まず、本職の声優を起用しないのは明らかにマイナスだ。もちろん、声優以外の者が担当したとしても、演技指導が上手ければ文句はない。実際、普通の俳優が声をアテて成功した例はいくらでもある。しかし、この映画はヒドい。志田未来や神木隆之介は、抑揚に乏しい淡白なパフォーマンスに終始。大竹しのぶや竹下景子、藤原竜也といったベテランも精彩を欠く。結果として、各キャラクターにまったく血が通わなくなってしまった。
そもそも、本作における登場人物の造型は底が浅い。主人公の小人の少女アリエッティは、身体の大きさを除けば単なる“好奇心が強い思春期の女の子”でしかなく、何か特別に観る側にアピールしてくるものはない。彼女と仲良くなる中学生の翔は、病弱で大人しいという外見上の特徴こそ与えられているが、描かれるべき強い個性もポリシーも持ち合わせていない。言うなれば“退屈な男の子”である。
アリエッティの両親や翔の祖母、お手伝いさんといった脇のキャラクターにしても、ただの記号としての存在価値しかなく、内面描写は皆無に近い。これが(いい意味での)ケレンを持ったプロの声優が“出演”していたら、何とか作劇にメリハリを付けることが出来たと思うが、声をアテているのが素人同然なので、一本調子のカラーが最後まで拭えない。
ならばストーリーはどうかといえば、これもほとんど山も谷もなければ見せ場もない。微温的な展開が漫然と続いた後、いつの間にかエンドロールだ。ドラマが動く点といえばアリエッティの母親がいなくなるエピソードぐらいだが、この程度では盛り上がりに欠ける。小人たちの暮らしぶりこそ興味をそそられるが、それだけで上映時間を保たせられると思ったら大間違いだ。
それでも、ここ10年間の他のスタジオジブリの作品群と比べたら“マシな部類”だと思う。もっともそれは宮崎駿の近作には不快感を覚えるのに対し、本作は“ただの凡作”のレベルに留まっているに過ぎないからだ。この映画の監督はこれがデビュー作となる米林宏昌だが、もしも宮崎自身が演出していたらもっと出来映えは悪かったかもしれない。
繰り返すが、普通の俳優やタレントに声をアテさせて失敗するぐらいならば、最初からプロの声優を起用すべきだ。宮崎作品の主要キャラにアニメーションの声優が使われなくなったのは「紅の豚」からだが、奇しくも作品の質が低下し始めたのはそれを境にしている。もはやスタジオジブリは作品の質を保証するブランドではなく、単なる客寄せのキャッチフレーズと化してしまったようだ。