クリンの広場

たまっこくりんのおもいのたけ

シーボルトと、銘菓おたくさ(クリン家ドライブ長崎旅行・30)

2018-01-31 | 旅行記

車で、ながさき(長崎)に来る・利点は、

郊外に、足をのばしやすい ということ

 ながさき(長崎)郊外にある、なるたき(鳴滝)

という

場所。。

 そこは、江戸時代こうき(後期)、ドイツ人の

シーボルトが、

じゅく(塾)を開いたことで、有名です

 なるたきじゅく(鳴滝塾)って、いうじゅく(塾)です

(今、隣は「鳴滝高校」です さすが・・

 さこく(鎖国)していた、江戸時代の 

日本が、

 ゆいいつ・ヨーロッパで、つきあっていたのが、

オランダ・・

 ドイツ人だった シーボルトは、オランダ人のふりをして

出島に 入り込み、

 お医者さんとして、はたらきはじめました

(※オランダ商館医)

 その、はくがく(博学)と、スキル

すぐさま

世にきこえるように なり、

 ついには、出島を出て、学問所を 開く

きょか(許可)まで

えます

 若き・シーボルトは、ここで、たくさんの生徒を 教え

 また、たくさんの病人を 治して

 ついには 日本人女性との間に、子どもまで

つくり

かなり、日本に、没入

 はじめて・見た、アジサイの花に、あいする

日本人女性、

 「お滝さん」名をとって、「オタクサ」って

名をつけた

伝えられています


 だから、今、シーボルト旧居&「記念館」

には、

 たくさんの「お滝さん花=オタクサ」が、

植えられています(冬なので、枯れてますが・・)


 のち、シーボルトは、「持ち出し禁止の日本地図」を

もちだそうとした

かどで、

 国外追放に、なるという、うき(憂き)目を みました


 3年後には、かえってくるつもり だったけど、

けっきょく、日本が 開国するまで、30年間も

もどっては 来られなかったのです

(お滝さんや娘のおイネとは、離ればなれ

 ヨーロッパに かえってからの、シーボルトは、

「日本研究の第一人者

として

かつやく(活躍)し

 日本であつめた・文物を、せい(精)力的に

はっぴょう(発表)

しました

 自分で「オタクサ」と 名づけた、アジサイ

も、紹介し、

ヨーロッパの えん(園)芸界で、

 一大・アジサイブームを、ひきおこしたりしてます


 シーボルト自身は、なんだかんだいって

48さい(歳)の時、

ドイツ人女性と

けっこん(結婚)し

おそまきながら、

身を固めています・・


 63さい(歳)で、再来日するまでの、

30年間

 日本人づま(妻)「お滝さん」のことを

忘れることなく

もどってきたのは、

 自分が、もちかえった「アジサイ」の花が、

毎年、

みずみずしく 

咲きつづけたからだ

と、クリンは、信じたい。です

 「銘菓・おたくさ」を 生み出した、ながさき(長崎)の

まち(街)だって、

 かたく、そう、信じているはず・・



・・・の、わりには、

 みずみずしいとは、決して言えない・パリパリ加減

だよね~

こっちの『おたくさ』は。

ま、いっか

おいしいから

チットが いいました。


・・・・・・


 「パイ生地で つくってるんだから、しょうがないでしょ








(その31、「長崎ぶらぶら節の丸山を歩く」に、つづく)

 




 

 



















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太田蜀山人の歌碑(クリン家ドライブ長崎旅行・29)

2018-01-30 | 旅行記

さいしゅう(最終)日の朝、クリンたちは

すわ(諏訪)神社を、おとずれました

 「おすわさん」は、ながさき(長崎)市民の 

心のよりどころ


 そして、その神事が、かの有名な「長崎くんち」

だそうです

(テレビで、見たことあります


 ながさきっ子が、一年で、もっとも・たのしみにしている

という

「くんち」は、

 すわ(諏訪)神社の かいだん(階段)下で、

みこしや、山車を、

ぐるぐるまわす、元気なお祭り

ここ、すっごい回りやすいぞ(おにいちゃんもまわりました


 さて、この・「おすわさん(諏訪神社)」ですが、

けい(境)内・奥で、

「長崎公園

つながっていて、

 そのまま、あるいて、こうえん(公園)に 入ることが

できます

 りんせつ(隣接)の「長崎公園」は、たいへん・れきし(歴史)が

古く

日本さいこ(最古)の

ふん(噴)水や、

 27個もの せきひ(石碑)を見ることが でき

 れきし(歴史)や文学が、好きな人の、さんさく(散策)

