車で、ながさき(長崎)に来る・利点は、
郊外に、足をのばしやすい ということ
ながさき(長崎)郊外にある、なるたき(鳴滝)
という
場所。。
そこは、江戸時代こうき(後期)、ドイツ人の
シーボルトが、
じゅく(塾)を開いたことで、有名です
なるたきじゅく(鳴滝塾)って、いうじゅく(塾)です
(今、隣は「鳴滝高校」です) さすが・・
さこく(鎖国)していた、江戸時代の
日本が、
ゆいいつ・ヨーロッパで、つきあっていたのが、
オランダ・・
ドイツ人だった シーボルトは、オランダ人のふりをして
出島に 入り込み、
お医者さんとして、はたらきはじめました
(※オランダ商館医)
その、はくがく(博学)と、スキルは
すぐさま
世にきこえるように なり、
ついには、出島を出て、学問所を 開く
きょか(許可)まで
えます
若き・シーボルトは、ここで、たくさんの生徒を 教え、
また、たくさんの病人を 治して、
ついには 日本人女性との間に、子どもまで
つくり、
かなり、日本に、没入
はじめて・見た、アジサイの花に、あいする
日本人女性、
「お滝さん」の名をとって、「オタクサ」って
名をつけた
と
伝えられています
だから、今、シーボルト旧居&「記念館」
には、
たくさんの「お滝さん花=オタクサ」が、
植えられています (冬なので、枯れてますが・・)
のち、シーボルトは、「持ち出し禁止の日本地図」を
もちだそうとした
かどで、
国外追放に、なるという、うき(憂き)目を みました
3年後には、かえってくるつもり だったけど、
けっきょく、日本が 開国するまで、30年間も
もどっては 来られなかったのです
(お滝さんや娘のおイネとは、離ればなれ)
ヨーロッパに かえってからの、シーボルトは、
「日本研究の第一人者」
として
かつやく(活躍)し
日本であつめた・文物を、せい(精)力的に
はっぴょう(発表)
しました
自分で「オタクサ」と 名づけた、アジサイ
も、紹介し、
ヨーロッパの えん(園)芸界で、
一大・アジサイブームを、ひきおこしたりしてます
シーボルト自身は、なんだかんだいって
48さい(歳)の時、
ドイツ人女性と
けっこん(結婚)し、
おそまきながら、
身を固めています・・
が
63さい(歳)で、再来日するまでの、
30年間
日本人づま(妻)「お滝さん」のことを
忘れることなく
もどってきたのは、
自分が、もちかえった「アジサイ」の花が、
毎年、
みずみずしく
咲きつづけたからだ
と、クリンは、信じたい。です
「銘菓・おたくさ」を 生み出した、ながさき(長崎)の
まち(街)だって、
かたく、そう、信じているはず・・
「・・・の、わりには、
みずみずしいとは、決して言えない・パリパリ加減
だよね~
こっちの『おたくさ』は。
ま、いっか
おいしいから」
と
チットが いいました。
・・・・・・
「パイ生地で つくってるんだから、しょうがないでしょ」
(その31、「長崎ぶらぶら節の丸山を歩く」に、つづく)