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クリンの広場

たまっこくりんのおもいのたけ

標津羊羹(北海道スピリットを感じる銘菓・21)

2018-09-19 | クリン江戸散歩

豆が

たくさんとれる

北海道では、

 北海道スピリットを かんじる・ようかん(羊羹)が、

たくさん つくられていますが、 (上:白樺羊羹、下:ニシンの群来羊羹

 その、さい(最)たるものと、クリンが 思っているのが、

しべつようかん(標津羊羹)

です

 

道東の、

なかしべつ(中標津)町で

昔から

つくられている このようかん・・


 まず、その包み紙からして、北海道

<冬のクナシリ島> 

 <根室原野から望む千島連山>

<阿寒国立公園>  

 <冬のトドワラ>(※立ち枯れたトドマツ林の跡)


と、

うらさびしくも

きびしい・しぜん(自然)味 

いっぱい


 そして、その中身は、めずらしい・金時豆を ねりあげた 

ようかん

なのですが、

 この、赤茶色・・


「シベツ」

とは、

アイヌ語で「サケのいる大きな川

の こと・・。

 「秋サケ水揚げ・日本一」を ほこる、この町を

流れる、

しべつ(標津)川

こんだく(混濁)した

茶色い

川の色に、

 この・ようかんの色を、かさねて見てしまうのは、

クリンだけでしょうか・・




 

 

 (その22、「牡蠣最中」につづく)

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明日からブログ再開します。

2017-11-10 | クリン江戸散歩

今日から、

フィギュアスケート・NHKはい(杯)

はじまります。


 「ゆづーーーーー



宮原知子ちゃんも復帰するよ、応援しよ」(チット)


 「そ、そだね


(明日から、ぶろぐ・さいかいします

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江戸の二大刑場~大森散歩・7

2017-10-16 | クリン江戸散歩

 今回おとずれた、品川区・南大井の すずがもり(鈴ヶ森)刑場


 江戸には、ここと もうひとつ、あらかわ(荒川)区・南千住に、

「小塚原刑場

というのがあり、

 江戸の人々から、「二大刑場」として、

おそれられていた

らしい・・。

 「日本橋から西国の者は、鈴ヶ森に、東国の者は小塚原に

送られて処刑されたんだよ。」

話す・チットは、

 15年位前に、江戸のざい(罪)人の「市中引き回しルート

自分でしらべて 

たどってみて

 すごくおもしろかったことから、以来、「江戸散歩」を

シュミ(趣味)に 

しています


チットは 言います。

 小塚原のあたり・・、もう一回行きたいな。『クリン江戸散歩』

もう少し ふくらませてみたいの また取材に、行こう」と。

 

「・・う、うん。」 (また、こわいところに 行くのか・・

 

 (・・それにしても、今回、何のジュンビもせずに 来ちゃったけど、

『大森散歩』、たのしかったな 

 シブヤ(渋谷)から南のほうは、あまり来ること

なかったけど、、

 このへん、どうやら、おいしい・のり(海苔)も 

あるらしいし、


きょうみ(興味)深いところ

なのかも

しれないな・・。


チットと

よっちゃんに、

 品川さんぽ(散歩)やることも、ていあん(提案)してみよう

 

 

 

 

 

 

(大森散歩・完)

 

 

 

 

 

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鈴ヶ森刑場跡~大森散歩・6

2017-10-15 | クリン江戸散歩

 大森には、駅をはさんで、2つのエリアが あります

戦前から「住宅街」だった、山がわ(側)のエリアと、 

 ビルや大型店が、たちならぶ、海がわ(側)の エリア 

 その、海にほど近い「大森海岸駅」から、

だいいち(第一)京浜沿いを  歩いていくと

 クリンたちの目的地、「鈴ヶ森刑場跡地」が

見えてきます

(※品川区南大井)

 江戸時代、このあたりは、追いはぎが出ることで 有名で、

 らくご(落語)には、ここで 追いはぎのれんしゅう(練習)を

すべく、

親分に つれてこられた

ドジで 弱気な

しんまい・どろぼう(新米泥棒が、

 逆に、旅人に 身ぐるみ・はがれる っていう、オチ話が

あるらしい

 平成の今でも、ひと気が少なく、となりは国道なのに、

なんだか、

うらさびしい・かんじが します。。 

 この場所に、「処刑場」がおかれたのが、江戸時代の

はじめ。

 明治いしん(維新)までの間に、たくさんの 犯ざい(罪)者が、

 ここで、首を切られたり、はりつけにされたり、火あぶりにされた

わけです・・。

 有名どころとしては、ばくふ・てんぷく(幕府転覆)を

図った、「丸橋忠弥

恋する放火少女「八百屋お七」。


 彼を、はりつけ(磔)にした台や、

彼女を 火あぶりにした台・・  さらに、

 処刑後に、血をあらったという、「首洗いの井戸」なるものが

のこってて、

 「・・・こわい

 「なに言ってんの キリシタンたちなんて、そこの海の

波打ち際で、水磔の刑だよ

 引き潮になると、息吹き返すから なかなか死ねなくて、

一週間かけて 

じわじわ殺されたんだから。」

 と、チットが、海のほうを ゆびさして、言いました

そんな、しょけい(処刑)者を とむらうため、 

 刑場あとの 後ろにたっているのが、だいきょうじ(経)寺

っていうお寺です。


こちらは

ぜったいに、

 おまいり・ひっす(必須)


