クリンの広場

たまっこくりんのおもいのたけ

三遊亭歌笑(春の奥浅草を歩く・7)

2021-04-10 | クリン江戸散歩
(ビボウロクです。
 
 
じょうかんじ(三ノ輪・浄閑寺)の けい(境)内にて・・
 
 「武者小路実篤の書」が きざまれた、ひ(碑)を 見つけました


「古よりの言の葉に、山紫水明の地、必ず偉人を生じるとかや。アアされどわれ未だ偉人の部類に属することかなわず。若き落語家歌笑をはぐくみし故郷は南奥多摩絶景の地なり」

 このつづきが 気になった・うちのチット(落語好き)
は、
 
 奥多摩生まれとは、親しみわくね どんな咄家さんだったんだろう
 
と 言って、
 
 後日、その はなし家さん(三遊亭歌笑)の落語が のっている、
 
『歌笑純情詩集』を 借りてきました。
 


以下、まくらの続き・・(わが生い立ちの記)

「われ、たらちねの胎内を出でしころは、長谷川一夫遠く及ばざる眉目秀麗な男子なりしかど、世の移り変わりとともにわが容貌も一変し、いまや、往年の銀幕、フランケンシュタイン第二世の、怪顔を思わするごとく豹変せり。・・」

 「 この顔で 面白いわ」(チット)


「ああ、されど、われは幼きころより頭脳明晰なれば、五つ六つのころは、音楽家たらんと志し、、
われは天稟の才あるにまかせて、あらゆる書籍を乱読し、、」
 
 
 ふ~ん


「そのころより、われは、、まろやかなる、乙女の胸、深紅の口もとから、洩れにし、言の葉を聞くたびに、あたかもマイナス百ボルトの電流にかかりしごとく、われは猛烈なる性欲の攻撃を受け、これを肉体によりて解決せんと欲し、三十路の春、メンデルの法則にしたがいて廓の門をくぐりぬ。

赤き褥しとねにうち伏して、大理石のごとき、乙女の肌にひしと抱かれ、おお、われ生涯最高の一夜を過ごせしその明くる日、、

われはこの世にペニシリンなきことを嘆きいたりき」

 
「あらら、、(淋病にかかっちゃったみたいです)」


 吉原の、うらのお寺に眠る・笑いに ふさわしい・・


 この、さんゆうていかしょう(三遊亭歌笑)さん
は、
 
終戦から5年間、人気ぜっちょう(絶頂)だったのに、占領軍のジープにひかれて 亡くなりました

あの 
林家三平も、あこがれた人
 
だったそうですが、、

 ご本人も自虐する「珍顔」のせいで、
幼いころから そがい(疎外)され、
 
売れてからも、耐えることが 多かったらしい、、

なのに
 
めげずに、こぐんふんとう(孤軍奮闘)し
 
敗戦に うちひしがれていた・日本人に 笑いをていきょう(提供)しつづけ
 
そういう・人だったそうです
 
 
まったく、知りませんでしたが・・
 
 こういう・未知とのそうぐう(遭遇)があるから、
 
お出かけって、やめられないんですよね
 
 
 
 
(※ビボウロクなので、コメントらんはお休みします 今度こそ、吉原に10か月住んだ、樋口一葉の旧居跡に まいりますね
 
 
 
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投げ込み寺の浄閑寺(春の奥浅草を歩く・6)

2021-04-08 | クリン江戸散歩

 江戸の辺えん(縁)、南千住。。

この、さびしい地に

いこ(憩)うたのは

クリンたち・「令和都民」だけでは ありません。


大正~昭和にかけて、

この、「奥浅草」に 出没していた

 作家の、ながいかふう(永井荷風)も

心底

この地に いこ(憩)うていました。



浅草

向島

新吉原の花まち(街)を 練り歩き

娼婦・ダンサー・女給などを

その、ひあい(悲哀)も含めて、こよなく・あいした

永井荷風。


 そんな彼が、「死んだらここに葬って

ねがったという・お寺が 

あるので、

クリンたち、行ってみました。 (※親友チットが「永井荷風」好きなので


 そのお寺とは、

じょうかんじ(浄閑寺)です。


 「投げ込み寺」と 呼ばれた、

ここ「浄閑寺」は、

風俗がい(街)・吉原の うら手にあり、

昔から

吉原で死んだ娘たちの 亡がらを ひきとって来ました。


 ・・借金のかたに 売られてきて、

たくさんの男に 身を任せ、

身体をわるくして 死んで行った

吉原の娘たち。。


華やかなおいらん(花魁)なんて、ひとにぎり(一握り)

