順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

「順風ESSAYS」にようこそ

法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
長文記事は「順風Essays Sequel」に移行し、こちらは短文の投稿をします。
最近の記事一覧はこちら 管理人へのメッセージ・お問合せはこちら
 
過去記事からのおすすめ
エッセイ→ぼくはタイガー鶏口症候群成功のための競争背水の陣//小説→切符がくれたもの鉛筆削り未来ニュース//鑑賞録・感想→報道写真について美術鑑賞2009No_Logic天使たちのシーン//その他創作モノ→回文まとめ雪が降る
 

創作表現規制の第三の道

2010年05月24日 | 学習ノート
「悪影響」ということ

昨年から創作表現に対する規制の是非が頻繁に話題となっている。規制の結論ありきの動きで規制する理由が不分明であるが、Wikipediaを参照する限りでは、「児童に対する性的搾取につながる」という現実の犯罪への悪影響と、「性差別意識を助長する」という人々の意識への悪影響という点が挙げられていると把握することができる。今回はこの「悪影響」ということについて考察をしてみたいと思う。

ある表現がそれを鑑賞する人に対し何らかの影響を与えるということは、少なからず認められる。しかしここで注意すべきは、表現からもたらされる影響は作品のメッセージと必ずしも一致するわけではないということである。犯罪等を非難する作品であっても、それが犯罪を助長する影響を与えることもあるし、逆に一見肯定的な表現であっても、受け取る側はそれはよくないことだと否定的な意見をもつようになることだってある。

例えば、反戦モノとして個人的に一番印象に残っているのは、「戦場のピアニスト」で、ユダヤ人が特に理由もなく一列に並べられて地面にうつぶせに寝かされ、ドイツの兵士が順に頭を撃ち抜いていくというシーンである。これは全体の中ではそれほど大きな位置づけを与えられているシーンではないが、衝撃的であるため強く憶えている。この場面からは当然人倫を踏み外す行為への非難が生まれ、これが作品としての意図でもある。しかし可能性としては、兵士の側に感情移入して、人倫を踏み外す極限的な緊張感、人の命を弄ぶ神や悪魔のようになった万能感に浸ることも十分に考えられる。似たような非道が歴史的に実際に行われたということは、そのような感覚を現実に持ちうることを表している。

また、性的虐待のようなシーンで被害者が順応して享楽的になってしまうような話の筋になっていたとしても、読む側としては、その流れがあまりに不合理で説明がつかず、その非人間的な姿にゾッとしてこういうことはいけないとの思いを抱くことが十分に考えられる。現実でも、人を傷つけ、そのことでその人の性格を悪くするなど人格に悪影響を与えてしまったら大きな後悔を抱き、反省するだろう。極限的な帰結を見ることで、その代替的な経験となることもあるのである。

こうした表現の意図と影響の不一致は、目に見える犯罪誘発効果がテレビのニュースとワイドショーにあることからも明らかである。犯罪を取り上げるテレビは皆犯人を責め、被害者感情を思いやり、強い処罰を望むような内容である。それにもかかわらず模倣犯と呼ばれる者が登場する。また、文芸評論の観点からも、このことは以前紹介したテクスト論からの当然の帰結である。みんな表現物で作者の意図を自然に真に受けているというのなら、国語の問題でわざわざ作者の意図はどうかなんて訊かれることもないし、感想文でそれぞれの意見を書く必要もないのである。重要なのは、テクストたる表現を受け取る側のバックグラウンドなのである。


アディショナル・スピーチ規制の提案

賛美と批判に関係なく、社会的に望ましい方向にも望ましくない方向にも影響があるということになると、望ましくない影響を与えうる表現の一切を規制してしまうのがよいということにもなりかねない。しかし、犯罪報道がなされないことは社会を運営する上で有り得ないことで、清濁飲み込んだ自律した人間になるためにも完全に遠ざけるというのは考えられないことである。また、人間の差別感情は本質的に備わっていて、教育で差別はよくないこととの認識を作ることが必要であるとも言われている。何も知らないままであれば、子ども特有の残酷で思慮の浅い状態のまま、大人の力を持つようになってしまう。『日本の殺人』(ちくま新書)で描かれているような、犯罪への取り組みを一部の公務員の献身的な努力に頼りそ知らぬ顔で暮らす社会のままがいいというのなら別であるが、成熟した社会になるためにはそういうわけにもいかないだろう。

