2003年作品。みうらじゅんの自伝的コミックを俳優の田口トモロヲが初監督。ただし脚本が宮藤官九郎なので、鑑賞前はあまり期待は出来ないとは思ったが、実際観てみるとこれが予想以上の低空飛行(爆)。つくづく感じるのだが、宮藤は映画の世界にはまったく合っていない。演劇界に閉じこもっていて欲しいものだ。
バンドブームが席巻した頃にメジャーデビューしたもののブームが去って一発屋で終わりそうなグループを追う本作は、現在撮られる意味を見出せないほど作りもテーマも古臭い。
峯田和伸扮する主人公のギタリストは“自分がやりたいのはハヤリの音楽ではない。もっと個性を出したい”と主張するが、プロダクションの社長やファンはヒット性のあるものを求めており、そのギャップに彼は悩む。映画はその顛末を切々と描くが、こういう図式に対する回答は昔から決まっているのだ。
つまり“表現者として自分の好きなことをしたいのなら、まずはメジャーになれ”ということ。この意味で、とにかく売れ筋のセンを要求するプロダクション側の姿勢は正しい。ポッと出の新米が独りよがりの“個性”を出してきても周りは認めない。正直言って、こんな基本的なことを思いあぐねている主人公は“幼稚”以外の何物でもないだろう。
そして彼が“真にやりたいと思っている音楽”とはどういうものかというと、70年代の四畳半フォークに毛が生えたような低調なシロモノなのだから失笑してしまう。そんな彼の思い入れを正当化するかのごとくボブ・ディランの“生き霊もどき”が画面を徘徊するに至っては、呆れるのを通り越してうすら寒くなってくる。
麻生久美子演じるガールフレンドとの関係も70年代ドラマの焼き直しのようで気恥ずかしいばかり。こういうレトロな部分を“ネタ”として扱えばまだ救われたが、本気でやろうとしているのだから観ている側は“引く”しかない。中村獅童や大森南朋の好演も無駄に終わっている。
バンドブームが席巻した頃にメジャーデビューしたもののブームが去って一発屋で終わりそうなグループを追う本作は、現在撮られる意味を見出せないほど作りもテーマも古臭い。
峯田和伸扮する主人公のギタリストは“自分がやりたいのはハヤリの音楽ではない。もっと個性を出したい”と主張するが、プロダクションの社長やファンはヒット性のあるものを求めており、そのギャップに彼は悩む。映画はその顛末を切々と描くが、こういう図式に対する回答は昔から決まっているのだ。
つまり“表現者として自分の好きなことをしたいのなら、まずはメジャーになれ”ということ。この意味で、とにかく売れ筋のセンを要求するプロダクション側の姿勢は正しい。ポッと出の新米が独りよがりの“個性”を出してきても周りは認めない。正直言って、こんな基本的なことを思いあぐねている主人公は“幼稚”以外の何物でもないだろう。
そして彼が“真にやりたいと思っている音楽”とはどういうものかというと、70年代の四畳半フォークに毛が生えたような低調なシロモノなのだから失笑してしまう。そんな彼の思い入れを正当化するかのごとくボブ・ディランの“生き霊もどき”が画面を徘徊するに至っては、呆れるのを通り越してうすら寒くなってくる。
麻生久美子演じるガールフレンドとの関係も70年代ドラマの焼き直しのようで気恥ずかしいばかり。こういうレトロな部分を“ネタ”として扱えばまだ救われたが、本気でやろうとしているのだから観ている側は“引く”しかない。中村獅童や大森南朋の好演も無駄に終わっている。