その他大ぜいの・・、

たいして・かせぎもなく 病死した女たち

には、

いたい(遺体)の引き取り手など、ありませんでした。。


 そんな、あわれな・娼妓たちの 行きつく先が

このお寺だったのです

 「生まれては苦界 死しては浄閑寺」、、

(by花又花酔)

と 

書かれた・台座の上に 立っていたのは

 遊女のこつつぼ(骨壺)を おさめた、

「新吉原総霊塔」・・

 大きな「供養塔」の周りを ひとまわりすると

風通しのような穴が 

いくつか あいていて・・

 中をのぞくと、たくさんの白い「骨壺」が

見えました

(閲覧注意です 今さらですが💦 すいませんっ


 また、塔のひさしには、、

ここをおとずれた人が

おいていった

と 思われる、

バレッタやピン止め、マニキュアが お供えしてありました


 そして・・ その向かいには、「彼女らとともに葬られたい」

と ねがった、

 作家・かふう(永井荷風)のふでづか(筆塚)

ありました。


われは明治の兒(こ)なり」・・



それと・・

ここを おとずれたら、

ぜひ 

立ちよって・いただきたいのですが・・

この奥に、

この吉原エリアのとなりにある、山谷の「労働者」たちの むえんばか(無縁墓)、「ひまわり地蔵尊」

が、あったんです!!

(※高度経済成長の日本を支えてくださった方々の、お墓です


・・・

見ると、

だいぶ・干からびてしまっているのが 

切なかったので、

 クリンは、お水を かけておきました

 (お酒もってくればよかったな・・)


・・・・・

しんみりしちゃったけど、

(来て良かったな)って思える、お寺でした


(春の奥浅草を歩く、次回は、吉原ゆかりのもう一人の文豪・「樋口一葉」の暮らした「竜泉」を歩きます

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荒川区・三ノ輪周辺(春の奥浅草を歩く・5)

2021-04-07 | クリン江戸散歩

(ガタンゴトン~・・・

 

しょっぱなから、

江戸時代の処刑場、という

「超ディープスポット」に 連れて来られちゃって、

やや・引けごしな クリンでしたが・・

 

この日のさんさく(散策)は、そんなものでは すみませんでした

 

ここから、

「真の奥浅草エリア」である、吉原と山谷が 待ちかまえていたのです。

 延命寺・わきの道を、線路に沿って、

西にすすむ。

 (ほんと・人が少ないなあ。。このまち・・

大丈夫なのかな

とはいえ、、

なんか、なつかしいような ふぜい(風情)です・・


 クリンたちが・子どものころ(昭和のおわりころ)、

「常磐線沿い」って、

こんな、下町だらけでした。



 

・・・

東京で、ここまでなフンイキって、もはやないかも。(貴重

 

この辺、地面を掘れば、人骨ゴロゴロ

だそうですが・・

フシギと、

なにか あたたかいような

やわらかい 空気かん(感)に、みちています

 

 時を止めた・荒川区のろじ(路地)にいこ(憩)う、

クリンでした

 

(次回、「春の奥浅草を歩く・6」は、吉原遊女の投げ込み寺・浄閑寺に まいります前半のイチオシ場所です

 

 
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延命寺の首切り地蔵(春の奥浅草を歩く・4)

2021-04-05 | クリン江戸散歩

 えこういん(東京・南千住の小塚原回向院)

の並びに、

えんめいじ(延命寺)が あります

 江戸時代・・、ここ(小塚原刑場)で 刑死した人は

20万人 と 言われますが、、

みんなが みんな、

回向院に、おはか(墓)を 作ってもらえるわけでは

ありませ

 

 そこら辺に、ほうち(放置)された・いたい(遺体)が

たくさん・あったそうです

 

(屍肉を求めて、カラスギャーギャー、野犬ウロウロ・・

 

 そんな「骨が原=小塚原」の、むえん(無縁)仏を

くよう(供養)している

ありがたい・おじぞう(地蔵)さんがいる

と いうので、

こちら、延命寺に 来ました


 ででん!!

