変えられない過去
過去にあった事実は変えることができない。そのことで苦しむことがあるだろう。何かの拍子にふと過去の失敗や恥ずかしい出来事を思い出して「うわああ」と叫びたくなる。このときは思いが過ぎ去るのを待つしかない。「命長ければ則ち辱多し」という言葉も古来から存在しているように、失敗の経験は長く生きれば生きるほど多くなり、叫びたくなる機会も多くなる。たいていは年とともに自意識や感受性が低下して気にならなくなってくるが、感覚が鋭敏な人はいつまでも苦しめられることになるだろう。
しかし一方で、変えられない過去に頼ることで自我を保つことができる場合も多い。過去の成功は揺るがないので、自信の基礎となるだろう。また、過去の失敗でも「他人のせい」であれば、その他人をずっと責め続けることで現在の苦境から目を背けることができる。これは気楽なことだ。アフリカが発展しない理由(Chikirinの日記)では、アフリカの政治家が自国の現状の悲惨さを過去の植民地化の結果であると考え、自分たちで発展しようという気持ちがないということが指摘されている。私たちの身近でも、家庭環境のせい、学校のせいという言説をよく目にする。家庭と学校で多くの時間を過ごしたのだから何かしらの影響があることは当たり前である。
これらの側面は現在苦境にあることへの逃避的な防衛反応であることが多く、問題解決に資することは少ない。いつまでたっても苦境の状態を引き延ばすこととなる上、着実に歩みを進める者たちと差が開いていってしまう。また、「他人のせい」にされた他人は、執拗に攻撃を受けて心身疲労困憊してしまうことになる。気が晴れるまでの一時的な反応ならいいが、継続すると誰にとってもいいことはない。
変えることができる「評価」
ここで意識すべきことは、事実は変えられなくても、それに対する評価は後から変えることができるということである。失敗や恥ずかしい出来事がいつまでも忘れたいことでありつづけるのは、その失敗が現在の自分に生かされていると思えないからではないだろうか。失敗をするということは、それだけ挑戦したということで、素晴らしいことでもある。そして、失敗を分析・反省して再挑戦したり別の道で生かしたりして成功につなげることができる。そうなれば、過去の失敗は「成功のため不可欠だった通過点」という位置づけになり、忘れたいとは思わなくなるだろう。失敗したことに傷つき、その分野から逃げてしまうことばかり繰り返すと、忘れたい過去がどんどん積み重なってしまう。どこかで対峙する必要が出てくる。
例えば、就職活動等の面接で失敗しても、その反省点を心がけて次の面接で思わぬ好評価が得られたりということがある。また、典型的な忘れたい過去として、思春期に思い描いたファンタジーの世界を現実の行動に出してしまう、ということがある。自分が勇者だと思ったり、というやつだ。このような過去ですら、発展させて文学作品を作ろうとしたり、映画や文芸の議論・評論をしたりするときに生かすことができる。また、自分の子供が思春期になった頃にその気持ちを理解し、適切な教育を施すことができる。何よりも大切なのはこれからの自分が成功の実感をもてるよう取り組むことであり、この過程で「抹消したい過去の私」から「愛すべき過去の私」に変わるのである。
成功の実感を得るというのは、自分の考えをただ変えるだけでは足りず、他者からの評価を勝ち得ることも少なからず必要である。これは人それぞれの考えがあることであるから、常に評価が得られるとは限らない。失敗が続いてしまうこともあるだろう。失敗してすぐは気分を晴らすため叫んだりしてもいい。しかし少し休んだら、常に転がっているチャンスに向かって挑戦することが大切である。その取り組む姿勢があれば、周囲からも応援され、必ずや自分で満足の行く結果に辿り着くことができるのではなかろうか。いわゆる「黒歴史」は後から白く塗りなおすことができるのである。
ちょっと反省を
最近エッセイに自分語りを入れていなかったが、今回は少し。最近の記事は、自分としての充電期間の成果を試すというような位置づけである。表現の自由の話も法科大学院の授業で当てられたときに満足のいくやりとりができなかった個人的な失敗を解消するためのものという側面もある。そのためか、直接会う友人に対しブログの感想をよく尋ねてしまう。もともと長文で読みにくい内容のものを、それぞれの忙しい生活の中で読んで評価してもらうことを期待してしまうというのは自分勝手というものだろう。申し訳ないです。
