Happyday of LUCKY

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写真は自己確認だけでよいのか

2011年06月16日 | Photography
J小学校の修学旅行からへろへろになって帰ってきた。
日ごろジョギングで鍛えているつもりだったのに、自分の体力のなさを痛感する。
今週はK大学の撮影。
きょうは雨なので気分はのらないが、気分とは関係なく撮影は確実にこなす。
17時すぎにおわって帰宅し、愛犬アルタの散歩。
夕食のドッグフードを与え、わたしはふたたび出動する。

今夜は新北野にあるブルームギャラリーへ中村紋子さんのトークショーを聞きにいく。
19時の開会にぎりぎりまにあう。
約2時間、Bギャラリーの藤木さんとの対談のようなかたちで、中村紋子さんのお話を聞いた。
彼女は現在32歳。
プロの絵描き(イラストレーター?)として生計を立てながら、絵から派生した「ウサリーマンシリーズ」を写真でも制作し、ロンドンで写真展も行なったという。
以下、トークショーの話の要約。

幼少期から絵を描くのが好きで、14歳で芸術家になろうと本格的に絵を描きはじめる。
17歳のころ、絵を描く資料として写真を撮りはじめる。
写真はシャッターを押せば写るのでとても簡単。
今まで苦労して描いてたことがバカらしく感じるくらい。
10歳代のころ、死にたくなるくらい孤独感を感じていて、生きていることがいつも嘘みたいに感じていた。
頭のなかの世界を絵にしてきたけど、突然絵が描けなくなり、写真を撮ることが代替行為になる。
カメラで絵を描いている感覚。
写真のセレクト作業で、まず自分の表したい世界について文章を書く。
その文章と同じ感じになるように写真を組み立てていく。
写真を組むことは、その流れのなかで詩を書くようなものだから、一度組みあがった作品は(場所が変わっても)見せ方は変わらない。
10歳代のころ、どうしても描けなかったものを写真でやっと表すことができたので、今回の作品は自分にとってもう過去のこと。
これからも写真を撮っていくだろうけれど、作品にするかどうかはわからない。
たのしみとして撮りたい。



10歳代というのは多かれ少なかれ、だれでも自分の存在について悩み、猛烈な孤独感を感じたり、自暴自棄になったり、死にたくなるものだ。
それをどのように乗りこえていくかは人それぞれだが、なにかに没頭し、それが他者に少しでも認められるところから自分の居場所や存在価値を見いだしていくように思われる。
不謹慎な言い方だが、中村さんは17歳で写真と出会わなかったら、もうこの世にはいなかったかも知れない。
写真は人を救う力をもっている。
わたしのようなオヤジでも毎日のように写真に救われている。(ちょっと意味合いはちがうけど)
そういった自己確認のためのツールとして写真はとても簡単で、しかも第三者とのコミュニケーションもとりやすい。
同じような気持ちの人が見れば、写真は文字よりもよく伝わる。
ただしそういう気持ちに共感できない人には「読めない」こともままある、ふしぎなツールである。

だが写真表現というものは、自己確認ないしは自己実現のためにあるのではない。
写真はちっぽけな自分の頭のなかの世界を表す程度のものではなく、自分の外にある無限の世界を表すものだとわたしは考えている。
自分がそれを見てどう感じたかなんて、シャッターを切った瞬間にすでに織りこまれているのである。
ただただ目のまえの世界に敬意をはらい、写真家はシャッターを切りつづけなければならない。
そういう意味で、中村さんの写真はこれからの展開(があるのであれば)に注目したい。

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