(うおっ デカい
 ※通称:首切地蔵さまです


「27個の花崗岩」を 組み合わせた・おじぞうさんは、

2011年(東日本大震災)に

うで(腕)がおち

胴体も ずれちゃったけど・・


寄付があつまって、なんとか、元の状たい(態)に もどったらしい


 打ち捨てられた・罪人のたましいの 

面どう(倒)を、

300年も見てきた、おじぞう(地蔵)さん

が・・

 

くずれたままじゃ、

あまりに いたましすぎる。。


(ふっかつ(復活)してくれて、良かったな、、

と 

クリンは、思いました


 

 

よく見ると、やさしいお顔を しています。

 


 (さっきは、ビクッとしちゃって、ごめんなさい

でも・・・


 ごおおおおおおぉ・・・・・・
(となりの線路で、常磐線が通過

 

効果音が こわすぎるんですよねここ・・

 

 

 

(次回、「春の奥浅草を歩く」は、三ノ輪周辺の、昭和な風景を お届けいたします

 

 

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小塚原回向院(春の奥浅草を歩く・3)

2021-04-04 | クリン江戸散歩

 JR・南千住駅北口すぐのところにたつ、

こづかはら・えこういん(小塚原回向院)。

 

 ここは、同じ場所にあった、

「小塚原刑場」の刑死人を

とむらうため、

江戸時代に たてられた・お寺です。

 ぼち(墓地)には、「吉田松陰」、「橋本左内」

など

ばく(幕)末の志士の はかや、

「盗賊・鼠小僧」や、「毒婦・高橋お伝

の はかなど、

 刑場のつゆと消えた、有名人が ねむっていたりしますが・・

 

いちばん・目を引くのは

入り口近くの かべ(壁)に かけられた、

 この、『解体新書』のひ(碑)です

 ここで処刑された・死体のかいぼう(解剖)を

見るために おとずれて

のち、

「日本初の、本格的解剖翻訳書を あらわした、

杉田玄白

前野良沢たちの 

じぜき(事跡)を 記念する・ひ(碑)。。

 

 彼らは、苦心さんたん(惨憺)して

『解体新書』を 世に送りましたが

ここで

そういう・いみのあることをした人が 

いてくれて

少しは 救われるような、、?

ふくざつな思いの クリンたちでした・・

 

だって・・

「 菜の花も咲き乱れ、はりつも候て人も出、にぎやかに候、ちと御こし候へかし

千住宿の遊女が、客をさそう・口実にしたほど、

江戸時代、

処刑は「見世物」として

人気があったそうですから・・

 

「菜の花も咲いてるしはりつけ(磔刑)もあって、

にぎやかよ~ あそびに来てぇ~と、遊女がさそった・手紙があるそうです

オイオイ・・)


 てっきん(鉄筋)コンクリートのこのお寺の下にも、

ぼうだい(膨大)な数の人骨が ねむっている

と きき、

 下ばっかり・見てしまう、クリンでした。

 

 

 

(次回は、線路の反対側にある「首切り地蔵」を 見に行きます これが、回向院なんか目じゃないくらい、すごかった・・🐻 )



 

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南千住駅の歴史(春の奥浅草を歩く・2)

2021-04-02 | クリン江戸散歩

 さて やって来ました!!奥浅草散歩

スタートはここ、

みなみせんじゅ(南千住)です。

 となりは、江戸4宿の一つで有名な「北千住」ですが、

今回は そちらでなく、

 江戸時代の処刑場」があった、南千住を見て 歩きます

 

クリンたちが 降り立った、

この、南千住駅・・

実は

 江戸時代の二大刑場のひとつ、

「小塚原刑場の、真上」に つくられた駅です

 

(もうひとつは、鈴ヶ森刑場

 今でこそ・・ 駅前は再開発され、大きなマンションもたちますが

ここは かつて、

「骨が原(こつがはら)」といわれた、

人骨ゴロゴロの 野原でした。

 

(今でも、ちょっと「道路工事」で掘っただけで、数十人分のしゃれこうべが出てきたりするそうです

 

 JRと日比谷せんの線路に ぶったぎられて

二ヶ所に 分かれちゃったけど、

20万人の刑死者を 弔っている

という、

ふたつの寺院が ありますので、

 クリンたち、まず駅北側の、

えこういん(回向院)に おまいりします

 

 

(その3、「小塚原回向院」に、つづく

 

 

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春の奥浅草を歩く・1

2021-04-01 | クリン江戸散歩

クリン、隅田川の桜、見に行かない? 