なのですが・・


お寺の中には

こわいシャシンが 

かざってあるので、


ようちゅうい  「ギャオオォォ~・・






(その7、「江戸の二大刑場」に、つづく)



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徳富蘇峰と戦争責任(山王草堂記念館にて)~大森散歩・5

2017-10-14 | クリン江戸散歩

 「馬込文士村」のボス、おざきしろう(尾崎士郎)

さんか(参加)していた、

「日本文学報国会」  (※ペンで、お国に報いようっていう、戦前の団体)


 その会長をつとめていたのは、「マスコミで

お国に報いよう

っていう

「大日本言論報国会」

の会長も

けん(兼)任していた、

 とくとみ・そほう(徳富蘇峰) と、いう人です。


(ここに、住んでたらしい・・) 


 れきし(歴史)にくわしい・チットいわく

 「徳富蘇峰は 近代思想史をたどる上で、絶対に欠かせない、

大物言論人

だそうです。


 ふくざわゆきち(福沢諭吉)を、明治前半のトップジャーナリスト

と 

するならば、

とくとみそほう(徳富蘇峰)

明治後半の トップジャーナリスト


 しかも、その後の「太平洋戦争・終結」に いたるまで、

この人ほど、

しんぶん(新聞)・ざっし(雑誌)の世界

で、

大きな力を ふるった人は、

たぶん・いない


らしい。。


「・・にしては、知名度ないね~。」 (記念館は内部撮影・可

 ・・弟の、徳富蘆花のほうが、有名かもね。

蘇峰は

ながらく、研究対象として

語られることが

タブー視されてきたから・・。」


 チットは、その人物について、語りはじめました。


 とくとみ・そほう(徳富蘇峰)が、その名を 知られ

はじめたのは、

明治はじめの

「自由民権運動」の ころのこと


 「おいおい、明治政府 あんたらだけが、突っ走って 

近代化して どうするんだよ

民衆の 声も聞けよ

これからの日本は、

平民レベルで、文明開化するんだぜ」 

 と、いきまいては、明治政府を「青息吐息」させた、

すじ金入りの

「平民主義者」、

それが、そほう(蘇峰)でした


 ところが

 中国(清)との戦争を けいけん(経験)したり

 欧米の圧力に、くっする・日本を いろいろ

目のあたりにする

うち、

 そほう(蘇峰)の中で、だんだん「平民主義」は ぼやけていき

 (・・もしかして、今は、民権なんて 守っている

場合じゃないのかも

甘っちょろいこと言ってたら、

たちまち・植民地にされるな。。


政府に 

多少 強引なことをさせてでも、

 とにかく、国を強くするのが、先決だったぜ


と、

考え方を

180度、かえてしまいます


こうして、


「国家主義者・徳富蘇峰」が、生まれました。


 ちょうど、そほう(蘇峰)みたいな・協力者を 

さがしていた 

明治末の日本政府は、

そほう(蘇峰)に

「これからの日本を、思想でひとつにまとめて

 国策を 後押ししてほしい。」

いらい(依頼)し、

 そほう(蘇峰)に、けん(権)力を 与えます

 政界に 入り込んだことにより、「魔法の杖」を 

手に入れた・そほう(蘇峰)は、

「大日本帝国の オピニオン・リーダー」

という

地位を えて、

 ついには、戦争すいこう(遂行)キャンペーンを とりまとめる、

言ろん(論)界の 大ごしょ(御所)

に、

のぼりつめて 

いったのでした



まわりは、こんらん(混乱)します。


 ・・・かつて、本気のデモクラシーを 唱え、民しゅう(衆)のために

政府にかみついていた、

青年・そほう(蘇峰)

は、

どこへいって しまったのか・・ 


 世間は、そほう(蘇峰)を「変節漢」と ののしり

 戦後は、その・言ろん(論)を ふうさつ(封殺)しました。。


(だから、今、あまり知られてないのかも・しれません。)


 うちのチットは、このそほう(蘇峰)を見ると、

近代日本の いきけんこう(意気軒昂)と、

ざせつ(挫折)と、

こじれを 

全部見る 思いがする・・


って

言ってます。


 明治~大正~昭和、と 94さい(歳)まで

生きつづけ、

その人生の大半を

日本国民に 

えいきょう(影響)しつづけた、

「大思想家」、とくとみ・そほう(徳富蘇峰)・・

 彼の戦争責任は、もちろん重い。けど・・・

 蘇峰の言論を あげつらうばかりでは どうしようも

ないんだよね。


その蘇峰の

言論をつくったのは、

時代の要請

 

