ここのところやたらと眠気に勝てないsachiakiです。
まぁ今も月の使者がいらっしゃるので、そのせいだと思いますが。
本日は”強制読書”で積読になっていた「触楽入門」を読んでいました。
これは知人と二人でしているもので
1時間だけお互いGoogleミーティングモードで顔が見える状態にしておいて
50分間各自決めておいた本を読み、残り10分の間で読んだ部分の総括をするってもので
持ち時間はお互い50分読書+5分まとめって感じで進めています。
積読が多すぎるって話をしていたのと
誰かに見られているという意識があると物事が捗るねって話から、
1時間程度ならつなげていてても良いかって話にまとまって
お試し2回目をしていました。
1回目はとりあえずやってみるべーて感じだったけれど、
読書感想文が得意だった私でも5分内でまとめるのはちょっと骨が折れたので
2回目は読みながらメモを取り、図とか作りっていたぶん
5分のまとめも比較的すんなりできて
まとめることで脳内整頓も、ただ読むだけとは違ったインプットとなり
手に入れたものをアウトプットすると
より強く記憶に残る典型なのだなぁと感じていたとことです。
眠たくて仕方ないところでやっていたけれど
そこそこできるもんだなぁと感心してみたりして。
とりあえず「触楽入門」の中にあった
触覚と視覚…というよりも触覚と五官は境界線があいまいなところがあり、
視覚の中にも触覚はあるし、聴覚にも臭覚の中にも味覚の中にもあるね
その証拠で「暖かい視線」だったり「鼻に刺さる匂い」だったり
「ねっとりとした味」「柔らかい音」など触覚を組み合わせた言葉がたくさんあります。
そして触覚の原始的な感覚はものを見たときの認知へのスピードはない代わりに
より深く詳細なものを発見できる器官として機能しているようなのです。
お医者様が触診する時なども目を閉じていたりするのは
感覚器官の中で視覚があまりに優位に動いてしまうぶん
触覚の邪魔をしてしまうのを阻止するためです。
人はものを「認知」してしまうと、それ以上を知ろうとしなくなってしまうそうで、
より小さなことにも気づかなくてはならない時は
「認知」するスピードを下げて深く知覚できるようにする必要があるみたい。
また、触覚的な感覚だけに関わらず感覚の境界が曖昧なところを利用して
絵画など人に訴えかけるものを作る時は
一つの感覚に幾つかのレアリゼ(実現)を混ぜることが重要だとのこと。
絵を見て磯の匂いがしたり、暑いほどの熱量が立ち現れるようなものを作り出すこと。
それには見ているもの感じているものを物体として触れるように感じること。
それが大事なのだと印象派で著名なポール・セザンヌは言っていたそうです。
そこからさらにメディア論の大家マルク・ルーハンや
ベンヤミンにもちらっと触れられていましたが、
視覚の中に立ち現れるものについての話だったので
セザンヌが言っていたこととそれほど変わりがあるようには感じませんでした。
写真に取られる時、自分の抑圧されているものが写ってしまうという話には
少しドキッとしたりしたぐらいです。
今週末は久しぶりにお写真撮ってもらいに行くのでがんばるぞい。
ダイエットを何一つしていなかったけれど、それはそれってことで。
そんじゃまた!モイモイ
まぁ今も月の使者がいらっしゃるので、そのせいだと思いますが。
本日は”強制読書”で積読になっていた「触楽入門」を読んでいました。
これは知人と二人でしているもので
1時間だけお互いGoogleミーティングモードで顔が見える状態にしておいて
50分間各自決めておいた本を読み、残り10分の間で読んだ部分の総括をするってもので
持ち時間はお互い50分読書+5分まとめって感じで進めています。
積読が多すぎるって話をしていたのと
誰かに見られているという意識があると物事が捗るねって話から、
1時間程度ならつなげていてても良いかって話にまとまって
お試し2回目をしていました。
1回目はとりあえずやってみるべーて感じだったけれど、
読書感想文が得意だった私でも5分内でまとめるのはちょっと骨が折れたので
2回目は読みながらメモを取り、図とか作りっていたぶん
5分のまとめも比較的すんなりできて
まとめることで脳内整頓も、ただ読むだけとは違ったインプットとなり
手に入れたものをアウトプットすると
より強く記憶に残る典型なのだなぁと感じていたとことです。
眠たくて仕方ないところでやっていたけれど
そこそこできるもんだなぁと感心してみたりして。
とりあえず「触楽入門」の中にあった
触覚と視覚…というよりも触覚と五官は境界線があいまいなところがあり、
視覚の中にも触覚はあるし、聴覚にも臭覚の中にも味覚の中にもあるね
その証拠で「暖かい視線」だったり「鼻に刺さる匂い」だったり
「ねっとりとした味」「柔らかい音」など触覚を組み合わせた言葉がたくさんあります。
そして触覚の原始的な感覚はものを見たときの認知へのスピードはない代わりに
より深く詳細なものを発見できる器官として機能しているようなのです。
お医者様が触診する時なども目を閉じていたりするのは
感覚器官の中で視覚があまりに優位に動いてしまうぶん
触覚の邪魔をしてしまうのを阻止するためです。
人はものを「認知」してしまうと、それ以上を知ろうとしなくなってしまうそうで、
より小さなことにも気づかなくてはならない時は
「認知」するスピードを下げて深く知覚できるようにする必要があるみたい。
また、触覚的な感覚だけに関わらず感覚の境界が曖昧なところを利用して
絵画など人に訴えかけるものを作る時は
一つの感覚に幾つかのレアリゼ(実現)を混ぜることが重要だとのこと。
絵を見て磯の匂いがしたり、暑いほどの熱量が立ち現れるようなものを作り出すこと。
それには見ているもの感じているものを物体として触れるように感じること。
それが大事なのだと印象派で著名なポール・セザンヌは言っていたそうです。
そこからさらにメディア論の大家マルク・ルーハンや
ベンヤミンにもちらっと触れられていましたが、
視覚の中に立ち現れるものについての話だったので
セザンヌが言っていたこととそれほど変わりがあるようには感じませんでした。
写真に取られる時、自分の抑圧されているものが写ってしまうという話には
少しドキッとしたりしたぐらいです。
今週末は久しぶりにお写真撮ってもらいに行くのでがんばるぞい。
ダイエットを何一つしていなかったけれど、それはそれってことで。
そんじゃまた!モイモイ