・・久しぶりに、奥浅草を 歩きたい。」

しん(親)友・チットが さそってきたのは

コロナ以前、、

 

 (あさくさ・・?)

 「行く

 

よろこびいさんで クリンがついて行った先は、

観光地浅草」ではなく

 

せんそうじ(浅草寺)のうら手の、おくあさくさ(奥浅草)

でした。 

 「奥浅草」・・それは、さんや(山谷)とか、

よしわら(吉原)とかが

あるエリア。。

 

ハッキリ言って

用のない人が、行く場所ではない、

かなり・とくしゅ(特殊)で、

昼間は、ぜんっぜん・人がいないまち(街)でした

が、、


今年みたいに 

コロナがあって、人出が気になる 

という場合には、

ちょうどいい・さんさく(散策)スポットかも しれません。


 
あとで、リポートしますが・・

山谷は「労働者の街」、

吉原は「遊郭の街」、

そして、おくあさくさ(奥浅草)とは、

それらに、

「罪人の処刑場であった小塚原」

を ふくめた、

江戸時代の うらさびれ・エリア です


(そんなところに行って、おもしろいの?)

と 

思われるかも しれませんが・・

 これが、けっこう、「江戸の端っこ」っぽい

フンイキを のこしていて

いせかい(異世界)ですし

 

ふだん目を向けない・さびしい界わい(隈)に 

目を 向けるのに・・

今年ほど、てき(適)した・春は、

ありません

 

「蔵出し画像」で すみませんが、

ゴールの すみだがわ(隅田川)まで・・

 「奥浅草グルメ」とともに、

決して

浮かれることのない、

しずかな江戸の春を ごらんくださいませ


(と、いうわけで 次回から、「クリン江戸散歩~春の奥浅草を歩く」

を はじめます

めっちゃ・ディープな内容ですが よろしく~

 

 
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ソフトカツゲン・ソフトキャンディ(北海道スピリットを感じる銘菓・35)

2018-10-13 | クリン江戸散歩

「べこもち」や

「ノースマン」も

力をつけて くれます

が、

 パワーがほしい時に、北海道の人が

のむ、

「ソフトカツゲン」

っていう

「乳酸菌飲料」が

あります

 味は、ヤクルトやピルクルに、「飲むヨーグルト」

の むとう(無糖)を

足したような、

スッキリ&マッタリ・・


「雪印メグミルク」が

せい(製)造元、

とはいえ・・

東京では 手に入りにくい、

北の ローカルドリンクです

 でも そのカツゲンを に(煮)つめた、「ソフトカツゲン・ソフトキャンディ」

なる、アメ(飴)

あるので、

のみたければ、代用がききます


北海道外の人には

何とも 思われませんが・・

 北海道出身の人に このアメを

わたすと・・

 「ええええ~~~~ なんでこれ、知ってるの

という、

おどろきとコウフンの 

おたけびを

あげさせることが できます



・・・

 たしかに、

 雄たけびは もらえるけどさあ~

 ソフトカツゲンの飴なんて、北海道スピリットを

感じる『銘菓』と

言ってしまっていいのかな

これ、銘菓の紹介じゃなかったっけ。

ソフトカツゲン飴は、

『銘菓』じゃないでしょ、

銘菓じゃ・・」

チットに してき(指摘)されました


(・・た、たしかに

 次は「ジンギスカンキャラメル」

いこうかと

思ったけど、

いつの間にか、

しゅし(趣旨)と ズレはじめてた


・・・・・


「北海道スピリットを感じる銘菓・シーズン2」

 これにていったん・しゅうりょう(終了)

また

いろいろあつめて、

シーズン3を 

いつかおひろめ(披露目)いたします

 

 

 

 




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標津羊羹(北海道スピリットを感じる銘菓・21)