 だからつまり・・ 当時のできごと・政策・世論・気運を、

同時に 

見直してみないことには、

日本近代史の真相には、

近づけない

 

意図的でない視点で

冷静な人が、

今一度、蘇峰を 研究することには

現代史的な

意味があるはずだよ。

 

 歴史が 後ろ暗いといって、そこを うやむやにしてしまっては、

日本という国は 

この先も、

政府・国民ともに

『無責任主義』っていう、

お定まりの 原点に、回帰し続けてしまう。


って

おもうんだよね。」


 と、チットは 言いました。(そうかもしれないけど、

今回の「大森散歩」、

やけにないよう(内容)がヘビーだな!







(その6、「鈴ヶ森刑場跡地」に、つづく)

 

 










 

















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馬込文士村レリーフの明暗~大森散歩・4

2017-10-12 | クリン江戸散歩

<大森駅西口にて>

 「ねえ、すぐそこから『馬込文士村』だから、ちょっと見て

みたいんだけど「うん、いいよ~。」


(・・・・あそこ?) 

 (とりい(鳥居)が、ある。。)

「・・すごい急な、かいだん(階段)だね。」

 

 上は、「天祖神社」という 神社のようですが、そこに 

もう(詣)でる

かいだん(階段)横の 

うかいろ(迂回路)

が、

 「馬込文士村・散策のみち」に なっていて、なにやら、

レリーフが

かざってあります

 「このへんが、かの有名な『馬込文士村』かあ~。」(チット)


 大正~昭和の初め、このあたりの高台は、

まごめ・ぶんしむら(馬込文士村)

といって、

作家や、画家が

はなやかに 交流していた

そうです


 たばた(田端)文士村や、おちあい(落合)文士村

ならぶ、

東京三大文士村の、ひとつ

・川端康成、・萩原朔太郎、・山本周五郎、・北原白秋

etc

したしく・行き来した

「丘の上の、文芸コミュニティ」

それが、

この、大森の

「馬込文士村

だったらしい

 

 (・・・丘の上には、文士たちの旧居あと(跡) 

ぜっこうの

文学さんぽ(散歩)コースじゃん


いうとこで、

クリンたち、

レリーフを ひとつひとつ見ながら

かいだん(階段)を

のぼりました


 さいしょは、<昭和8年の大森駅風景>です (かんさんとしてます!)


そして

次が、

<大森丘の会>

 「望翠楼ホテルっていうのがあったんだね~。」(リゾートっぽい


こちらが、<尾崎士郎と宇野千代>

 「馬込文士村の、ボス夫妻だね

 <広津和郎と、マージャンに興じる文士たち>

あっ、吉屋信子 「モガだね

 <ダンスパーティーに集う、文士とそのパートナー>

 「むろう・さいせい(室生犀星)も、ここにいたんだね

あ~、村岡花子さん<女性活躍の時代>


 <相撲に熱中し、みずから取り組む文士たち>

・・みなさん、お盛んね~。」


ってなかんじで、

 上にのぼるまでの間に、文士村の人々が 

どんちゃんさわぎ

していた 

ようすが、


 実によく わかりました 

 (・・・バンカラ青年が、そのまま大人になったみたいだな。)


お酒が好きで

人づきあいがこ(濃)くて

れんあい(恋愛)関係が

わりと、ふくざつ・・

 昔の文士って、そういうものだ と、イメージで

りかい(理解)

していながらも、

 なんとなく いわかん(違和感)をおぼえる、

いい大人の

あそびくるいっぷり・・


 「ダンスパーティー」のレリーフ横に 書かれていた

せつめい(説明)文の、


「昭和の初期、文学の世界は転換期を迎えていました。

 まだ若かった馬込の文士たちにとっても

 将来に不安の多い時代であったといえます。

 仲間同士集まって 気を紛らわそうというのか、

 麻雀に続いて 馬込の面々が凝り始めたのは

 ダンスでした。・・・」


 の、一文に 引っかかった うちのチットが、

家にかえってから、

文士村のボス

「尾崎士郎」について

しらべはじめました。



この人、社会主義から国家社会主義に移行してるのかあ。

1933年に

都新聞に『人生劇場』を連載、ねえ。。


 1933年っていえばさ 満州事変開始の2年後で、

政財界の大物が

暗殺されまくって

軍部内閣が 成立したころだよ

・・・

そんなときに、娯楽小説で大当たり

・・・・・

これって、

一種の 処世術、なのかね??