には、

うってつけの 

こうえん(公園)です

(ピエール・ロチ顕彰碑も、長崎チックです→)

 うちのチットも、ここで、お気に入りの「狂歌師」、

おおたしょくさんじん(太田蜀山人)

かひ(歌碑)を見つけ、

とても、

もりあがって いました


 「 彦山の 上から出(いず)る 月はよか

こんげん月は 

えっとなかばい 」


(これが、蜀山人の歌です


 「太田蜀山人」は、江戸後期の ばく(幕)臣で、ながさき(長崎)には

仕事で 

やってきました。

 その時よんだのが、「長崎弁」をくし(駆使)した、

さっきの 

歌です


 「・・情緒あるよね~ さすがは、蜀山人 あんなふうに

詠まれると、

その月を

見てみたくなるわ~~

山から上る、『こんげん月ってやつを


 朝見ても、このへん、いい景色だもんね ・・夜見たら、

なおさら、良いんだろうね~

うっとり


ねえ

月が出るまで、ここで待機しない


チットが 言いました。



「・・・今、朝の9時だけど」 








(その30、「シーボルトと、銘菓おたくさ」に、つづく)











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長崎の夜(クリン家ドライブ長崎旅行・28)

2018-01-29 | 旅行記

 ←ホテル前より、いなさ(稲佐)山の

やけい(夜景)

 

 

 

「・・・ズォーーー ズォーーー

 

 (・・・・・

 

・・・・・


おにいちゃんの 

ねいき(寝息)が、

いつもと

ちがう。。

 

「・・・チャンポン、チャンポン

ズォーーーッ

チュルチュルチュルチュル・・・」(おにいちゃんの寝言)

 

 

(・・・ああ、

 ちゃんぽん食べてる・ゆめ(夢)、見てるんだ。。)

 

 

 

 

 

 

 

(その29、「太田蜀山人の歌碑」に、つづく。)

 

 

 

 

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新地中華街でハトシ(クリン家ドライブ長崎旅行・27)

2018-01-28 | 旅行記

「唐人屋敷」のあと(跡)地で、「四海楼」の

かんばん(看板)を見つけた

うちのおにいちゃん

が、

「もう一回、長崎で ちゃんぽんを食べたい」と さわぎ

だしたので、

 クリン一家は、しんち・ちゅうかがい(新地中華街)

向かいました


「チャンポンチャンポン」(おにいちゃん)


 「発祥店・四海楼()」と、「中華街」の

お店で、

ちゃんぽんを

食べくらべします

 明治になって、「唐人屋敷」がすたれたのち、

かきょう(華僑)

まち(街)を つくったのが、

 今、「新地中華街」のある、この場所です

(※「新地」=「埋立地」っていう意味)


 ちょっと・歩くと、すぐ、一回りできちゃう、とても小さな

チャイナタウン

だけど、

ひとつひとつのお店は、なかなか・リッパ


 クリンたち、このエリアの有名店、「会楽園」に、入りました。

オーダーしたのは、

 まず・ちゃんぽん

そして、皿うどん です


 ちゃんぽんは いわゆる・定番なおいしさで、

「四海楼とは、まったく別もの

ってかんじ

でしたが、

 「皿うどん」は、パリパリ・細めん(麺)に

野菜あんが

かかってて、

 「これぞ、求めていた・皿うどん(つまりは、かたやきそば)」

だと、

クリンたち、

かんげき(感激)いたしました

(ソースをかけると、さらに美味


 そして・・あと、もう一品 サイドメニューに

注文したのが、

 こちらの、「ハトシ(かんじ:蝦吐司)」という、

見たことない

食べ物

 エビとブタ(豚)のすり身を、パンにはさんで

油であげた

「南蛮風・中華揚げパン

ハトシ

 サクッジュワッっていう、ちょい甘な

味が、

いかにも

ながさき(長崎)っぽくて、

とっても

おいしかったです


 ヨコハマや、神戸の「中華街」で、見かけない

「ハトシ」ですが、

 ながさき(長崎)・ちゅうかがい(中華街)では

必食の、グルメです








(その28、「長崎の夜」に、つづく)

