2018-09-19 | クリン江戸散歩

豆が

たくさんとれる

北海道では、

 北海道スピリットを かんじる・ようかん(羊羹)が、

たくさん つくられていますが、 (上:白樺羊羹、下:ニシンの群来羊羹

 その、さい(最)たるものと、クリンが 思っているのが、

しべつようかん(標津羊羹)

です

 

道東の、

なかしべつ(中標津)町で

昔から

つくられている このようかん・・


 まず、その包み紙からして、北海道

<冬のクナシリ島> 

 <根室原野から望む千島連山>

<阿寒国立公園>  

 <冬のトドワラ>(※立ち枯れたトドマツ林の跡)


と、

うらさびしくも

きびしい・しぜん(自然)味 

いっぱい


 そして、その中身は、めずらしい・金時豆を ねりあげた 

ようかん

なのですが、

 この、赤茶色・・


「シベツ」

とは、

アイヌ語で「サケのいる大きな川

の こと・・。

 「秋サケ水揚げ・日本一」を ほこる、この町を

流れる、

しべつ(標津)川

こんだく(混濁)した

茶色い

川の色に、

 この・ようかんの色を、かさねて見てしまうのは、

クリンだけでしょうか・・




 

 

 (その22、「牡蠣最中」につづく)

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明日からブログ再開します。

2017-11-10 | クリン江戸散歩

今日から、

フィギュアスケート・NHKはい(杯)

はじまります。


 「ゆづーーーーー



宮原知子ちゃんも復帰するよ、応援しよ」(チット)


 「そ、そだね


(明日から、ぶろぐ・さいかいします

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江戸の二大刑場~大森散歩・7

2017-10-16 | クリン江戸散歩

 今回おとずれた、品川区・南大井の すずがもり(鈴ヶ森)刑場


 江戸には、ここと もうひとつ、あらかわ(荒川)区・南千住に、

「小塚原刑場

というのがあり、

 江戸の人々から、「二大刑場」として、

おそれられていた

らしい・・。

 「日本橋から西国の者は、鈴ヶ森に、東国の者は小塚原に

送られて処刑されたんだよ。」

話す・チットは、

 15年位前に、江戸のざい(罪)人の「市中引き回しルート

自分でしらべて 

たどってみて

 すごくおもしろかったことから、以来、「江戸散歩」を

シュミ(趣味)に 

しています


チットは 言います。

 小塚原のあたり・・、もう一回行きたいな。『クリン江戸散歩』

もう少し ふくらませてみたいの また取材に、行こう」と。

 

「・・う、うん。」 (また、こわいところに 行くのか・・

 

 (・・それにしても、今回、何のジュンビもせずに 来ちゃったけど、

『大森散歩』、たのしかったな 

 シブヤ(渋谷)から南のほうは、あまり来ること

なかったけど、、

 このへん、どうやら、おいしい・のり(海苔)も 

あるらしいし、


きょうみ(興味)深いところ

なのかも

しれないな・・。


チットと

よっちゃんに、

 品川さんぽ(散歩)やることも、ていあん(提案)してみよう

 

 

 

 

 

 

(大森散歩・完)

 

 

 

 

 

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鈴ヶ森刑場跡~大森散歩・6

2017-10-15 | クリン江戸散歩

 大森には、駅をはさんで、2つのエリアが あります

戦前から「住宅街」だった、山がわ(側)のエリアと、 

 ビルや大型店が、たちならぶ、海がわ(側)の エリア 

 その、海にほど近い「大森海岸駅」から、

だいいち(第一)京浜沿いを  歩いていくと

 クリンたちの目的地、「鈴ヶ森刑場跡地」が

見えてきます

(※品川区南大井)