世をしのぐ文筆ならば

アリだけど、

これが 素だったとしたら、

私、ちょっと 感心しないわ。。」


まゆ(眉)を ひそめました


 このころ、日本は、政治・けいざい(経済)・外交、すべてに

行きづまっていて

政府に

反対いけん(意見)をのべる・人たちは

つかまってしまう

息苦しい世の中

だったそうです。。

 おざき(尾崎)士郎たちは、びんぼう(貧乏)な人たちのための

「プロレタリア文学」

かいめつ(壊滅)するのを

横目に

政治抜きの文学を めざす、

「新興芸術派っていう

グループを

つくっていたらしい。。


 くらし(暮らし)をたのしみ、人々からあいされた

馬込の番長・「尾崎士郎」

と、

才のう(能)ほとばしる

ゆかいな 仲間たち


 クリンたちが 昼間・見たのは、そんな

きらめきの青春を

型抜いた、

文士村のレリーフでした。


 しかし・・、彼らの「新興芸術派」は、文学りろん(理論)

かくりつ(確立)しないまま、

けいはく(軽薄)な都会生活を

追いつづけ、

読者から 見放されたそうです。。


 また、士郎自身は、戦時中に ほかのアーティストたち

同よう、

せんそう(戦争)に 協力して

せん(戦)後は

追放される・・

という

 「この時代の文化人の宿命的道筋」をたどっている・・

って

チットが しらべて 言いました。


 「あの、楽しくて明るい散歩道のレリーフの裏に、そんな

苦悩を

感じたくないね~~


と、


自分でしらべたくせに

ボヤく、

チットでした。




(その5、「徳富蘇峰の山王草堂記念館」に、つづく)


























 





 



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大森貝塚マドレーヌ~大森散歩・3

2017-10-11 | クリン江戸散歩

 昨日、ちょっとお伝えした、「大田区のお土産100選

えらばれているという

「大森貝塚マドレーヌ」 


それは、

 大森駅から歩いて6~7分のところにある、パティスリー

「プティ・エデン(Petit Eden)」

 日々、「大森貝塚」発見者・モースの、学問的

せいしん(精神)である、

「観察と実験」

うけつぐべく(?)、

つくられています


 (上左から:かぼちゃ、抹茶・ごま、下左から黒糖、はちみつ味で、各200円)


 「かぼちゃのマドレーヌ、見て

この山吹色なんて、

まさしく

関東ローム層の色だわ

れきし(歴史)にくわしい

チットが

言いました。


 「・・なら、こっちのゴマ味は、砂まじりの土を

イメージ


・・・・・


なんという、

こうこがく・だましい(考古学魂)を

しげきする

すばらしい

おかし(菓子)


 「ねえ、ちょっと、まず地層の順に並べ替えてみない」(チット)

「う、うん。じゃあ、みどり色の『抹茶味』が いちばん上だね








(その4、「馬込文士村レリーフの明暗」につづく)








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大森貝塚の本家争い(品川区VS大田区)~大森散歩・2

2017-10-10 | クリン江戸散歩

 さて、クリンたちが今回・さんさく(散策)するのは、「JR大森駅」

周辺の、

このエリアです  (東京都大田区大森と、品川区大井)

 おおもり(大森)といえば、学校の社会で かならず・習う、

原始時代の

「大森貝塚」

    おおもり(大森)は、駅のホームにも、

   駅前の広場にも、

 ここが、全国2500の貝塚の ちょう(頂)点にたつ、

キング・オブ・貝塚の、所在地である 

 と、オブジェで、知らしめています


かいづか(貝塚)とは、

 原始時代の人々がすてた・貝がらが、つもってできた

白い・こやま(小山) 

 昔の日本人は、巨人が 長い手をのばし、浜辺から貝を

つかみあげ

 食べまくった・あげく、一ヶ所にすてて、貝塚ができた、

考えていた

みたいですが、

 「そうじゃなくて、集落遺跡の一部なんだよ」と、おしえてくれたのが、

アメリカ人の、

「モース」です


 明治初期に 日本に来て、きしゃ(汽車)の中から「貝塚」を

見つけた

どうぶつ(動物)学者の、 エドワード=シルベスター=モース

 東大の先生になった彼は、このあたり・いったい(一帯)を 

ほりまくり

貝や

土器や、

石器などを

見つけました

 海に近い・品川~大森は、どこをほっても、「貝殻層」が

出てくる

そうですが、

 品川区と、大田区は、「考古学的名誉」をあらそい

 「うちが、大森貝塚の本家だ」と、どうも、ゆずらないみたいです・・

 

だから

 「大森駅」から、歩いて5分くらいのところに、

「ここが大森貝塚です」と、アピールする、

 2つのきねんひ(記念碑)が、たってたりします

 

 ひとつが、こちら 大田区山王の「NTTデータセンター」しきち(敷地)内に

たつ、

 たてなが・きねんひ(縦長記念碑)

 ←「大森貝墟(かいきょ)」って 書いてあります

そして 

こちらが2つ目の、 品川区大井の、よこながきねんひ(横長記念碑)

(「大森貝塚」って、書いてあります

 

