話題というのは個々人の譲れない信条と絡み合い、相互理解ができていない人間関係の上で話題となれば場を壊し、関係の存続を難しくするという性質がある。日常生活において他人と政治の話題を語るとすれば、本・音楽・スポーツ等文化活動を通して気のおけない関係となっている場合に、生活体験やいつもの本・音楽・スポーツ等の話題から入り、そこからニュース等の話題を経て感想や意見を論じる、という順序をとることが多いであろう。最初から最後まで政治の話題しかしない人間関係や集団というのは、明らかに異質である。文化的な基礎をなくして政治的な認識を高めることは通常想定できないと言える。

そして、文化活動を通して得られる人間関係というのは、年齢も職業も様々で多様性をもたらす可能性を秘めている。これは、文芸的公共圏が平等性・自律性・公開性をもたらしたことと共通している。音楽や演劇の公演会場で出会う人は、職業生活では出会うことのない人であろう。このブログに検索で辿り着いた方も、私とは全く違う仕事や専門をもっていることであろう。こうして多様な人と触れるということは、民主主義を実質化するためには非常に重要であり、個人の政治認識を高めることに大きく貢献するものである。

このように、文化・芸術の極めて重要な機能として、「同一の興味」の下で多様な個人を接着させ充実した人間関係を作ることが挙げられる。芸術表現については、「魂の避難所となる」「過酷な競争において息をつぐ機会を提供する」といった意義が指摘されているが(駒村「国家助成と自由」『論点探求憲法』168頁以下)、あまりに孤独で消極的な感じがする。仮に日本において市民社会が未成熟であるとすれば、長時間労働により多くの人にとって文化・芸術が逃げ場になるにとどまり、それ以上の個人間の評論・議論の場の形成という機能に参加できていないという点に理由を求めることができるであろう。

以上のように個人を接着させるという機能に着目すると、文化的・芸術的表現が規制・侵害されるとそれによって個人間の親密な人間関係の形成の機会が奪われることとなり、個人が政治認識を高めることができなくなる。そして、このことは国民が規制を政治過程で修正する力自体を奪うものであって、政治過程による回復が困難であると言える。かくして、文化的・芸術的表現は、民主的政治過程論そのものが妥当する領域であると考えられるのである。


3 展開と射程

3.1 経済的自由との区別の正当化

以上の議論では「政治的表現以外の表現が射程から外れる」という民主的政治過程論への批判に対する再反論が完了したことになる。続いて、経済的自由も同様に民主的政治過程に貢献しているという批判に対しても再反論できないかを検討してみよう。この部分については十分に考えが練られてはいないが、経済的自由からもたらされる個人の接着は第一に経済的利害に基づくものであって容易に政治的公共圏に昇華するものではないこと、文芸的公共圏ないし文化活動に参加するための財産の取得は生存権の問題として位置づけることが可能であることが指摘できる。このことからすれば、民主的政治過程の基盤としての性質には自ずから差があり、審査基準として差を設けてもよいと考えられよう。

これらの中間領域としての営利的表現の自由ついても考えてみよう。文化活動であっても、大規模・高い質・継続性を備えようとすれば経済活動としても成り立たせる必要が出てくる。そのために広告等営利的表現を行うことは避けられないことであり、この場合文化的表現と営利的表現の区別は困難になる。もっとも、この場合でも経済活動としての側面がある以上、財の取引のルールが妥当し、誤った情報を与えて判断を誤らせてはいけない等の制約は当然に伴うと言える。区別の困難性から表現の自由として厚い保障の領域に一旦は属するが、経済活動の側面から一定の制約は免れず基準が一段階落ちることも正当化されると考えられる。

3.2 スポーツ等文化活動の自由

文化的表現の性質として「複数の個人が経済的利害なしに結びつく機会を提供すること」があり、これが民主的政治過程の基盤をなしていると論じてきた。このような性質はスポーツのような文化活動の自由についても認められる。先の論述で「スポーツ等の話題」としたのはこうした理由である。スポーツをする自由というのは、13条の幸福追求権の一貫として保障がされ、施設の必要性は社会権の領域として認識されるのが通常であろう。この場合、保護の強さとしてはあまり期待できない。そこで、文化的表現と同様の機能を有していることにより、強い権利保障を基礎付けることが考えられる。

しかし、スポーツをする自由は侵害の危険に晒されることは少ないと言える。昔は強い兵隊の獲得のため、今では国民の健康確保のため、歴史的経験として、運動をする・スポーツをするということが奨励されど抑圧されることはあまりなかった。この観点から表現の自由一般よりも保護の度合いが落ちる可能性がある。歴史的経験が解釈論における理由付けとして意味をもつことは、憲法21条2項「検閲」の最高裁の解釈や、憲法14条1項後段列挙自由の限定列挙説の理由付けや、憲法31条以下の権利の重要性を語る上で用いられていることからも明らかである。もっとも、戦時において敵国発祥のスポーツを禁止するような事態は生じうる。この場合は民主的政治過程論との関係から強い保護を主張することが要請されよう。


4 おわりに

他にも射程論として近時制約が強まっている性表現の自由についても検討したかったが、議論が分散してしまうおそれがあるので、またの機会に論じることとしたい。

以上の問題について認識をさらに深めるべく、この記事を読んで、批判や足りないところがあると感じれば、アドバイスをいただきたい。また、憲法学では既に同様の指摘がなされているといった情報があれば、参照すべき文献等をぜひともご教示いただきたい。コメント欄あるいは右上のメールフォーム(「メッセージを送る」をクリックすると登場する)、さらにtwitterのアカウントも試しに作ってみたので、活用していただけたら、と思う。


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