お、ちょっと怖いこと話そうとしてる?
って引かれた人、ご安心ください。
別に「喧嘩っ早くなれ」という話をしようとしているわけではありませんw
ここ数日論語の世界にどっぷりハマっているsachiakiです。
論語は楽しいよ〜。
その大元になる儒教はあまり好きじゃないけれど
(老子も「礼ってたんなる型じゃん」ってバカにしてたし)
何かから解き放たれて人とコミュニケーションをしていくには
やはり「礼」はとても大切なんじゃよ。
孔子は儒教を元に展開しているけれど
たぶん言っていることは「道」に通じる話をしているので
老子ともうまくやったんじゃないかなぁ。
優等生な孔子と、のんびり人生を楽しんでいる老子、
どちらが好きかといえば私は老子だけど
今回はその辺を割愛します。
話が少し逸れてしまった。
論語は「忠恕」が本質であるとよく言っているんだけど、
「忠恕」の言葉を分解すると
「忠」は「心の中にある」で「恕」は「心の如し」なので
自分から意志(見方)が離れていかないことを指しているのだそうです。
これは自分勝手だとかそういう意味ではなく、
自分の手の届く範囲のことを常にして
いきなり「世を正そう!」とかいうような誇大妄想になるのではなく
自らを正し、自らの範囲で良い流れを作っていくという
心の持ち方について述べているのだと思いました。
で、そういう「忠恕」を持つ人間は
親孝行ができている人間であり、
親孝行とは親が亡くなった時に3年は喪に伏せることができる
親への愛を持つ人間で(3年喪に付せられない時は、
親がそもそも3年の愛を注いでなかったのだから仕方ないね、と解釈するそうです)
そういう人間は人を諌める時にも揉めることなく上告することができるし、
上告できるような人間だから礼儀を尽くした議論が起こせるのだと。
礼を欠かない議論が「乱」であり、「乱」を起こせる人間は
常に「勇」を持っているわけで
(昔は上告するだけで首を刎ねられる可能性があるわけで、命がけですよね)
そういう「勇」を持つものは「仁(人を愛する心とでも訳しましょうか)」を持っているものだと
述べているのだそうです。
「乱」一つとって、ここまで長い解釈が必要なのか?と思うけれど、
そのくらい一つも物事には凝縮して連鎖しているものが潜んでいるということなので
最近の流れみたいに「三行で分かりやすく!」なんて言っていると
その背景が削り取られていって、
受け取るものがスッカスカになっていってしまうんじゃないかなって思いました。
(大事なことは三行で収まるものであることも大事なんだけどさ)
そんなわけで、「乱」をいつでも起こせるようにならないとなぁと思いつつ、
自分はまだ「礼」を身につけておらんのだなと
足りないことを自覚したわけです。
いやさ、何度も書き続けているけれど、
私がかなり悩みながらお付き合いしている団体の代表さんがねぇ、
かなり気まぐれなので、地雷がどこにあるか分からないのですわ。
だからこそ、この地雷を避けながら忠告ができるようにならないとなぁと
思ったりなんだったりするわけですわー。
まぁこれも会話術という奴に昇華されて
いろんなビジネスマンが読んでいるのでしょうけどね。
とりあえずそんな感じです。
論語の中のたった一つの句でここまで語れるのだから
やっぱすごいですわ。
元の句はこちらですので、
もっと詳しく!という人はコピペしてみて調べてみると良いと思いますよ。
有子曰。其爲人也孝弟。而好犯上者。鮮矣。不好犯上。而好作亂者。
未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者。其爲仁之本與。
-学而第一 2 有子曰其爲人也孝弟章
有子(ゆうし)曰、其の人と為や孝弟(こうていに)して、
上(かみ)を犯すを好む者は鮮(すく)なし。上を犯ことを好まずして、
乱を作(な)すを好む者は未(いま)だ之(これ)有(あらざるなり)。
君子は本(もと)を務む。本を立ちて道(みち)生ず。
孝弟なる者は、其れ仁の本と為(たる)か。