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めがね橋で記念撮影(クリン家ドライブ長崎旅行・26)

2018-01-27 | 旅行記

江戸時代、来日した・中国人のお坊さん

よって

中島川に

かけられた、という

 めがねばし(かんじ:眼鏡橋)

「橋の街・長崎」においても、その、おもむきのある

いしょう(意匠)は、

人気・バツグンです(丸いっ

 

ここに来たら、やるべきことは、ただひとつ

 

めがね(眼鏡)をかけて めがねばし(橋)をバックに、


シャシン(写真)を、とる

 

(・・・きまった) 

 

 

「クリンちゃん

 サングラスじゃ、

 ぜんぜん ダメだよ

 『まるメガネ』を

かけないと

 

 

(・・・メ、メガメ なんという、ぜつみょうなスタンバイ。)

 

 (・・・ク、クリンのツメが、あまかった

 

 

 

 

 

 

 

 

(その27、「新地中華街のハトシ」に、つづく)

 

 

 

 

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崇福寺のこうもりマーク(クリン家ドライブ長崎旅行・25)

2018-01-26 | 旅行記

江戸時代の ながさき(長崎)には、来日・中国人

により、

「唐寺」とよばれる

お寺が、

いくつか、たてられたそうです。


 その 代表的な お寺が・・ 


 こちらの

そうふくじ崇福寺)

です


「うお~りゅうぐうじょう(竜宮城)


・・・ここだけ、日本じゃ、ないみたい。。


 日本さいこ(最古)の 中国式寺院、そうふくじ

崇福寺)

 「第一峰門」と、「大雄宝殿」の 2つは、

国宝に 指定されているそうで、

 まさしく、必見の、かん(観)光スポット

です

 ・・・風水のことばもある、まっかっか(赤)

な、

お寺


 その・けいだい(境内)には、江戸時代の

ききん(飢饉)のさい、

 そうふくじ(崇福寺)が うえる人々に

ほどこした

という、

 おかゆ(粥)

炊いた、

大きな大きな

おかま(釜)が

ありました


 その大がま(釜)で、おかゆを

炊くさい、

あの

カステラの「福砂屋」が、

そうふくじに、

お米を

たくさん・きしん(寄進)した


と、きけば、

 そうふくじ(崇福寺)の門をかざる、「幸運のコウモリ(蝙蝠)」

が、

 ふくさや(福砂屋)のシンボルマークに なっている

理由も

 屋号に、「福」の字が、入っている理由も、

「なるほど」と、

合点がいく

というもの。


(※ってか、福砂屋のHPに、書いてありました)


 やっぱり、ご当地めいか(銘菓)というのは、

由来を 知ってこそ、

 その、しんか(真価)を はっき(発揮)

するものです


クリン、

今度から、

ふくさや(福砂屋)のカステラ

食べる時は、

 そうふくじ(崇福寺)のことを、

思い出しながら、食べます


 「ね~チット~。今度いつ、ふくさやの

カステラ買うの~??


え~ わかんない。あんな高級品、自分では

そうそう、買わないからねえ。

誰かから

もらえるまで、待ってな~」(チット)


・・・・・


 そんな、いつかもわからない・先の日まで、

ちゃんと

そうふくじのこと、

おぼえていられるだろうか







(その26、「めがね橋で記念撮影」に、つづく)













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唐人屋敷の幽霊(クリン家ドライブ長崎旅行・24)

2018-01-25 | 旅行記

江戸時代の日本は、「鎖国」とかいいながら、

実は、

オランダや 中国(清)と

ぼうえき(貿易)を 

していました

 

そのまど(窓)口となったのが、ながさき(長崎)

で、

 オランダ人と 取引をしていた・出島や、

中国人との取引を行っていた、とうじんやしき(唐人屋敷)

という、

 「中国版・出島」が、つくられたそうです

 

れきし(歴史)にくわしい

チットによると、

 さこく(鎖国)下での「長崎貿易」の主役は

出島ではなく、

 この、「唐人屋敷」における、

中国人との取引

のほうだった、


とのこと

 