 江戸時代、このあたりは、追いはぎが出ることで 有名で、

 らくご(落語)には、ここで 追いはぎのれんしゅう(練習)を

すべく、

親分に つれてこられた

ドジで 弱気な

しんまい・どろぼう(新米泥棒が、

 逆に、旅人に 身ぐるみ・はがれる っていう、オチ話が

あるらしい

 平成の今でも、ひと気が少なく、となりは国道なのに、

なんだか、

うらさびしい・かんじが します。。 

 この場所に、「処刑場」がおかれたのが、江戸時代の

はじめ。

 明治いしん(維新)までの間に、たくさんの 犯ざい(罪)者が、

 ここで、首を切られたり、はりつけにされたり、火あぶりにされた

わけです・・。

 有名どころとしては、ばくふ・てんぷく(幕府転覆)を

図った、「丸橋忠弥

恋する放火少女「八百屋お七」。


 彼を、はりつけ(磔)にした台や、

彼女を 火あぶりにした台・・  さらに、

 処刑後に、血をあらったという、「首洗いの井戸」なるものが

のこってて、

 「・・・こわい

 「なに言ってんの キリシタンたちなんて、そこの海の

波打ち際で、水磔の刑だよ

 引き潮になると、息吹き返すから なかなか死ねなくて、

一週間かけて 

じわじわ殺されたんだから。」

 と、チットが、海のほうを ゆびさして、言いました

そんな、しょけい(処刑)者を とむらうため、 

 刑場あとの 後ろにたっているのが、だいきょうじ(経)寺

っていうお寺です。


こちらは

ぜったいに、

 おまいり・ひっす(必須)


なのですが・・


お寺の中には

こわいシャシンが 

かざってあるので、


ようちゅうい  「ギャオオォォ~・・






(その7、「江戸の二大刑場」に、つづく)



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徳富蘇峰と戦争責任(山王草堂記念館にて)~大森散歩・5

2017-10-14 | クリン江戸散歩

 「馬込文士村」のボス、おざきしろう(尾崎士郎)

さんか(参加)していた、

「日本文学報国会」  (※ペンで、お国に報いようっていう、戦前の団体)


 その会長をつとめていたのは、「マスコミで

お国に報いよう

っていう

「大日本言論報国会」

の会長も

けん(兼)任していた、

 とくとみ・そほう(徳富蘇峰) と、いう人です。


(ここに、住んでたらしい・・) 


 れきし(歴史)にくわしい・チットいわく

 「徳富蘇峰は 近代思想史をたどる上で、絶対に欠かせない、

大物言論人

だそうです。


 ふくざわゆきち(福沢諭吉)を、明治前半のトップジャーナリスト

と 

するならば、

とくとみそほう(徳富蘇峰)

明治後半の トップジャーナリスト


 しかも、その後の「太平洋戦争・終結」に いたるまで、

この人ほど、

しんぶん(新聞)・ざっし(雑誌)の世界

で、

大きな力を ふるった人は、

たぶん・いない


らしい。。


「・・にしては、知名度ないね~。」 (記念館は内部撮影・可

 ・・弟の、徳富蘆花のほうが、有名かもね。

蘇峰は

ながらく、研究対象として

語られることが

タブー視されてきたから・・。」


 チットは、その人物について、語りはじめました。


 とくとみ・そほう(徳富蘇峰)が、その名を 知られ

はじめたのは、

明治はじめの

「自由民権運動」の ころのこと


 「おいおい、明治政府 あんたらだけが、突っ走って 

近代化して どうするんだよ

民衆の 声も聞けよ

これからの日本は、

平民レベルで、文明開化するんだぜ」 

 と、いきまいては、明治政府を「青息吐息」させた、

すじ金入りの

「平民主義者」、

それが、そほう(蘇峰)でした


 ところが

 中国(清)との戦争を けいけん(経験)したり

 欧米の圧力に、くっする・日本を いろいろ

目のあたりにする

うち、

 そほう(蘇峰)の中で、だんだん「平民主義」は ぼやけていき

 (・・もしかして、今は、民権なんて 守っている

場合じゃないのかも

甘っちょろいこと言ってたら、

たちまち・植民地にされるな。。


政府に 

多少 強引なことをさせてでも、

 とにかく、国を強くするのが、先決だったぜ


と、

考え方を

180度、かえてしまいます


こうして、


「国家主義者・徳富蘇峰」が、生まれました。


 ちょうど、そほう(蘇峰)みたいな・協力者を 

さがしていた 

明治末の日本政府は、

そほう(蘇峰)に

「これからの日本を、思想でひとつにまとめて

 国策を 後押ししてほしい。」

いらい(依頼)し、

 そほう(蘇峰)に、けん(権)力を 与えます

 政界に 入り込んだことにより、「魔法の杖」を 

手に入れた・そほう(蘇峰)は、

「大日本帝国の オピニオン・リーダー」

という

地位を えて、

 ついには、戦争すいこう(遂行)キャンペーンを とりまとめる、

言ろん(論)界の 大ごしょ(御所)

