(原題:A River Runs Through It )92年作品。1912年、モンタナ州ミズーラの町、豊かな自然に恵まれたこの土地で生まれ育ったノーマン(クレイグ・シェーファー)とポール(ブラッド・ピット)の兄弟をめぐる人間ドラマ。ロバート・レッドフォードの監督第3作で、公開当時の評判はかなりのものだった。
やはりレッドフォードは筋金入りのナチュラリストだ。最近のアメリカ製娯楽映画の対極にある、派手な演出でカネかけて云々、とは無縁の映画づくり。あくまでも淡々と、主人公の兄弟とそれを取り巻く家族や友人を描く。
ごくまっとうな道を歩むノーマンに対し、弟ポールの生き方は破天荒だ。地元の新聞社に就職するが、いつも酒びたり。悪い仲間と喧嘩やバクチに明け暮れ、恋人がインディアンであることから、封建的な土地の者を敵に回すことになる。そしてノーマンの恋人(エミリー・ロイド)の兄と対立したり、兄弟で危険な川下りをやったり、といった起伏のあるエピソードを盛り込んでいるにもかかわらず、印象は実に静かだ。しかし、退屈しない。
そして何といってもフライフィッシングの場面の素晴らしさ。生ける物のごとく水面を飛翔する釣り糸、竿の振りの躍動感、川面に踊る鱒、これほど釣りのシーンを美しく撮った映画を私は知らない。アカデミー撮影賞受賞のフィリップ・ルースロのカメラ、マーク・アイシャムの音楽、映画の醍醐味を伝えてくれる映像美だ。
しかし、水準以上の作品であることは認めながら、諸手を挙げて絶賛してしまうほど私は人間が素直ではない(爆)。観た後の印象が意外と薄いのは、すべてがきれいごとに流されてしまっている感じがやや強いからだ。
釣りをはじめ、あらゆる点に秀でていながら、問題児として数奇な運命をたどる弟ポールのキャラクターがいま一歩不鮮明。このへんを突っ込むと、人道主義者&理想主義者のレッドフォードの作風とドラマが合わなくなり、ぎこちない失敗作に終わったことは明白だろうが、それでもあえて指摘したい。
だいたいこのドラマ、本当の問題児はポールだけで、周囲の者は“いい人”にとどまっているのが不満だ。古き良きアメリカ、懐かしい中西部の風景、それは結構だが、そこにプラスアルファのトンがった主張を見い出したいのだ。
映画の終盤で年老いたノーマンが、かつての川で釣りをするシーンが映し出される。人生のすべてを悟ったようなモノローグが印象的だが、これは原作(主人公ノーマン・マクリーンの自伝でもある)の手柄であって映画のそれではない。かなりの線に達しながら、結局アカデミー賞の主要部門ノミネートにはもれてしまった原因が分かるような気がする。
レッドフォードの監督作では、ウェルメイドに徹した今回の映画よりも、多少ドラマが破綻しても自己の主張を貫こうとしたデビュー作「普通の人々」(80年)の方がピンときたりする。それにしてもこの公開名はどうにかならなかったのか。原題をカタカナ表記するだけでは芸がない。もっとセンスの良い邦題を付けるべきだった。