私の周りには写真界隈の友達がとても多い。
私をよく知っている人は「だよねー、多いよねー」
って首を縦に振る人が多いと思うんだけど
よく知らない人も「そーなんだー」って思ってくだしゃんせです。
どうも、最近は配信用のスタジオにちょこちょことお邪魔して
なぜかおしゃべりをよくしているsachiakiです。
んでね、写真を撮る人たちが多いという中には
当然ジャンルがありまして、
風景を撮る人だったり、物を撮る人だったり
人物を撮ったりするわけです。
ほんで、その中でも
スナップ写真(日常の瞬間を切り取るタイプ)を得意とする人と
ポートレート写真(人物を中心に切り取る)を得意とする人とおりまして、
それぞれがそれぞれに自分たちの作品を展開されているわけです。
私は芸術性などの鑑定眼があるわけではないので
素直に綺麗な色だな〜とか、構図が綺麗だな〜とか
こういう風景もあるんだ〜という発見に繋がるようなものなどが好みだったりします。
もともとが人工物スキーなので、
生き物感がないくらいの方がもしかしたら好きかもしれません。
生き物が大丈夫になったのって大人になってだいぶ経ってだからな……。
いや、今も得意というには微妙かな……。
まぁ好みの話なのでその辺は割愛するとして
それぞれの作家さんの味はそれぞれにあると思っているので
好きなように展開すれば良いと思っています。
昨日買ってきて読んだ諸星大二郎の『暗黒神話』を読んでいたら
世界っていうのは残酷だし、暴力に満ちている。
だから人間の尺度で見た暴力なんてほんの一握りだし、
どんなことでも被害にあったといえばその通りにもなり得るし、
自分自身も常に1mmたりとも変わらず暴力的な存在である
ということには変わりないのだ。
と、改めて感じまして(ここで二十代の頃はよく「世界を傷つける自分は死んでしまいたい」ってなったけれど)
どんなに気を張って生きてもなにかで傷つけるし、傷つけられているんだから
自分自身を信じて生きるしかないなって、泥道を歩く気持ちで
おっかなびっくり歩いているわけですから
街中でシャッターを切られても「こえーな」って思いつつ
お互い様よな、なんて気持ちにもなったりしたり。
と…うっかり。本題になかなか入れないわ。
話を戻すと、ポートレートって人物を切り取る写真なわけで
その時の被写体っていうのがモデルという立ち位置になるんだけど
モデルの立ち位置に立つと、撮られた後の上がりを見て
この人に撮られたいっていうものがだんだんと出来上がっていくわけなんですよ。
それは自分が被写体になって気づくものもあれば
先に別の人がモデルの写真を見てるうちにそうなるものもあって、
カメラマンさんの中には常に「撮ってください!」って人でいっぱいの人もけっこういるし、
それが仕事っていう人も当然いらっしゃる。
んでまぁ、だいたいは作品の仕上がりを見てそう思うものなんだけど、
自分の事情を知っているかいないかで人を選ぶということもあるんだと
先日初めて知りまして、
撮影スキルとはまた別のもので撮影者を選ぶこともあるんだなって
なるほどなぁって思ってきたところです。
たしかにマタニティ写真のご依頼を受けた時も
(正確には私が受けたんじゃなくてちるが受けて、私は付き添いで行った)
事情を知っている友人であるから、という理由が大きかったのを思い出したり。
もちろん、ちるの腕が良いことも確かなんだけど
事情というのはその人・モデルさんにとって
とっても大きな壁の一つであるのよなーと。
誰もが気軽にホイッと撮ってもらえるような強い魂を持っているわけじゃないなんて
あまりに当たり前な話なのにね〜。
私は撮影を依頼する人は決まっていて、
その理由は友達であるからということのほかに
自分が持っているエロい部分っていうのを必要以上に引き出してくれるので
それが生々しく、かつ攻撃的で良いなと思っているからなのですw
なんていうか「強い」って感じる写真ってかっこいいじゃないですか。
癒されるとか優しいとか、そういうのじゃなくて
この世の真理みたいなものって「強い」に集約される気がするんですね。
「弱さ」も「強さ」になるので、
単純なパワーバランスとしての「強さ」でないところがミソですよ。
俗に言う”女の涙は強い”みたいなものです。
撮られている時って撃たれているのと同義で
(だって英語では撮影をshootingっていうしね)
撮られるたびにけっこうダメージが重なってきたりします。
普段ならしないポーズをし続けるという微弱な疲労も含むからなのだけど、
それ以上に「見られる」という強烈な視線はかなり心に穴を穿ちます。
それを快感と呼ぶ人もいれば、怖いと思う人もいるでしょう。
だからこそ被写体はカメラマンを選ぶのかもしれません。
この人になら撃たれても良い。
そういう感じ。
一度も撮られる側に立ったことがないって人はなかなかいないと思いますけれど
(子供時代にいっぱい撮影されてるでしょ?)
それでも自分の意思で撮られる側に来ることはあまりないでしょうから、
たまには撮られる側になって、「こんなに視線浴びるのか!」って体験されると
けっこう楽しいと思うし、カメラを誰かに向ける時に一呼吸おけるかもしれません。
今日の日記は以上です!
