藤田まことのワンマンショーみたいな映画である。昭和23年、巣鴨拘置所に収監されていた元東海軍管区司令官・岡田資中将(藤田)は戦時中に撃墜されたB29の乗組員を不当に処刑した罪に問われていた。しかし岡田は、無差別爆撃は国際法違反であり、その実行者たちは捕虜ではなく“犯罪人”なので処罰して当然と主張。戦犯として裁こうとする検察側と真正面から対峙する。
だいたい戦犯裁判なんてのは最初から敗戦国側を勝手な理屈をくっつけて断罪するという“結果”は分かっており、いわば“茶番劇”である。そんな出来レースの中にあって、いかにして主人公は自らの筋を通したか、それがテーマとなるはずだ。そのことを描出するには公判の場面を高密度にテンション上げて描くべきだが、残念ながら本作は失格である。
とにかく裁判シーンに何の工夫も見られないのだ。淡々と検察・弁護側・被告・証人の陳述が流れるだけで演出にメリハリがなくカメラワークも凡庸極まりない。また理詰めにそれぞれの言い分を検証するシークエンスの展開も(かなり緊張感のある場面の創出が可能であったにもかかわらず)ほとんど見られない。冒頭のナレーションで戦略としての絨毯爆撃とその経緯が説明されるが、ロジカルな部分はそれで完結していて、ドラマ本編は蛇足みたいに見えるのは辛い。
ならば何があるのかというと、冒頭に書いたような藤田まことの“一人舞台”である。カメラは延々と彼の振る舞いを追うのみ。それでいて彼が何か面白いことをしてくれるわけでもない。始終深刻な顔をして、事件の責任と国の威信とを一手に引き受けたような気負いだけが伝わってくる。公判の場面以外では、仏教信徒らしく経を唱えたりするが、これがまた取って付けたような珍妙さだ。
脇には富司純子とか西村雅彦、蒼井優、田中好子といった芸達者が控えているのだが、驚くほど印象が薄い。彼らにいつも通りの演技さえさせていないのだ。出番が多いロバート・レッサー扮する弁護士にしても、単に“理解のあるアメリカ人”としか捉えられていない。かつての交戦相手国の関係者をフォローするという微妙な屈託を少しでも挿入したらドラマに奥行きが出たと思うが、それも皆無。要するに藤田の“ええかっこしい”のポーズのために作られた映画だ。
小泉堯史の演出にもいつもの深さはなく、製作スタンスとしては「はぐれ刑事・純情派」などのテレビドラマとほとんど変わらないと言って良い。キャストで唯一印象に残ったのは、検事役のフレッド・マックイーンだ。一瞬スティーヴが生き返ったのではないかと思ってしまったほど、偉大な父親と瓜二つで驚いた(爆)。