あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

答えがないことへの不安

2023-03-16 | from:sachiaki
先日写真家の友人と話をしていた時に
表現系の友人たちも時折嘆息している
「どういうふうに受け取っても良い」
ということをわかってもらえない問題について
考えることが多いな、
なんて、もにょってしまったsachiakiです。

もともと”自分の意見を持つ”というのは
割と珍しいスキルなんだってことがあるみたいで
それもこれも、おそらく学校教育を含めて
”お上の言うことに逆らってはいけない”が
まかり通っていたからだろうし、
そこにプラスアルファして最近の人たちが
やたらと「全てには答えがあるもの」という
謎の信念を持ってしまったのも
学校教育の賜物なんだろうな〜
なんてことを思ったりしていました。

教育の現場では『教育指導要領』というものがあり、
それは「子供たちがどこの地域で教育を受けても
一定の水準の教育を受けられるようにするため」とあり
たしかに学力の地域差っていうのは
ある年代までは機能していたのかなぁ
なんて思ったりもします。
とはいえ、現在は「教育格差」というものが
深刻化してきているのもあり、
これがまた「地域差」でもあるので
日本大丈夫か?と思わなくもないんだけど、
それはさておいて。

とにかく一定水準を満たす、という目的より
「どの地域でも同じ教育を」の方が厚くもてなされたのか
ちょいちょいインターネットを騒がせる
足し算・掛け算の順番や、
漢字そのものを問題にしている時ではないのに
(※形を問うているものではない。読めればOKのはずなのに)
間違っていると×を下されたり、
正解であるのに問題製作者の答えと違っているので×など
「正解でないことは悪」のような
些細なミスも許さない雰囲気を作り出しているように感じます。

この些細なミスも許さない雰囲気こそが
ここのところ騒がせている
あらゆる問題の根源な気もするんですけれど
(ジェンダーとか、風評だとか)
それもとりあえず傍に置いておいて
ミスというものは「答えが定まっている」からこそ起こることで
「答えが定まっていない」のならミスなんてものは発生し得なくて、
表現ってのはその「答えのないもの」の代表のはずなんですけどね。
それでも「答えを間違えるとフルボッコ」という
恐怖が刷り込まれているからか
なにかを表現すると「答えがある」ように感じるか
もしくは「意味があるもの」と思い込んでいる人たちが
作品らを見て感想を述べるのではなく
批評をするようになっているんじゃないかな
なんて思ったりしているところです。

別に批評が悪いとは言わないけれど、
批評をする際にアカデミックなロジックを駆使し
そんなのAI分析とかでできちゃうじゃん
みたいなことを言い出す人が多くなり、
挙句の果てにAIに喋らせて自分は表に出さないと言う
かなりトンマなことが増えてきて
それって「あなたの魂(こころ)はどにあるの?」
なんて聞きたくなったりもします。
そしてなによりも、誰かへの批評を好み
自分なりの答え(感想・思考)を持たない人は
不安が強いのか、やたらと肥大した自己を守るためか
強火な発言を繰り返していることが多いな〜
なんてことを思ったりもします。

まぁどれもこれも私が感じているだけで
これらを証明するためのデータ分析などは
それこそどっかのビックデータを解析する
データーサイエンティストにでもお譲りしますので
なんらかの論文など出てきたら読ませてもらいたいな
なんて願っているところです。

と、なんか最後の方は私の方が強火発言な気もする。

とにもかくにも
私が言いたいことを超要約すると
「自分の感想を持っていいんだよ」
ってことです。
そしてそれに「答えなんてなくていい」
ってことだけです。

むしろ世の中の現象は
ほとんどわかっていないのだから。

そんな感じ。
さてお仕事に戻ります。モイモイ!
コメント
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