元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「レナードの朝」

2008-03-14 06:29:37 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Awakenings)90年作品。舞台は1969年夏、ニューヨーク・サウスブロンクスの神経科病院。そこに30年以上も眠ったままの状態にいる重度の障害者レナード(ロバート・デニーロ)がいた。それが新しく赴任してきた医師セイヤーの献身的研究の結果、レナードは長い眠りから覚めることになる。その年の米アカデミー賞の作品賞候補にまでなった作品(実話に基づいている)。監督は女流のペニー・マーシャル。

 公開当時は評判になった映画だけあって、なるほど見応えがある。すでに医者から見放されていた患者たちを、根気強く診察する主人公を描く前半部分。“息子が目覚めたところでこの世にいったい何があるんですか”と言うレナードの母親に対するセイヤーのセリフ、“あなたがいるじゃないですか”。夜中に30年間の眠りから覚めたレナードの最初の言葉、“とても静かだ”。そのセリフの通り、世界中が寝静まったかのような夜明け前の厳粛な静寂。好きになった女の子に、再び病状が悪化したレナードが別れを告げようとする。と、彼女は突然レナードの手をとってダンスのステップを踏み始める。というように、素敵なセリフと演出が随所に散りばめられている。

 しかしながら、“上手な映画”であることは認めるものの“心の底から感動する映画”になっていないことも事実だ。演出と脚本の突っ込みが甘いと感じる部分が多々ある。

 まずレナードが30年ぶりに街を歩くシーン。ゾンビーズの「ふたりのシーズン」をバックに、何とか時代色をつけてレナードのカルチャー・ショックを表現しようとしているが、これが音楽と映像がまったく合っていないばかりか、どこかわざとらしい雰囲気で興ざめしてしまう。それにこの部分はストーリー上で最も盛り上がってしかるべきにもかかわらず、イマイチな感じがするのは意外に淡泊な演出のせいだと思う。

 ペニー・マーシャルといえば、その前の作品「ビッグ」で同じように子供の心を持つ大人を描いて楽しい雰囲気の映画に仕上げていたが、前作並みとは言わないまでも、もう少し画面をはずませてほしかった。

 最も違和感を覚えたのは、レナードの病気が再発した後半から終盤にかけての展開である。病院側の姿勢を凄い形相で非難するレナード。あれだけセイヤーに感謝していたレナードが急にこういう行動に出るとは、まったく唐突で納得できない。単なる薬の副作用かとも思ってしまう。何やらバタバタとした展開になり、ついには“眠っているのはわたしたちだ”と叫ぶセイヤー。これはおそらく、眠っている病人より、患者の、ないしは他人の心を思いやらない我々は人間性に目覚めていない、というテーマを表現したものだと思うが、こういうことはセリフで言ってはいけない。映像で、演出で語らなくては。セイヤーを演じるロビン・ウィリアムズは「いまを生きる」でもそうだったが、露骨に主題を口にして観客を鼻白ませる役が好きなようだ。

 まあ、いろいろ書いたが、デニーロの熱演もあるし、観て決して損はしない映画であると思う。言い忘れたが、ミロスラフ・オンドリツェクの撮影、ランディ・ニューマンの音楽、いずれも確かな仕事ぶりだ。
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「明日への遺言」

2008-03-13 06:34:07 | 映画の感想(あ行)

 藤田まことのワンマンショーみたいな映画である。昭和23年、巣鴨拘置所に収監されていた元東海軍管区司令官・岡田資中将(藤田)は戦時中に撃墜されたB29の乗組員を不当に処刑した罪に問われていた。しかし岡田は、無差別爆撃は国際法違反であり、その実行者たちは捕虜ではなく“犯罪人”なので処罰して当然と主張。戦犯として裁こうとする検察側と真正面から対峙する。

 だいたい戦犯裁判なんてのは最初から敗戦国側を勝手な理屈をくっつけて断罪するという“結果”は分かっており、いわば“茶番劇”である。そんな出来レースの中にあって、いかにして主人公は自らの筋を通したか、それがテーマとなるはずだ。そのことを描出するには公判の場面を高密度にテンション上げて描くべきだが、残念ながら本作は失格である。

 とにかく裁判シーンに何の工夫も見られないのだ。淡々と検察・弁護側・被告・証人の陳述が流れるだけで演出にメリハリがなくカメラワークも凡庸極まりない。また理詰めにそれぞれの言い分を検証するシークエンスの展開も(かなり緊張感のある場面の創出が可能であったにもかかわらず)ほとんど見られない。冒頭のナレーションで戦略としての絨毯爆撃とその経緯が説明されるが、ロジカルな部分はそれで完結していて、ドラマ本編は蛇足みたいに見えるのは辛い。

 ならば何があるのかというと、冒頭に書いたような藤田まことの“一人舞台”である。カメラは延々と彼の振る舞いを追うのみ。それでいて彼が何か面白いことをしてくれるわけでもない。始終深刻な顔をして、事件の責任と国の威信とを一手に引き受けたような気負いだけが伝わってくる。公判の場面以外では、仏教信徒らしく経を唱えたりするが、これがまた取って付けたような珍妙さだ。

 脇には富司純子とか西村雅彦、蒼井優、田中好子といった芸達者が控えているのだが、驚くほど印象が薄い。彼らにいつも通りの演技さえさせていないのだ。出番が多いロバート・レッサー扮する弁護士にしても、単に“理解のあるアメリカ人”としか捉えられていない。かつての交戦相手国の関係者をフォローするという微妙な屈託を少しでも挿入したらドラマに奥行きが出たと思うが、それも皆無。要するに藤田の“ええかっこしい”のポーズのために作られた映画だ。