 ながさき(長崎)にやってきた・中国人は、

げんざい(現在)の

「館内町」あたりに

つくられた、

「唐人屋敷」という名の 居住空間に かくり(隔離)され、

ここで、きこく(帰国)するまでの、数ヶ月を

すごしたそうです。

 広さは、出島の2・5倍は あったそうですが、

そこには、

2000人の 中国人男性が、

 きほん・「外出禁止」で くらしていたから、

(なかなか、たいへんなことも あったろうな・・)

 と、すいさつ(推察)されます

(居住区のまわりは、ほり(濠)・・) 

 「唐人」と、丸山ゆうじょ(遊女)の、命がけの恋

など、

この場所にも、さまざまな

ドラマが

あったらしいけど・・

 今、「唐人屋敷」の こんせき(痕跡)を 示すものは、

4つの、中国式の たてものだけ・・。

 すなわち、「土神堂」

 「天后堂」

 「観音堂」

「福建会館」 が、まばらにあるだけ、です。


 ・・・ここを、平日の昼間に 歩いて、「異国情緒」

かんじるのは、

むずかしいものが あるかも・・。


 でもでも 「唐人」たちが、もたらした文化は、

その後

きっちり、

ながさき(長崎)に 息づいた

って

クリンは ききました

 

 たとえば、「長崎くんち」で、ひろう(披露)される、

じゃおどり(龍踊り)

は、

 「唐人屋敷の土神堂」のさいじ(祭事)を

うけついだものだと

いうし、

「唐人」が行っていた・死者のくよう(供養)は、「精霊流し」

として、

ながさき(長崎)の 

ふうぶつし(風物詩)に なっているそうです


 「中国では 人が死ぬと、幽霊になるって

考えられていた

みたいね。

 だから、よみがえった幽霊のために、遺体に

履物を 

はかせてたんだって~

 唐人屋敷の中には、昔、幽霊堂と呼ばれる・お堂があって、

 夜になると、そのお堂から、よみがえった死者の

ならす

履物の音が、

コツコツ・コツコツ・・


と、

チットが、かいだん(怪談)を 話すのをきいて、 

 それは、完全に「キョンシー」だとしか・思えない

と、

80年代生まれの

クリンのあたまは、

あのゾンビの姿で、

いっぱいになって しまいました

 

すると、

チットも 同ちょう(調)し・・


キョンシー コスチューム メンズ 180cm クリアストーン正規品『霊幻童子』ね~~ なつかしい~~わたしらの世代で

中国の幽霊っていったら、

キョンシーを

思い出さない人は 

いないかもね~

 あの、手を前に出して、ピョンピョン前に

はねるやつ、

よく

友達と、

まねして遊んだわ~~


あいつら、

 黄色いお札を貼ると、動きが止まるんだよね」(チット)

「ヘンなの、つけないでよ







(その25、「崇福寺のこうもりマーク」に、つづく)















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出島とお土産(クリン家ドライブ長崎旅行・23)

2018-01-24 | 旅行記

さこく(鎖国)していた・江戸時代、ゆいいつ、ヨーロッパに

開かれていたのが、

ながさき(長崎)です


 といっても、「限定空間」で、海に突き出した、

おうぎ(扇)形の人工島、

 でじま(出島)の中だけの 交流でした

 今、出島周辺は うめたてられ、かつての海に

つき出た形ではなく、

まち(街)の一部に なっていますが、

 出島の中は、ふくげん(復元)され

 ちょっとした、タイムスリップ気分

味わえるように なってます

 江戸時代の日本は、外国のしんりゃく(侵略)や、キリスト教の

かくだい(拡大)

なやまされないように 

するため、

 つきあう国を、4つに げんてい(限定)しました

 ヨーロッパからは、プロテスタントで 野心の

少なそうな

オランダだけを

えらびましたが、

 彼らとの ぼうえき(貿易)も、この出島の中だけに

とどめて、

 「街には、一歩も出ないように」と、言いわたしました

 こうして、きびしい・かんし(監視)下に、

 「オランダ商館員」の 出島生活は、はじまった

のです

 (※平戸にあった・オランダ商館を、

長崎に移して、鎖国完成)


 オランダしょうかん(商館)のリーダーは、

「カピタン」

 ナンバー2が「ケトル」で、彼らの部屋を 

見ると、

 けっこう・ごうか(豪華)で、レクリエーション・グッズ

そろってるし、

 おいしそうな・料理 や、


・・・・・んっ


 ブ・ブタのかおの

丸やき

に、アヒルの丸あげ

 ・・・の、ような、ごうか(豪華)ばんさん(晩餐)