に、

のぼりつめて 

いったのでした



まわりは、こんらん(混乱)します。


 ・・・かつて、本気のデモクラシーを 唱え、民しゅう(衆)のために

政府にかみついていた、

青年・そほう(蘇峰)

は、

どこへいって しまったのか・・ 


 世間は、そほう(蘇峰)を「変節漢」と ののしり

 戦後は、その・言ろん(論)を ふうさつ(封殺)しました。。


(だから、今、あまり知られてないのかも・しれません。)


 うちのチットは、このそほう(蘇峰)を見ると、

近代日本の いきけんこう(意気軒昂)と、

ざせつ(挫折)と、

こじれを 

全部見る 思いがする・・


って

言ってます。


 明治~大正~昭和、と 94さい(歳)まで

生きつづけ、

その人生の大半を

日本国民に 

えいきょう(影響)しつづけた、

「大思想家」、とくとみ・そほう(徳富蘇峰)・・

 彼の戦争責任は、もちろん重い。けど・・・

 蘇峰の言論を あげつらうばかりでは どうしようも

ないんだよね。


その蘇峰の

言論をつくったのは、

時代の要請

 

 だからつまり・・ 当時のできごと・政策・世論・気運を、

同時に 

見直してみないことには、

日本近代史の真相には、

近づけない

 

意図的でない視点で

冷静な人が、

今一度、蘇峰を 研究することには

現代史的な

意味があるはずだよ。

 

 歴史が 後ろ暗いといって、そこを うやむやにしてしまっては、

日本という国は 

この先も、

政府・国民ともに

『無責任主義』っていう、

お定まりの 原点に、回帰し続けてしまう。


って

おもうんだよね。」


 と、チットは 言いました。(そうかもしれないけど、

今回の「大森散歩」、

やけにないよう(内容)がヘビーだな!







(その6、「鈴ヶ森刑場跡地」に、つづく)

 

 










 

















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馬込文士村レリーフの明暗~大森散歩・4

2017-10-12 | クリン江戸散歩

<大森駅西口にて>

 「ねえ、すぐそこから『馬込文士村』だから、ちょっと見て

みたいんだけど「うん、いいよ~。」


(・・・・あそこ?) 

 (とりい(鳥居)が、ある。。)

「・・すごい急な、かいだん(階段)だね。」

 

 上は、「天祖神社」という 神社のようですが、そこに 

もう(詣)でる

かいだん(階段)横の 

うかいろ(迂回路)

が、

 「馬込文士村・散策のみち」に なっていて、なにやら、

レリーフが

かざってあります

 「このへんが、かの有名な『馬込文士村』かあ~。」(チット)


 大正~昭和の初め、このあたりの高台は、

まごめ・ぶんしむら(馬込文士村)

といって、

作家や、画家が

はなやかに 交流していた

そうです


 たばた(田端)文士村や、おちあい(落合)文士村

ならぶ、

東京三大文士村の、ひとつ

・川端康成、・萩原朔太郎、・山本周五郎、・北原白秋

etc

したしく・行き来した

「丘の上の、文芸コミュニティ」

それが、

この、大森の

「馬込文士村

だったらしい

 

 (・・・丘の上には、文士たちの旧居あと(跡) 

ぜっこうの

文学さんぽ(散歩)コースじゃん


いうとこで、

クリンたち、

レリーフを ひとつひとつ見ながら

かいだん(階段)を

のぼりました


 さいしょは、<昭和8年の大森駅風景>です (かんさんとしてます!)


そして

次が、

<大森丘の会>

 「望翠楼ホテルっていうのがあったんだね~。」(リゾートっぽい


こちらが、<尾崎士郎と宇野千代>

 「馬込文士村の、ボス夫妻だね

 <広津和郎と、マージャンに興じる文士たち>

あっ、吉屋信子 「モガだね

 <ダンスパーティーに集う、文士とそのパートナー>

 「むろう・さいせい(室生犀星)も、ここにいたんだね

あ~、村岡花子さん<女性活躍の時代>


 <相撲に熱中し、みずから取り組む文士たち>

・・みなさん、お盛んね~。」


ってなかんじで、

 上にのぼるまでの間に、文士村の人々が 

どんちゃんさわぎ

していた 

ようすが、


 実によく わかりました 

 (・・・バンカラ青年が、そのまま大人になったみたいだな。)