 品川区は、きねんひ(記念碑)周辺の土地を 買い上げ

 「大森貝塚遺跡庭園」を、つくりあげ

本家取りを、こころみました 

 「モースが掘った場所は、品川区の大井村だったのに、調査メンバーが

みんな勘違いして、

『大森貝塚』で、定着させてしまった 

 こっちが本家で、本当は『大井貝塚』のはずなのに~~~


と、いうのが、

 クリンたちがすいそく(推測)する、「品川区の本音」。。


 「江戸前海苔でも、品川海苔より大森海苔のほうが

知名度あるしね・・。

 大森貝塚の現地、という栄誉は、うばわれたくないのかもね、

品川区・・。」


な~んて、

 クリンたち、りっぱ(立派)なこうえん(公園)の

前で、

しま・おくそく(揣摩臆測)

くり広げたのです


 しかしながら・・・

大森駅のホームや、

 駅前広場のオブジェ のみならず、

 ふと・足元を見れば、地面にも、まきがい(巻貝)もようを

あしらって

じい(示威)する、

 大田区の 地いき(域)一丸となった・がんばりは、

モース死後90年たった

今も

けいぞく(継続)されており

 「大田区のお土産・100選」に してい(指定)されている、

 「大森貝塚マドレーヌ」を 見つけてしまった

ときには、


さすがに

公平なクリンも、

 (大田区を か(勝)たせたい・・)と 思って

しまいました。

(ゴメン、品川区






(その3、「大森貝塚マドレーヌ」に、つづく)




 

 




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大森散歩・1

2017-10-09 | クリン江戸散歩

 よく・えらびもしないで、こわれたカメラ

わりを 

急きょ、

買いかえた、理由


それは、

お出かけを ひかえていたからです 


 しん(親)友・チットが、れきとも(歴友)の「よっちゃん

大森方面(東京都大田区)へ

さんさく(散策)に行く。


というので、

 クリン、ぜったい、ついて・いきたかったのです


・・・・・


よっちゃんは、

学生時代から

何度か 

家にも あそびに来たことのある、

 クリンにとって、数少ない・にんげんかんけい(人間関係)


会うのは

久しぶりだけど、、

クリンのこと、おぼえていて くれてるかな。。



<再会>

 「クリン~ おぼえてるかも~~ かわいいね~~

・・・・

えっと~、

タヌキだっけ。。?」(よっちゃん)


「ちがうよにんげん 「そっか~



ともあれ、

おおもり・さんぽ(大森散歩)、

はじめます




(その2、「大森貝塚碑の本家争い」につづく)



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加賀の千代女と、哥川(かせん)~クリン家ドライブ能登半島旅行・8

2017-07-31 | クリン江戸散歩

 「加賀スピリット」を かし(菓子)に包み込む、金沢の

しにせかし(老舗菓子)店、


「森八(もりはち)」

 

 7月後半の、「期間限定菓子」は、石川県で 

いちばん有名な

女流俳人、

 かがのちよじょ(加賀の千代女)の俳句に ちゃくそう(着想)

を 

えた、

ねりきり(練りきり)です  (中は、透明羹

 (銘:「もらい水」


「 朝顔に 釣瓶とられて もらひ水 」 


 女性俳句界では、かなり有名だという、「加賀の千代女」・・

 表具屋の あととり娘にして、10代から 俳句をよくし、

「女芭蕉」と

リスペクトされた

「北陸文芸の女王

は、

 あさがお(朝顔)の句で、その名を 全国区

高めました


句のいみ(意味)は・・

 「朝、水を汲みに行ったら、井戸の釣瓶に 

朝顔のつるが

まきついていたので、

花の命を うばわないよう、

 他家に もらい水をしに、行きました


   と、いうもの 


 実に やさしくて、思いやりがあって、せいそ(清楚)な女子にしか

よめない

句・・


 世の男性は、「おお~~、お千代~~ 女らしい~~~

もだえ

 女性たちは、「そうよ~~、これよ~~大和撫子っていうのは~~

共かん(感)しました


 あさがお(朝顔)の句、のみならず こまやかで、つつましやかな

千代女の句・・


 そこには、朝日のような、明るい品かく(格)が

あります


・「 よきことの 目にもあまるや 花の春 」

・「 春雨や うつくしうなる 物ばかり 」

・「 涼しさや 恥しいほど 行戻り 」

・「 竹の子や その日のうちに ひとり立 」


・・・・・

 さりげなく、毎回・女らしい、千代女です


 そんな・千代女をした(慕)った、一回り年下の

俳句友だち

に、

千代女とは

まったく きょうぐう(境遇)のことなる

女性が いました。


 ここ・福井県三国の「荒井屋」で、ゆうじょ(遊女)を

していた、

かせん(かんじ:哥川)です


 (哥川が晩年すごした・たきだんじ(瀧谷寺)に 行きました


 かせん(哥川)は、三国みなと(湊)が もっとも栄えていた

ころの、

三国・ナンバーワン・ゆう(遊)女 


 そんじょ・そこらの お女郎とちがい、お茶・お花・お香・

いご(囲碁)・書・・・

すべてを 仕込まれた、高級ゆう(遊)女でした 

 とくに、俳句のセンスにかけては ピカイチで、かせん(哥川)は

ダンナ(趣味人の旦那衆)