ようい(用意)されたり、

 丸山の「遊女」たちも、年中・よばれたりして

そこそこ

たのしんでいた

 という・ニュアンスが、かもし出されて います。


が・・


 「いくら、オランダ側にも 商売の利があった

とはいえ、

 こんなせまいところに、閉じ込めて、外に

出さないんだから、

複数年いた商館員の中には、

病む人も 

いたみたいだけどね~。

 ここが、『国立監獄』といわれた時代も 

あったらしいよ。

わかるわ・・。」


れきし(歴史)にくわしい・チットが

いうのを 

きくと

 この出島に、「異国情緒」を かんじたり、

 「西洋文化との、出会いの場」ってことで

もりあがる

のは、

(かん(観)光客として、どうなのかな。。)

 なんて、、ふかく・かんがえちゃったり

するのでした

 ・・・もともとは、西洋との出会いを 

せいげん(制限)する

目的で、

出島は、つくられたのです  


 でも、おみやげ話とかでは、そんなこと、

いちいち

言いません


 「これ、出島で買った、『カピタン珈琲』

 「コーヒーが日本に伝わった場所、ってことで、

出島の

ミュージアムショップが

売り出しててさ~


って、ちゃんと言って、おみやげを わたしてます









(その24、「唐人屋敷」に、つづく)










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文明堂vs福砂屋カステラ対決(クリン家ドライブ長崎旅行・22)

2018-01-23 | 旅行記

 出島に行く・とちゅう(途中)、「文明堂」

そう(総)本店を 見つけました

 ・・・・「長崎」といえば、カステラ

カステラといえば、ぶんめいどう(文明堂)・・。

 というわけで、クリンたち、おみやげに、カステラを

一本、

買っていくことに しました


 正直、子どものころから「文明堂」のカステラ

食べてなれていますが、

 もしかして、「総本店」の味は、かくべつ(格別)なのかも

しれない

 と、全車・カステラ色に ぬりあげられた「営業車

を 

見て

 「文明堂」の、ただならぬ・こだわりを かんじた、

クリンたちでした・・。


 同じ日の 夕方、ながさき(長崎)の丸山らへんで、

カステラの元祖

名のる、

しにせ(老舗)、

「福砂屋」にも 入りました  

 デパ地下・ブランドとして、「文明堂」よりも ちょっと

格上あつかいの

ふくさや(福砂屋)・・

 じょうとう(上等)なのは 知っていますが、そのこだわりは

どのていど(程度)・つよいものなのか 

 (←すっごい・つよそう

 あらためて、かくにん(確認)するため

1本買って、

「文明堂」のと、味くらべをしてみよう 

 なんて、思いついちゃったのです (罪かしら


(※判定員は、クリン家と、実家のお母さんです)


 「見た目からして 違うね文明堂のほうが、ワンカットが

大きい

 「でも色は、福砂屋のほうが、黄色いね

「文明堂は、ふんわりしてて・・」

 「福砂屋は、しっとりしたかんじ・・。」

 「底のザラメは、どっちにも ついてるね


・・でも、お兄ちゃんは、

 福砂屋のほうが美味しいと思う。」(おにいちゃん)

「お母さんも、福砂屋は よそのと、ぜんぜん違うと思うわ。

さすが、

寛永年間創業ね」(お母さん)

 「文明堂は、いつだろう?」「・・文明ってからには、

明治創業じゃない?

あっ、明治33年だって


 ・・・と、「文明堂」のはた(旗)色が じゃっかん・

わるく

なりかけたところで、

チットが

「文明堂援護」を はじめました

 私は・・、食べなれているせいか、文明堂の

ふわふわ加減が 

好きだな


もう一切れ、食べたくなるよ

 それに、前よりちょっと・美味しくなってない?」(チット)


仲間たちも・・、

 「カステラ一番 電話は二番 三時のおやつは ぶんめいどう~

 カステラ一番 電話は二番 

三時のおやつは、ぶんめいどう~

 っていう、れい(例)の歌と、カンカンダンスが 

お気に入り

らしく、

やはり、「文明堂」オシを

表明しました


 クリン自身は、どう思ったか 

といえば・・


ふくさや(福砂屋)のカステラは

やっぱり

もったいない・おいしさ

 つまり、「贈答品」レベルだと、

かんしん(感心)