ということで、必要なことは、社会的に悪影響な行動・意識につながりかねないテーマが描かれている場合に、その問題を熟慮させる機会を設けさせ、受け取る側に慎重な判断を促すことである。ここで参考になるのは、タバコの警告表示である。タバコは健康を害するという側面があり、パッケージに具体的にどのような病気のリスクが高まるのか記載がされている。これは、広告について商品の魅力を伝えさせるだけではなく、悪い面も同時に買い手に伝えさせ、十分な判断をしたうえでの購入を促すものである。金融商品等にも同様の規制がある。このように表現を追加させる規制について何か用語があったと思うのだが忘れてしまったので、勝手に「アディショナル・スピーチ規制」と名付けることにする。

創作表現においても、現在成人指定マーク等の警告表示が任意の取り組みで行われているが、これはタバコの警告表示と同様、「購入するか否か」という時点での判断を促すものである。ここでは、さらに発展させて、購入した後の時点において、その表現から形成されうる考え方について慎重な判断を促すことを提案するものである。具体的には、犯罪被害・差別被害の実態、国際的な統計、社会全体で被害をなくすことに取り組むべきこと、等の情報を冒頭や結末に掲載させたり、小さい啓発冊子を同梱させるというものが考えられる。インターネット上での非商業的活動でも、リンクや注意書き等の取り組みをさせることが考えられる。

このような規制方法は、作者にとって作品の中身自体に介入されないというプラスの側面がある。冊子でフォローする以上好きに作れるわけである。セリフひとつひとつ言葉狩りに遭う必要もなくなるだろう。また、この規制はビジネス的にも美味しいものであると思う。制作側の追加のコストはそこまで高いものではないし、冊子を日本ユニセフが作って納入すれば、ぼろ儲け児童の権利擁護のための活動の大きな力となるからである。児童の人身売買は貧困が原因であることが多く、経済的にある程度の豊かさが保障されれば、被害を減らすことが可能であろう。このように経済的な要因と結びついている問題において、活動資金が十分に得られることは非常に大事なことである。

このような規制に対しては、効果として不十分でないか、という疑問があるだろう。ページは読み飛ばすことができるし、冊子も捨てることができる、誰も真面目に受け取らない、といった感じである。個人的には人間の判断力はそこまで劣っているとは思っていない。しかし仮に結果として不十分になったとしても、今の時点では実際どうなるかは予測はできないから、規制においてより制限的でない手段が考えられる以上それをまず試してみるべきである。表現を発信すること自体、それを保有していること自体を規制するというのはとても強い規制であって、副作用も考えられることから、マイルドな手段が探求されるべき必要性が高い。特に日本は、道徳を堕落させるから規制なんてことは有り得ず、宗教的バイアスが少ない国であり、合理的な規制方法を探究し提案していくことが国際社会における役割であると思われるのである。


まとめ

・規制の理由付けが不分明だと議論そのものがしにくいよ。
・作品のメッセージと受け取る側の影響は一致しない。
・しかしだからといって全てを規制するというわけにはいかない。
・重要なのは「熟慮させる機会」を作ることで、そのことを促す冊子やページを同時に発信させればいいのではないか。
・これなら作者は自由に書ける、日本ユニセフがもうかる、国際的な取り組みに貢献する、といいことばかり。
・規制としてはマイルドなものから実験していくべき。
・安易な追従ではなく、合理的な規制を提案するのが日本の役割である。


【6月26日追記】「スピーチ・プラス」は行動を伴う表現という意味で使われているので、「アディショナル・スピーチ(Additional Speech)」という意味にしました。Add(追加する)だとAd(広告)と重なりますので微妙。いやはや不勉強で。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村