たちの間で 

有名になり

 年季があける前なのに、句会を開いたり江戸ゆう(遊)学を 

ゆるされたり・・

 スペシャル・たいぐう(待遇)を うけていました


そんな

かせん(哥川)は、

 「 照れ光れ 加賀(千代)越前(哥川)の 月ふた夜 」

江戸でも たたえられたほど・・



 しかし・・、とくべつ扱いをうける・売れっ子 とはいえ、

そこは、

苦界に生きる、女・・


かせん(哥川)の句には、

やはり

さびしい心が

おり込まれます・・


 ・「 きぬぎぬや 見かわす路地の 雪あかり 」


・「 かみゆうて 見れば散りたり けしの花 」


・「 夕顔や われも人待つ 花のもと 」


・「 奥底の 知れぬ寒さや 海の音 」


・・・・・



 ある日、かせん(哥川)は、句会で 千代女に 

出会いました。


 すでに、俳名高かった・センパイ俳人「千代女」は、おそらく

奥ゆかしく、

おおらかで、

すなお(素直)にけいふく(敬服)できる

年上の女性

として、

かせん(哥川)の目には 

映ったことでしょう


 千代女の目にも、かせんは、若く・あでやかで、あたまが良くて

芸も多彩

映ったことと

思われます

(すいそくですが・・)


 「二人が同席した句会って、華やかな雰囲気だったと思うんだよね~

と、

うちのチットは 

そうぞう(想像)して、たのしんでいます



チットいわく、

 「千代女と哥川ってさあ、晩年まで親しくしていたらしいの

 

住む世界が違う女どうし、

よほど気を遣いあわないと

良い関係は、

築けなかったと思うんだよね~。


 きっと心がけのいい、素敵な女たちだったに違いないよ


千代女が

ちょっとでも

哥川を見下したり、憐れんだりしたら

哥川は 離れていったと 

思うし・・

 哥川も、千代女が発する・かたぎのまぶしさを見ても、

それに反発したり、

引け目を

あらわにしたり

しなかったんだろうしね、、


えらいわ


 やっぱ、女の友情は、気遣いと尊敬だよね そうだ 私も

クリンに、

『村上のふくさ餅』、

美味しい抹茶あんの方を

譲るわ


言って、

チットはクリンに

まっ茶あんをくれ、

自分は、

2番目においしい「黒糖あんのふくさ餅」

手に取りました。








(その9、「山中温泉に伝わる伝説」に、つづく)















 










 

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切支丹(キリシタン)屋敷の行き方

2017-02-06 | クリン江戸散歩

 江戸時代初期、きんきょう(禁教)令下の日本で、キリスト教をすて、

「転びバテレン」となった

『沈黙』の 主人公・・

 そのモデルは、「ジュゼッペ=キアラ」という、実在のせんきょうし(宣教師)

です。

 えんどうしゅうさく(遠藤周作)の小説は、彼が、ききょう(棄教)を

受け入れるシーンで

まく(幕)を閉じます

が、

 このあと、キアラには、江戸での長い・「幽閉生活」が、ありました


「転びバテレン」

と呼ばれた、

外国人せんきょうし(宣教師)を

収容したしせつ(施設)、

「切支丹屋敷」

あったのが、

東京都・文京区の小日向。。


 今、そのあと(跡)地は、どうなっているのか

しらべたくて、

ミニクリンを、現地にはけん(派遣)しました 

 

 (けっこう・わかりにくいところにあるので、

もし、行こうと思っている方は、

参考になさってください


まず、

 キリシタンやしき(屋敷)への、「最寄り駅」は、東京メトロ

丸の内せん(線)の

みょうがだに(茗荷谷)駅


 改札を出たら、2番出口から左に、ちょっと行くと、

 「茗荷坂」という、くだり坂があるので、

そこを、ひたすら おりていきます

 とちゅう(途中)、右手に教会があるので、それを目印にすると

いいです

 まっすぐ・下りていくと、つきあたり・右手に、

たくしょく(拓殖)大学のキャンパスが見えます。

 一方、左手には、「滝沢馬琴」のはか(墓)がある、「深光寺」

があって、

 そこを、道なりに左折すると、せんろ(線路)があるのですが、

そこは くぐらずに

手前で、右に曲がる

 曲がったすぐのところに、「宗四郎稲荷大明神」という、

赤いはた(旗)の立つ、

小さなお社があるので、

その真横の道に

入ります

 すると、そこから、ちょっと急な、「蛙坂」っていう坂がはじまります

 たいしたきょり(距離)ではないので、がんばってのぼると

 のぼりきったところは、平坦な住宅地。そこを、左折

数十メートル先が、目的地です。 

 <文京区小日向1-24-8。都旧跡・「切支丹屋敷跡地」>


 このひ(碑)の立つ、向かいがわ(側)、

現在ブランドマンションがたつ場所が

昔、

キリシタンやしき(屋敷)があった場所です。 

 