しました


・・・・・でも、 


 子どものころから、いっぱい・食べてきた「文明堂の

カステラ巻

おいしさを

思うと、

 いまさら、ぶんめいどうのこと、うらぎれないよ。。


だから


 この・しょうぶ(勝負)、引き分けでいいや

って

思いました 

(どっちか決めるなんて、ぜったい・ムリ ごめんなさい、アアーン







(その23、「出島とお土産」に、つづく)
















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出島ワーフで「のも丼」を食べる。(クリン家ドライブ長崎旅行・21)

2018-01-22 | 旅行記

「大浦天主堂」からは、海が、すぐそこ

 いつから、こんなに せいび(整備)されたのか

わかりませんが、

 ながさきこう(長崎港)をのぞむ・ベイエリア

は、

きたないところが ひとつもなく、

キラキラ光って とてもキレイです

昔はなかった、あたらしい・かん(観)光地や 

サービスが

ある、

みなと(港)のならび・・ 

 クリンたちも、そんな・あたらしい ベイエリアの、

 キレイな・ランチスポットに、いざなわれ

ます

「長崎出島ワーフ」って ところです


 海に面した・デッキや、レストランが あつまる、

オシャレしせつ(施設)、ながさき出島ワーフ

 カフェとか、イタリアンとか、いろいろ

入っています


 クリンたちが、お昼ごはんを 食べるのは、

そんな

イマドキな お店じゃなく、

 ぎょきょう(漁協)が うんえい(運営)する、

「でじま朝市・朝市食堂」

です


地魚をつかった、

海のメシ(飯)が そろう、

このお店・・

 クリンたちが、食べたかったのは、

今が旬の

 ながさき(長崎)ブランド・アジ「野母んあじ」

をのせた

「のも丼

と、

 「野母崎御膳(のもざきごぜん)」

です

 イキのいい・アジ(鯵)は、コリコリしててまったくもって

ごはんに 合わない

浮いたかんじの 

おいしさが

すばらしく 

 クリンは、テラス席のお客さんたちが やってた、「海鮮バーベキュー

きっと・しんせん(新鮮)で

おいしいんだろうなあ~

うらやましく 思いました。


 

 「お兄ちゃんは、この辺で釣れる魚のほうが

気になるぞ」(おにいちゃん)



「・・さっき、

  港で釣りしてる人が いたんだよね~。

 いいなあ~。。」(おにいちゃん)

 「ねえ、車に 釣竿つんであるから、ちょっとやってかない?」

「ダメッ スケジュールおしてるんだから







(その22、「文明堂と福砂屋のカステラ対決」に、つづく)






 





 

 

 

 

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長崎銘菓・クルス(クリン家ドライブ長崎旅行・20)

2018-01-21 | 旅行記

クリスチャンじゅん(殉)教地・「長崎」に

来たからには、

「大浦天主堂」下の、おみやげ屋さんで、

「クルス」を買って、かえりたい

「十字架」のいみ(意味)をもつ、ウェハースサンド、

「クルス」・・。


 バリッとした・食かん(感)が ステキな

 発売50年を数える、ながさき・めいか(長崎銘菓)の

ロングセラー

です

 ながさき(長崎)を代表する・画家、「鈴木信太郎」

さんが

昔から、

パッケージイラストの

「シスター・クルス

描いています(ながさきっぽい


 「グラバー通りでの 買い物なら、こっちの、ふにゃっ

とした、

角煮まんじゅうも、捨てがたいけどね~。」「そ、そうだね

 

(こ、こっちは、買い食いの、マストバイです

 

 

 

 

 

 

(その21、「出島ワーフで、のも丼を食べる」に、つづく)








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大浦天主堂と、26聖人殉教跡地(クリン家ドライブ長崎旅行・19)

2018-01-20 | 旅行記

グラバーえん(園)の、すぐ下に、「大浦天主堂」が

あります

 (現在、改修工事中)