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過去にあった事実は変えることができない。そのことで苦しむことがあるだろう。何かの拍子にふと過去の失敗や恥ずかしい出来事を思い出して「うわああ」と叫びたくなる。このときは思いが過ぎ去るのを待つしかない。「命長ければ則ち辱多し」という言葉も古来から存在しているように、失敗の経験は長く生きれば生きるほど多くなり、叫びたくなる機会も多くなる。たいていは年とともに自意識や感受性が低下して気にならなくなってくるが、感覚が鋭敏な人はいつまでも苦しめられることになるだろう。
しかし一方で、変えられない過去に頼ることで自我を保つことができる場合も多い。過去の成功は揺るがないので、自信の基礎となるだろう。また、過去の失敗でも「他人のせい」であれば、その他人をずっと責め続けることで現在の苦境から目を背けることができる。これは気楽なことだ。アフリカが発展しない理由(Chikirinの日記)では、アフリカの政治家が自国の現状の悲惨さを過去の植民地化の結果であると考え、自分たちで発展しようという気持ちがないということが指摘されている。私たちの身近でも、家庭環境のせい、学校のせいという言説をよく目にする。家庭と学校で多くの時間を過ごしたのだから何かしらの影響があることは当たり前である。
これらの側面は現在苦境にあることへの逃避的な防衛反応であることが多く、問題解決に資することは少ない。いつまでたっても苦境の状態を引き延ばすこととなる上、着実に歩みを進める者たちと差が開いていってしまう。また、「他人のせい」にされた他人は、執拗に攻撃を受けて心身疲労困憊してしまうことになる。気が晴れるまでの一時的な反応ならいいが、継続すると誰にとってもいいことはない。
変えることができる「評価」
ここで意識すべきことは、事実は変えられなくても、それに対する評価は後から変えることができるということである。失敗や恥ずかしい出来事がいつまでも忘れたいことでありつづけるのは、その失敗が現在の自分に生かされていると思えないからではないだろうか。失敗をするということは、それだけ挑戦したということで、素晴らしいことでもある。そして、失敗を分析・反省して再挑戦したり別の道で生かしたりして成功につなげることができる。そうなれば、過去の失敗は「成功のため不可欠だった通過点」という位置づけになり、忘れたいとは思わなくなるだろう。失敗したことに傷つき、その分野から逃げてしまうことばかり繰り返すと、忘れたい過去がどんどん積み重なってしまう。どこかで対峙する必要が出てくる。
例えば、就職活動等の面接で失敗しても、その反省点を心がけて次の面接で思わぬ好評価が得られたりということがある。また、典型的な忘れたい過去として、思春期に思い描いたファンタジーの世界を現実の行動に出してしまう、ということがある。自分が勇者だと思ったり、というやつだ。このような過去ですら、発展させて文学作品を作ろうとしたり、映画や文芸の議論・評論をしたりするときに生かすことができる。また、自分の子供が思春期になった頃にその気持ちを理解し、適切な教育を施すことができる。何よりも大切なのはこれからの自分が成功の実感をもてるよう取り組むことであり、この過程で「抹消したい過去の私」から「愛すべき過去の私」に変わるのである。
成功の実感を得るというのは、自分の考えをただ変えるだけでは足りず、他者からの評価を勝ち得ることも少なからず必要である。これは人それぞれの考えがあることであるから、常に評価が得られるとは限らない。失敗が続いてしまうこともあるだろう。失敗してすぐは気分を晴らすため叫んだりしてもいい。しかし少し休んだら、常に転がっているチャンスに向かって挑戦することが大切である。その取り組む姿勢があれば、周囲からも応援され、必ずや自分で満足の行く結果に辿り着くことができるのではなかろうか。いわゆる「黒歴史」は後から白く塗りなおすことができるのである。
ちょっと反省を
最近エッセイに自分語りを入れていなかったが、今回は少し。最近の記事は、自分としての充電期間の成果を試すというような位置づけである。表現の自由の話も法科大学院の授業で当てられたときに満足のいくやりとりができなかった個人的な失敗を解消するためのものという側面もある。そのためか、直接会う友人に対しブログの感想をよく尋ねてしまう。もともと長文で読みにくい内容のものを、それぞれの忙しい生活の中で読んで評価してもらうことを期待してしまうというのは自分勝手というものだろう。申し訳ないです。
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