そんじゃまたねー!モイモイ
って引かれた人、ご安心ください。
別に「喧嘩っ早くなれ」という話をしようとしているわけではありませんw
ここ数日論語の世界にどっぷりハマっているsachiakiです。
論語は楽しいよ〜。
その大元になる儒教はあまり好きじゃないけれど
(老子も「礼ってたんなる型じゃん」ってバカにしてたし)
何かから解き放たれて人とコミュニケーションをしていくには
やはり「礼」はとても大切なんじゃよ。
孔子は儒教を元に展開しているけれど
たぶん言っていることは「道」に通じる話をしているので
老子ともうまくやったんじゃないかなぁ。
優等生な孔子と、のんびり人生を楽しんでいる老子、
どちらが好きかといえば私は老子だけど
今回はその辺を割愛します。
話が少し逸れてしまった。
論語は「忠恕」が本質であるとよく言っているんだけど、
「忠恕」の言葉を分解すると
「忠」は「心の中にある」で「恕」は「心の如し」なので
自分から意志(見方)が離れていかないことを指しているのだそうです。
これは自分勝手だとかそういう意味ではなく、
自分の手の届く範囲のことを常にして
いきなり「世を正そう!」とかいうような誇大妄想になるのではなく
自らを正し、自らの範囲で良い流れを作っていくという
心の持ち方について述べているのだと思いました。
で、そういう「忠恕」を持つ人間は
親孝行ができている人間であり、
親孝行とは親が亡くなった時に3年は喪に伏せることができる
親への愛を持つ人間で(3年喪に付せられない時は、
親がそもそも3年の愛を注いでなかったのだから仕方ないね、と解釈するそうです)
そういう人間は人を諌める時にも揉めることなく上告することができるし、
上告できるような人間だから礼儀を尽くした議論が起こせるのだと。
礼を欠かない議論が「乱」であり、「乱」を起こせる人間は
常に「勇」を持っているわけで
(昔は上告するだけで首を刎ねられる可能性があるわけで、命がけですよね)
そういう「勇」を持つものは「仁(人を愛する心とでも訳しましょうか)」を持っているものだと
述べているのだそうです。
「乱」一つとって、ここまで長い解釈が必要なのか?と思うけれど、
そのくらい一つも物事には凝縮して連鎖しているものが潜んでいるということなので
最近の流れみたいに「三行で分かりやすく!」なんて言っていると
その背景が削り取られていって、
受け取るものがスッカスカになっていってしまうんじゃないかなって思いました。
(大事なことは三行で収まるものであることも大事なんだけどさ)
そんなわけで、「乱」をいつでも起こせるようにならないとなぁと思いつつ、
自分はまだ「礼」を身につけておらんのだなと
足りないことを自覚したわけです。
いやさ、何度も書き続けているけれど、
私がかなり悩みながらお付き合いしている団体の代表さんがねぇ、
かなり気まぐれなので、地雷がどこにあるか分からないのですわ。
だからこそ、この地雷を避けながら忠告ができるようにならないとなぁと
思ったりなんだったりするわけですわー。
まぁこれも会話術という奴に昇華されて
いろんなビジネスマンが読んでいるのでしょうけどね。
とりあえずそんな感じです。
論語の中のたった一つの句でここまで語れるのだから
やっぱすごいですわ。
元の句はこちらですので、
もっと詳しく!という人はコピペしてみて調べてみると良いと思いますよ。
有子曰。其爲人也孝弟。而好犯上者。鮮矣。不好犯上。而好作亂者。
未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者。其爲仁之本與。
-学而第一 2 有子曰其爲人也孝弟章
有子(ゆうし)曰、其の人と為や孝弟(こうていに)して、
上(かみ)を犯すを好む者は鮮(すく)なし。上を犯ことを好まずして、
乱を作(な)すを好む者は未(いま)だ之(これ)有(あらざるなり)。
君子は本(もと)を務む。本を立ちて道(みち)生ず。
孝弟なる者は、其れ仁の本と為(たる)か。
そんじゃまたねー!モイモイ