キリスト教が、きんし(禁止)されていた・時代も、

ひそかに

しんこう(信仰)を つないできた

日本人が、

 明治になって、「私たち、実は、信者です

と 告白した、れきし(歴史)的な、教会

それが、「大浦天主堂」 なのですが、


ここは

そもそも、

さかのぼること

ひでよし(豊臣秀吉)

の時代に、

 ながさき(長崎)で、処刑されてしまった

26人の

ために

たてられた

教会らしい。。


(だから、正式には、「日本26聖人殉教者天主堂」って

いいます

 

 とよとみ・ひでよし(豊臣秀吉)は、

キリスト教を

日本から 

しめだすため

 ひそかに、布教していた・せんきょうし(宣教師)と

信者26人を、

 ながさき(長崎)に 送りつけて、みせしめに

処刑しました

(はりつけです!)

 げんざい(現在)は「長崎駅」の近くである、その処刑場の

丘は、

「西坂公園」として、せいび(整備)され、

じゅうじか(十字架)にかけられた、26人の 

レリーフが、

かかげられています

 

 (・・子どももいるじゃん

 

 

・・・・・

 

 以前、この 処刑場の丘を おとずれた、

うちのチットは、

 早朝、おそなえの花をもった、クリスチャンの

おばあさんが、

下からの 坂道を

よたよた・のぼってくるのを見て、

「あ~、やっぱり、長崎って、キリスト教の街なんだなあ・・」

しみじみ、

かんどう(感動)したらしい

 

この「西坂公園」の丘に わざわざ・向けて

たてられた

というのが

おおうら(大浦)天主堂 ですので、 

「大浦天主堂」に行った後は、こちらの 西坂こうえん(公園)にも

来ることを、

おすすめいたします

 

 

 

 

 

 

(その20、「長崎銘菓・クルス」に、つづく)

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

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大浦慶の功労金(クリン家ドライブ長崎旅行・18)

2018-01-19 | 旅行記

そういえば、「グラバー園」の中で、

 (グラバー住宅よりも、ステキだな)と思った、お家が 

ありました


 「オルト住宅」です


 やはり、グラバーさんと同じく、ばく(幕)末に

ぼうえき(貿易)で

大もうけした

イギリス人、

オルトさんの お宅なのですが、

 その、オルトさんと組んで、日本茶ビジネス

大成功した

 ながさき(長崎)の女商人・おけいさん(大浦慶)

話も、

今回・きいて

かわいそうだったので、

ちょっと

のっけておきます


 おけいさんは、もともと・油商家の 生まれでしたが、

開国後、

「これから、外国人に

売れるのは、お茶よ

と 

見きわめ、

 九州中から、お茶を かきあつめて

オルトさんに

売ったそうです


 その後も、大々的に 日本茶を 海外に売り込み

「大金持ち

になった

おけいさんは、

 坂本りょうま(龍馬)たち、志士のパトロンにも なりました


しかし・・・

 明治に入ってからは、人にだまされタバコ取引の

「連帯保証人」に

なったりして、

はさん(破産)・・

 やしき(屋敷)を 売り払い、びんぼう(貧乏)生活

しのびながら、

 死ぬまでには、ちゃんと 借金を 返したらしい。

 そんな・彼女に、亡くなる 一週間前に、

明治政府から

とくべつ(特別)に

おくられた

こうろう(功労)金が、20円「ええっ


「・・少なっ」  (クリンの貯金は、30円


 (かわいそうだなあ。。)


・・・・


グラバーえん(園)には

さまざまな

にんげんドラマが ありました






(その19、「大浦天主堂と、26聖人殉教跡地」に、つづく)













 

 

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倉場富三郎の悲劇(クリン家ドライブ長崎旅行・17)

2018-01-18 | 旅行記

 はなやかな、西洋人・居留地、グラバーえん(園)


その主は、

 トーマス=ブレイク=グラバーという、スコットランド人です。

グラバーは、江戸時代のおわりに 来日し

 ばくふ(幕府)をたおそう とねらう、日本人志士と 交流。

 あっという間に、「長崎実業界の顔

ともいうべき

大商人に、

成長しました

 お茶、船づくり、石炭・・と、なんでも商い、

さっちょう(薩摩や長州)に、武器をながし

 大名とも 取引して、キケンな つなわたり(綱渡り)

しながら、

 大もうけ、した後、とうさん(倒産)