お酒が好きで

人づきあいがこ(濃)くて

れんあい(恋愛)関係が

わりと、ふくざつ・・

 昔の文士って、そういうものだ と、イメージで

りかい(理解)

していながらも、

 なんとなく いわかん(違和感)をおぼえる、

いい大人の

あそびくるいっぷり・・


 「ダンスパーティー」のレリーフ横に 書かれていた

せつめい(説明)文の、


「昭和の初期、文学の世界は転換期を迎えていました。

 まだ若かった馬込の文士たちにとっても

 将来に不安の多い時代であったといえます。

 仲間同士集まって 気を紛らわそうというのか、

 麻雀に続いて 馬込の面々が凝り始めたのは

 ダンスでした。・・・」


 の、一文に 引っかかった うちのチットが、

家にかえってから、

文士村のボス

「尾崎士郎」について

しらべはじめました。



この人、社会主義から国家社会主義に移行してるのかあ。

1933年に

都新聞に『人生劇場』を連載、ねえ。。


 1933年っていえばさ 満州事変開始の2年後で、

政財界の大物が

暗殺されまくって

軍部内閣が 成立したころだよ

・・・

そんなときに、娯楽小説で大当たり

・・・・・

これって、

一種の 処世術、なのかね??

世をしのぐ文筆ならば

アリだけど、

これが 素だったとしたら、

私、ちょっと 感心しないわ。。」


まゆ(眉)を ひそめました


 このころ、日本は、政治・けいざい(経済)・外交、すべてに

行きづまっていて

政府に

反対いけん(意見)をのべる・人たちは

つかまってしまう

息苦しい世の中

だったそうです。。

 おざき(尾崎)士郎たちは、びんぼう(貧乏)な人たちのための

「プロレタリア文学」

かいめつ(壊滅)するのを

横目に

政治抜きの文学を めざす、

「新興芸術派っていう

グループを

つくっていたらしい。。


 くらし(暮らし)をたのしみ、人々からあいされた

馬込の番長・「尾崎士郎」

と、

才のう(能)ほとばしる

ゆかいな 仲間たち


 クリンたちが 昼間・見たのは、そんな

きらめきの青春を

型抜いた、

文士村のレリーフでした。


 しかし・・、彼らの「新興芸術派」は、文学りろん(理論)

かくりつ(確立)しないまま、

けいはく(軽薄)な都会生活を

追いつづけ、

読者から 見放されたそうです。。


 また、士郎自身は、戦時中に ほかのアーティストたち

同よう、

せんそう(戦争)に 協力して

せん(戦)後は

追放される・・

という

 「この時代の文化人の宿命的道筋」をたどっている・・

って

チットが しらべて 言いました。


 「あの、楽しくて明るい散歩道のレリーフの裏に、そんな

苦悩を

感じたくないね~~


と、


自分でしらべたくせに

ボヤく、

チットでした。




(その5、「徳富蘇峰の山王草堂記念館」に、つづく)


























 





 



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大森貝塚マドレーヌ~大森散歩・3

2017-10-11 | クリン江戸散歩

 昨日、ちょっとお伝えした、「大田区のお土産100選

えらばれているという

「大森貝塚マドレーヌ」 


それは、

 大森駅から歩いて6~7分のところにある、パティスリー

「プティ・エデン(Petit Eden)」

 日々、「大森貝塚」発見者・モースの、学問的

せいしん(精神)である、

「観察と実験」

うけつぐべく(?)、

つくられています


 (上左から:かぼちゃ、抹茶・ごま、下左から黒糖、はちみつ味で、各200円)


 「かぼちゃのマドレーヌ、見て

この山吹色なんて、

まさしく

関東ローム層の色だわ

れきし(歴史)にくわしい

チットが

言いました。


 「・・なら、こっちのゴマ味は、砂まじりの土を

イメージ


・・・・・


なんという、

こうこがく・だましい(考古学魂)を

しげきする

すばらしい

おかし(菓子)


 「ねえ、ちょっと、まず地層の順に並べ替えてみない」(チット)

「う、うん。じゃあ、みどり色の『抹茶味』が いちばん上だね








(その4、「馬込文士村レリーフの明暗」につづく)








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