あ、先日メイクについてnoteにまとめると書いていたやつ。
こちらにまとまりました>初心者女装子ちゃんのために
読まれる方はこの日記上に長いので頑張ってねw
ではでは、今日はこの辺にて。モイモイ
私をよく知っている人は「だよねー、多いよねー」
って首を縦に振る人が多いと思うんだけど
よく知らない人も「そーなんだー」って思ってくだしゃんせです。
どうも、最近は配信用のスタジオにちょこちょことお邪魔して
なぜかおしゃべりをよくしているsachiakiです。
んでね、写真を撮る人たちが多いという中には
当然ジャンルがありまして、
風景を撮る人だったり、物を撮る人だったり
人物を撮ったりするわけです。
ほんで、その中でも
スナップ写真(日常の瞬間を切り取るタイプ)を得意とする人と
ポートレート写真(人物を中心に切り取る)を得意とする人とおりまして、
それぞれがそれぞれに自分たちの作品を展開されているわけです。
私は芸術性などの鑑定眼があるわけではないので
素直に綺麗な色だな〜とか、構図が綺麗だな〜とか
こういう風景もあるんだ〜という発見に繋がるようなものなどが好みだったりします。
もともとが人工物スキーなので、
生き物感がないくらいの方がもしかしたら好きかもしれません。
生き物が大丈夫になったのって大人になってだいぶ経ってだからな……。
いや、今も得意というには微妙かな……。
まぁ好みの話なのでその辺は割愛するとして
それぞれの作家さんの味はそれぞれにあると思っているので
好きなように展開すれば良いと思っています。
昨日買ってきて読んだ諸星大二郎の『暗黒神話』を読んでいたら
世界っていうのは残酷だし、暴力に満ちている。
だから人間の尺度で見た暴力なんてほんの一握りだし、
どんなことでも被害にあったといえばその通りにもなり得るし、
自分自身も常に1mmたりとも変わらず暴力的な存在である
ということには変わりないのだ。
と、改めて感じまして(ここで二十代の頃はよく「世界を傷つける自分は死んでしまいたい」ってなったけれど)
どんなに気を張って生きてもなにかで傷つけるし、傷つけられているんだから
自分自身を信じて生きるしかないなって、泥道を歩く気持ちで
おっかなびっくり歩いているわけですから
街中でシャッターを切られても「こえーな」って思いつつ
お互い様よな、なんて気持ちにもなったりしたり。
と…うっかり。本題になかなか入れないわ。
話を戻すと、ポートレートって人物を切り取る写真なわけで
その時の被写体っていうのがモデルという立ち位置になるんだけど
モデルの立ち位置に立つと、撮られた後の上がりを見て
この人に撮られたいっていうものがだんだんと出来上がっていくわけなんですよ。
それは自分が被写体になって気づくものもあれば
先に別の人がモデルの写真を見てるうちにそうなるものもあって、
カメラマンさんの中には常に「撮ってください!」って人でいっぱいの人もけっこういるし、
それが仕事っていう人も当然いらっしゃる。
んでまぁ、だいたいは作品の仕上がりを見てそう思うものなんだけど、
自分の事情を知っているかいないかで人を選ぶということもあるんだと
先日初めて知りまして、
撮影スキルとはまた別のもので撮影者を選ぶこともあるんだなって
なるほどなぁって思ってきたところです。
たしかにマタニティ写真のご依頼を受けた時も
(正確には私が受けたんじゃなくてちるが受けて、私は付き添いで行った)
事情を知っている友人であるから、という理由が大きかったのを思い出したり。
もちろん、ちるの腕が良いことも確かなんだけど
事情というのはその人・モデルさんにとって
とっても大きな壁の一つであるのよなーと。
誰もが気軽にホイッと撮ってもらえるような強い魂を持っているわけじゃないなんて
あまりに当たり前な話なのにね〜。
私は撮影を依頼する人は決まっていて、
その理由は友達であるからということのほかに
自分が持っているエロい部分っていうのを必要以上に引き出してくれるので
それが生々しく、かつ攻撃的で良いなと思っているからなのですw
なんていうか「強い」って感じる写真ってかっこいいじゃないですか。
癒されるとか優しいとか、そういうのじゃなくて
この世の真理みたいなものって「強い」に集約される気がするんですね。
「弱さ」も「強さ」になるので、
単純なパワーバランスとしての「強さ」でないところがミソですよ。
俗に言う”女の涙は強い”みたいなものです。
撮られている時って撃たれているのと同義で
(だって英語では撮影をshootingっていうしね)
撮られるたびにけっこうダメージが重なってきたりします。
普段ならしないポーズをし続けるという微弱な疲労も含むからなのだけど、
それ以上に「見られる」という強烈な視線はかなり心に穴を穿ちます。
それを快感と呼ぶ人もいれば、怖いと思う人もいるでしょう。
だからこそ被写体はカメラマンを選ぶのかもしれません。
この人になら撃たれても良い。
そういう感じ。
一度も撮られる側に立ったことがないって人はなかなかいないと思いますけれど
(子供時代にいっぱい撮影されてるでしょ?)
それでも自分の意思で撮られる側に来ることはあまりないでしょうから、
たまには撮られる側になって、「こんなに視線浴びるのか!」って体験されると
けっこう楽しいと思うし、カメラを誰かに向ける時に一呼吸おけるかもしれません。
今日の日記は以上です!
あ、先日メイクについてnoteにまとめると書いていたやつ。
こちらにまとまりました>初心者女装子ちゃんのために
読まれる方はこの日記上に長いので頑張ってねw
ではでは、今日はこの辺にて。モイモイ