という

波乱の20代を、

すごした・グラバー


 明治に入ってからも、政府や、財界から たよられ、

 日本の「富国強兵政策」を、ささえました


そんな

グラバーには、

 あとつぎ息子 が、いました

 日本人女性との間に もうけた、くらば・とみさぶろう

(かんじ:倉場富三郎)

です。

 とみさぶろうは、お父さんが作った・この家と、


ながさき(長崎)における地位

とを、

ソフトに 受けつぎました


 日英ハーフの とみさぶろうは、同じ・日英ハーフの妻、

「ワカさん」

えて、

 お父さんよりも、日本人社会に なじみました


日本・イギリス・それ以外・・

 ながさき(長崎)には、さまざまな国の人が

いる

その「橋渡し役」を、自分がやってみたい 

 とみさぶろうは、商人をこえた・存在を めざし、

社交界を、もりあげて いきました 

 それは、名士クラブである、「内外倶楽部」を 

しゅさい(主宰)したり、

 「長崎・諏訪神社」の 氏子にもなる、など、

てってい(徹底)

していました


 ・・・が、しかし  そんな・とみさぶろうの 人生を、

「太平洋戦争」

ひねりつぶします


 イギリス人ハーフである・とみさぶろうに、スパイようぎ(容疑)

かけられたのです


 したしかった・外国人たちは、次々と 日本を

去り

 なれしたしんだ・家(グラバー住宅)も、

「長崎造船所が見下ろせるから」

という理由で、立ちのかされ・・、

 引っこし(越し)先では、けんぺい(憲兵)に

かんし(監視)されて

 近所の人とは そえん(疎遠)になる・毎日。。

 「日英の架け橋」どころか、手のひら返して 「毛唐」よばわりを

受け、

 ふうふ(夫婦)は、家に 引きこもって、戦争の間中、

たえしのぶしか

ありませんでした。。


 そんな中、あいさい(愛妻)・ワカさんが、とつぜんの

病死・・


さらに

 自分が、もりあげてきた ながさき(長崎)に

げんばく(原子爆弾)が

投下・・

 しかも、せんそう(戦争)がおわると、

今度は

どこからか、

「倉場富三郎は、戦争に協力した財界人」

との声が

あがり、

 「戦犯」として つかまるのではないか?

との

うわさが

たちました。


 ねむれなくなるほど・追いつめられた

とみさぶろう

は、

せんそう(戦争)がおわって

11日目に、


首をつって 死んでしまいました。。


・・・・・


 日本での栄光を きわめつくし、政府から

かんしゃ(感謝)されまくって

人生をおえた、

父・グラバーと、

 日本にそむかれ、ぜつぼう(絶望)の果てに 「孤独死」した、

息子・くらばとみさぶろう

 そんな・かなしい、家ぞくの物語が この「グラバー園」

あるなんて

思ってもみなかった

クリンでした・・


 でも、せんご(戦後)、グラバー家のひげき(悲劇)をも

丸のみにして、

 ながさき(長崎)のまち(街)は、力づよく、ふっかつ

(復活)しました


そのかげには、

「長崎の復興のために、使ってほしい。」

 とみさぶろうが、いしょ(遺書)

とともに

のこした、

 10万円という、ばく(莫)大な お金の存在が、あったそうで、

クリン、

これは、決して 忘れてはならないことだ

って

思いました

 

 

グラバーえん(園)を 

大切にしながら

 とみさぶろうが、くれた・気もちを、大切にしたい

って

クリンは、思いました







(その18、「大浦慶の功労金」に、つづく)











 

















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リンガーハットの名前の由来(クリン家ドライブ長崎旅行・16)

2018-01-17 | 旅行記

食べ物にかんけい(関係)する、「グラバー園の住人」

もう一人

 イギリス人の、フレデリック=リンガー

です

ながさき(長崎)の、「リンガー」・・。


・・・え

 それって、、まさか まさか



 「長崎・実業界」において、トーマス=ブレイク=グラバー

かた(肩)をならべるほどの

地位を きずきあげ

 明治後半には、ながさき(長崎)で その名を

知らない人は 

いなくなっていた

という

リンガーさん。

 彼の成功に あやかって、「長崎ちゃんぽん・

リンガーハット

その名を かん(冠)しました


・・・・・ やっぱり 








(その17、「倉場富三郎の悲劇」に、つづく)

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