 ここを、2014年に ほり返したさい、

3体のいたい(遺体)が

出土したそうで

 その一人は、イタリア人せんきょし(宣教師)の、シドッチ

あとの2人は、

シドッチのお世話係だった

日本人ふさい(夫妻)だろう、

ということです。


 「シドッチ」というのは、日本史では けっこう・有名な人で

ジュゼッペ=キアラよりも

だいぶ後の

江戸時代中期、

 さこく(鎖国)下の日本にせん(潜)入した、イタリア人の

司さい(祭)でした

 キリスト教が、だんあつ(弾圧)の果てに、表面上・日本から いっそう(一掃)された

時代になって、

いまさらながら!

やくしま(屋久島)に 上りく(陸)した

シドッチは、

 ローマ教会でさえ・あきらめた、日本布教を あきらめなかった

カトリックのとうし(闘士)


 すぐにつかまって、江戸のここ・キリシタンやしき(屋敷)に

つれてこられますが・・


 この時 彼をじんもん(尋問)した、ばくふ(幕府)の「最高権力者・新井白石」

をして、

その高い学しき(識)

高けつ(潔)な人格

かんぷく(感服)せしめ

助命に

ほん(奔)走させたと言います


 この時、あらいはくせきが、ききとったことは、

「西洋紀聞」と「采覧異言

という本に

まとめられたそうで、

 今は、うちの歴女・チットの、えつらん(閲覧)するところと

なってます

 「結局シドッチは、お世話係の日本人夫妻に 洗礼を授けたことで、

キリシタン屋敷の地下牢で

死ぬんだけど・・、

 あの、朱子学者・新井白石を感服させて、

幕府の礎法を

曲げさせようとするほどの

学識と人柄って、

いったい

どれだけ、優れたものだったんだろう

・・・・・

そんな、本物のキリスト者が

非業の死を遂げた場所なら、

一度、

来ないわけにはいかないよね

チットは 言っています。


 シドッチや、ジュゼッペ=キアラの苦のう(悩)を おしこめた、

江戸のキリシタンやしき(屋敷)・・


そこは、

映画『沈黙』にも出てきた

きょうふ(恐怖)のだんあつ(弾圧)者、

「井上筑後守政重」の

下やしき(屋敷)の一角でした・・。


 文京区は、ひ(碑)のある場所から、ちょっと南に行った所にある坂道を、

「キリシタン坂」

と 

名づけており、

 坂道にある、でん(電)柱には、「切支丹支」とかかれた・プレートがはられ、

いまだに、そのれきし(歴史)を伝えています 


 後世の日本人にとっては、「切支丹坂」という、あやしくも・タブー

名前の坂は、

ワクワクかん(感)を

しげき(刺激)するのか?


 山田風太郎・中山義秀・田中貢太郎・・・など、名だたる小説家が、

キリシタンやしき(屋敷)や

キリシタン坂のことを

ネタにしています

 

 うちのチットも、だいぶ前から、来てみたかった場所ですが、

 しかし・・・、

ここに

収容された

人々は、


信じるものを、全否定されたあげく、

 りかい(理解)してくれない・いこく(異国)の者に 自由をうばわれ、

死に、いたらしめられた人々・・。

 そんな・むねん(無念)を甘受した、けいけん(敬虔)なクリスチャンたちの

心きょう(境)を思うと、

沈うつ(鬱)な気もちになり、

 けっして、暗くワクワクした・きょうみ(興味)をもつなど、

できない

と、

チットは 言ってます。。


 キアラや、シドッチたち、せんきょうし(宣教師)が、命をおえた

やしき(屋敷)の庭や、土牢のかべ(壁)に、


 せめて、いやし(癒し)の花が咲き


 天国に召されるまでの間を、見守っていてくれると

いいと思う・・。

 チットは、そんなことを 言っていました


ミニクリンも、クリンも、ほんとに!そう・思います 



 (※さっきの坂を下りて、トンネルをくぐって左折→まっすぐ行くと、もとの茗荷谷駅に着きますので























 




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西日暮里のサンドイッチ屋「ポポー」

2016-08-03 | クリン江戸散歩

 夏のオフィスランチ といえば、おにぎりと ならぶのが、

サンドイッチ

 その中でも、おにいちゃんが、ビジネスランチとして食べている、

西にっぽり(東京都荒川区西日暮里)

サンドイッチ屋さん、

「ポポー」の

サンドイッチは、

 家ぞく・みんなの お気に入りです


こちらのサンドイッチは、

 具がたっぷりで、パン・しっとり


シャシンは、

カニサラダサンドと 

たまごサンドで、

味としては

朝ごはん向け なのですが、

朝ごはんには

ありすぎな ボリュームは、

 まさに、昼ごはん・しよう(仕様)


しかし!

