けんろくえん(兼六園)と香林坊(金沢の繁華街)を
つなぐ道沿いに、
レトロな
赤レンガの
2かいだて(階建)が 見えます
ここは、げんざい(現在)、「石川四高記念館」&
「石川近代文学館」
という
公共しせつ(施設)
なのですが、
かつては、金沢がほこる・ナンバースクール、石川しこう(四高)
の
校舎でした
せん(戦)前は、「旧制高校」という、エリートしか
いけない学校があり、
その中の
初めのほうにつくられた「一高~八高」
を、
「ナンバースクール」って 呼んでたそうです
ナンバースクールは
とくべつで、
そつぎょう(卒業)生は、「帝大」にすすみ、
政治家、
法りつ(律)家、
財界人、
文化人
など、
社会のトップランナーに なったそうです
めちゃ・学問をし、めちゃ・本をよんで、
むずかしい・ぎろん(議論)
を
しながら、
バンカラな青春を送る
それが、全国共通の「旧制高校生スタイル」だった
ようですが、
そこに、
ほくりく(北陸)らしい
きびしい・校風を
加味したのが、
四高でした。
「まわりがどうでも、俺たちは動じない。付和雷同なんかしない。
理想を貫く
それが俺たちの校風、
その名も『超然主義』」 みたいなかんじ。
ちょうぜんしゅぎ(超然主義)という・かっこよくも
きょうちょう(協調)性のない
校風にもとづき、
歴代四高生たちは
ちょうぜん(超然)とした事件
を
いろいろおこします
「昭和3年:同盟休校事件、昭和4年:左傾的文芸雑誌発禁事件、
昭和5年:反帝同盟を結成した20人の学生検挙、
昭和19年:右翼的校長排斥事件、
昭和20年:同校長追放事件、
昭和22年:昭和天皇来校拒否事件、
・・・」
「いやはや・・強いね~~。四高生 戦時中でもこの強さ
妥協がないね
この精神が、
桐生悠々みたいな
反骨のジャーナリストを 育んだんだね~。」
と、
うちのチットが
かんしん(感心)しました。
「大日本帝国」の明日をになう・人材を育成すべく つくられた
「旧制高校」の
学生たちは、
「われこそは!」の使命にもえて、
自己をりっし、
家を背負い、
世のそんけい(尊敬)を
うけながら、
学友たちと、とくべつな日々を ここですごした・・
にんげん(人間)形成期に ここで結ばれた・友じょう(情)
は、
ちょっとやそっとでは
うごかされない、
生がい(涯)にわたる、固いきずな(絆)となる
そして、それは、日本人同士だけじゃない。外国人でもいっしょ
国せき(籍)をも何も
とびこえる、
力づよい・れんけい(連携)である
ということを、
今回、
ある・ひとりの、「外国人・四高生」の 物語をつうじて、
クリンたち、
知るところと
なりました
そのものがたりの 主人公は、アメリカ人・四高生、
「リチャード=ニコルス=マッキノン」
って
いう男の人です。
リチャード=マッキノンは、戦前の日本で生まれ育った・
ハーフで、
父・アメリカ人
母・日本人。
お父さんの「ダニエル=ブルック=マッキノン」は、北海道の
おたる(小樽)高商で
先生をしていて、
ロバにのって・つうきん(通勤)
してたことから、
「ロバ先生」としたわれた、
おたるでは
ちょっと有名な
おやとい・外国人でした
日本での仕事を気に入り、日本人とけっこん(結婚)した
ロバ先生は、
息子リチャード
を、
アメリカの学校ではなく、金沢の四高に 入学させました。
(※欧米人ではすごくめずらしいケースです)
リチャードは、四高で りょう(寮)に入り、
サッカー部に
所ぞく(属)し、
友だちを いっぱいつくって、
りょうか(寮歌)なんか作ったりして、
日本人四高生と
同じように、
バンカラ・ライフを まんきつ(満喫)してました
・・・しかし そんな、日米のゆうわ(融和)をひきさく
ように、
太平洋せんそう(戦争)が
ぼっぱつします。
リチャードは、お父さんともども、日本のけいさつ(特別高等警察)
に
つかまりました
お父さんに、スパイようぎ(容疑)が かかったのです
お父さん・ダニエルは、はげしい・ごうもん(拷問)を
うけて
なかなか・収容所から
出てこれない
お母さんは、心労から病気がおもくなり、亡くなってしまう・・
リチャード自身も
なんきん(軟禁)され、
かんしか(監視下)におかれる・・
という、
きゅうてん(急転)直下の
仕打ちを 受けたのです
さいごは、父子ともども 「強制送還」されました。。
なのに・・・、せんそう(戦争)がおわったのち、
リチャードは
ふたたび 日本を
おとずれました。
ふたたび、日本で学び、のう(能)や狂言を 研究して、
ハーバード大学で
「博士号」を
とったのです。
そして、終生、日本文化を広める・研究者として、
せい(精)力的に
かつどう(活動)したのでした
大切な家ぞく(族)とともに、おそろしく・いやな
けいけん(経験)を
したのに、
それでも日本を
ぞうお(憎悪)せず、
そのような生き方をしたのは
なぜなのか・・?
しんこう(信仰)の力・・母の生国・・自分の故郷・・
アメリカ社会でのようせい(要請)・・
さまざまなようそ(要素)は
あったと思います。
しかし、青春時代を決定づけた、四高の仲間たちとの
きずなこそが、
リチャードから
日本人への信らい(頼)
を
うばわなかった、
大きなようそ(要素)だったんじゃないかな
って、クリンたちは、思っています。
それは、リチャードが、なんきん(軟禁)じょうたい(状態)に
おかれていた時、
サッカー部の仲間が
毎日、そのたてものの
周りを、
「頑張れ~!負けるな~!」と、走り回りながら 呼びかけた、
というエピソードや、
戦後に
リチャードが
「四高同窓会」に出席するため、
何度も
金沢をおとずれている
ということからの
すいそく(推測)です。。
うちのチットは、かつて、「小樽高商の名物教師」
だった、
お父さん・ダニエル=マッキノンの
ひさん(悲惨)な話を
きいたことがあり、
心を いためていました・・
でも 今回、「ロバ先生」に、終生日本と 深いかんけい(関係)を
もち、
金沢で青春を おうか(謳歌)していた
息子がいたんだ!
と
わかり、
だいぶ、元気になっていました
(その24、「徳田秋声の自然主義」に、つづく)