昼ごはんに 

食べたいからといって

お昼どきに 買いに行くと、

 ショーケースには、めぼしいサンドイッチは入っていません


朝6時にオープン

と同時に

どんどん・売れていってしまうので、

 おにいちゃんも、いちばん人気の「ポパイ」サンドは いまだに食べたことないらしいです






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渋谷スクランブル交差点

2016-05-08 | クリン江戸散歩

 <クリン、生まれて初めて 渋谷スクランブル交差点に立つ

 <そして、横断>  



<松涛カフェにて>

 「ねえ、さっき、スクランブル交差点で、外国人観光客が

すごい機材で

カメラをまわしてたけど、

クリンが

映り込んでしまったかも・・。」(チット)


 「えっ 世界デビュー??」 

 

 



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青山霊園~乃木大将の墓に迷わずいく方法

2016-05-07 | クリン江戸散歩

有名スイーツ店の目の前は、

青山れいえん(霊園)

 チットが「寄りたい」と さわぐので、

クリンたち、

さんさく(散策)することに

しました

 れきし(歴史)ある・れいえん(霊園)だけあって、

有名人のおはか(墓)が

たくさん

 大久保利通から、忠犬ハチ公

外国人ぼち(墓地)まで、

 古今の、ビッグ・ネームが、そろってます

 

やだ! 

 三島通庸の墓が、でっかいわ

 こいつ、悪いやつなのに・・

 明治時代の権官の、悪しき典型・・

いつものように、

チットが

「歴史談義」を 

はじめました


 さて、さくら並木の終点で、引き返した・クリン一行


さいごに、

青山れいえん(霊園)の主役、

乃木まれすけ(希典)将軍の

おはか(墓)を

たずねようと、

さがしはじめたのですが・・・

 これが、なかなか・わかりにくく、地図を 何度見ても、

すぐには

見つかりません


「え~?なんで~?

 番地だとこの辺に違いないのに」(ジェマ)


「これが乃木将軍通りだから、

 このラインにあるはずだよね?

 見落とすほど、小さいのかしら・・?」(チット)


 まよったあげく、ぼち(墓地)のはしの 坂の上で、

ようやく

見つけました


 乃木さんは、明治りくぐん(陸軍)のトップとして、

「日露戦争」をひきいた

大物


 明治天皇が、亡くなった後、夫人といっしょに、

あとおいじさつ(かんじ:殉死)

をして、

「軍神」になった

カリスマ・・


いくら、かん(観)光地ではないとはいえ、

たずねる人は

けっこう

いるはず。。


なのに、

この場所は

さがしあてるのが

むずかしすぎます


 (※みどりの線=クリンたちがとった、失敗ルート)


乃木さんのおはか(墓)を

見つけたい人


 入り口のところで、まっすぐ・すすんじゃいけません

 まず、左に曲がってください 

 はし(端)まで来たら、「乃木将軍通り」の目印を

右に折れると、


 なんなく・さっきのところに、つけます 













 

 

 

 

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ブルーボトルコーヒー・土曜日混雑状況~木場散歩・8

2016-05-03 | クリン江戸散歩

 なぜかは知らないけど、さいせんたん(最先端)がある、

江東区

一年前に

日本に上りく(陸)した、

「コーヒー界のサードウェーブ」

よばれる 店が、

 この先の、きよすみしらかわ(清澄白河)にあるというので、

クリンたち、

よってみることにしました

 

 あそこに見える、「ブルーボトルコーヒー」です

 

サンフランシスコから

やってきた、

「コーヒー界のアップル」という

ふれこみのお店


 スタバぎらい(嫌い)のアメリカ人が、「喫茶店」の考え方を用いて、

フェアトレードの豆で、

「焙煎後48時間以内」に

こだわって、

ハンドドリップで

ていねいにいれた、

「意識高い系」の

コーヒーショップ

だそうです

 代表メニューは、「シングルオリジン」(HOT&ICE)

 (ほんの少し甘みがついてる、苦味がふかい・ラテです。540円)


この店が、なぜ、

日本一号店を

「清澄白河」に出したのかは 

理由があるらしいのですが、

クリンは、せんもん家じゃないので、よくわかりません 

 しかし、そのきしょう(稀少)性から、駅から近くない住宅がい(街)にも

かかわらず、

オープン初日は

3時間まちの

大行列を 

つくったそうです


 今は、少し人出は おちついていますが、土日は 

けいび(警備)員さんが

お客さんを 

せいり(整理)している

じょうたい(状態)・・


店内は席数が少なく

なかなか座れないので、

店の外で のんでる人も

けっこういました


(このまちに、

 こんなに若者があつまったのは、

有史以来、初めてのことではなかろうか・・) 


 「わ~、やっぱそろってる~。表参道店のスタッフも

イケメン多かったよね~


向かいにいた、

OL3人が

カウンターのほうを見て

言いました。



・・・・・・・


(このこんざつは、そういうこと)    (木場散歩・完)





 

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