 小泉堯史の演出にもいつもの深さはなく、製作スタンスとしては「はぐれ刑事・純情派」などのテレビドラマとほとんど変わらないと言って良い。キャストで唯一印象に残ったのは、検事役のフレッド・マックイーンだ。一瞬スティーヴが生き返ったのではないかと思ってしまったほど、偉大な父親と瓜二つで驚いた(爆)。
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「ジェロニモ」

2008-03-12 06:37:44 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Geronimo)94年作品。通算17本目のジェロニモ映画らしい。脚本ジョン・ミリアス、監督ウォルター・ヒルという顔ぶれから見てヴァイオレンス満載のアクション西部劇だと思ったら全然違った。

 映画はいきなり1885年のジェロニモ投降のシーンから始まる。インディアン居留地域に移送されるアパッチだが、そこは痩せた土地で作物もとれない。怒ったジェロニモは仲間と共に反乱を起こし、メキシコへ逃げ込むが、1年後に説得に応じて降伏している。この史実を意外なほど淡々と描いている。

 物語は若い将校デイヴィスの一人称で綴られ、インディアンに共感を持つ中尉(ジェイソン・パトリック)や歴戦の勇者で軍の調達係の男(ロバート・デュヴァル)、インディアン側からも畏怖される騎兵隊の司令官(ジーン・ハックマン)などが手際よく描かれる。

 特筆されるのはジェロニモを演じるウェス・ステュディの存在感で、実はアパッチ族出身ではないらしいが、たぶんジェロニモはこういう人だったのだろうと納得させるだけの貫禄、特に追手の首領の水筒を遠くからライフルで打ち抜き、“本当は頭を狙った”などとウソぶくあたりは、豪快なユーモアも感じたりして出色だ。ライ・クーダーによるスケールの大きい音楽(アカデミー音響賞の候補にもなった)、茶系のフィルターを通したと思われる西部の荒涼とした、しかし美しい風景をとらえた映像も捨て難い。

 だが、残念ながらこの映画、あまり面白くない。歴史の勉強にはいいだろう。史実を正直に追っている。しかし視点がハッキリしない。インディアンへの挽歌なのか、白人同士の葛藤なのか、対インディアン政策への批判etc.たぶんそのすべてを狙ったのだろうが、すべてに中途半端。白人側のキャラクターの弱さは致命的で、けっこう豪華なキャスティングがもったいない。題材に遠慮したのかもしれないが。

 ヒル監督得意の夜間シーンがないのも不満。それでも暗い酒場で悪い奴らをアッという間に片ずける場面など、数少ないアクション・シーンは盛り上げてくれる。これぞ西部劇の醍醐味。この調子で娯楽性たっぷりに全篇走ってもらいたかったが・・・・。
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「迷子の警察音楽隊」

2008-03-11 06:38:45 | 映画の感想(ま行)

 (英題:The Band's Visit)ネタは悪くないのだが、映画自体は全然弾まない。残念な作品だ。90年代の前半、イスラエルに招かれたエジプトの警察音楽隊が、手違いのため目的地とよく似た地名の街に行き着いてしまい、そこで一泊することになり(ホテルはないので、一般の人家にお世話になる)、本作はその一夜の出来事を描く。

 カルチャー・ギャップにまつわるギャグを散りばめ、最後には“音楽は国境を越える!”とばかりにシュプレヒコールをブチ挙げた作品に仕上げることも出来たはずだが、ハリウッド製娯楽映画じゃあるまいし、こちらはそこまで期待はしない。しかし、この地味すぎる展開は、製作意図すら疑ってしまう。

 そもそも、どうして彼らはイスラエルにやって来たのか。新しくオープンする記念館のセレモニーで演奏するためだという説明はある。だが、なぜ彼らでなければならないのか。誇り高きベテラン楽団長や、女と見るとスグ口説く二枚目といったタレントはいるものの、それだけでは作劇上の興趣は不足だ。もっと“スクリーン映え”するキャラクターを集めるべきではなかったか。だいたいこれでは彼らが音楽隊である必然性はない。普通の団体客でも良かったのではないか。

 気になったのは、現地住民たちの死んだような生活ぶりだ。沙漠の中に忽然と建つ集合住宅。外見は近代的だが、建ってからかなりの年月が経つと見えてあちこちに老朽化が垣間見える。しかも、当地には夕方までしかバスの便がないのだ。うら寂しいローラースケート場で刹那的な時間を過ごす彼らは、世の中から見捨てられていると思われても仕方がない。

 これはひょっとしてイスラエルの国内問題とリンクしているのかもしれない。たとえば、行き過ぎた開発の末にメンテナンスに手が回らない住宅地が多数放置され、そこの住民と都市部との格差が顕著になっているとか何とか・・・・。しかし、映画はそこまで説明しない。それどころか暗示的なシークエンスも挿入しない。おそらくは海外で公開されることを前提としていないため、作者(監督と脚本はエラン・コリリン)はドメスティックな事柄への言及を端折ったのだろう。しかし、それでは観る側としては不満が募る。

 登場人物の中では音楽隊の世話をするレストランの女主人が印象的。小股の切れ上がったイイ女だが、男運も職業運もない。寂しさを音楽隊連中に対して発散しようとして・・・・結局はそれも不完全燃焼に終わる。ただし、演じる女優の頑張りもあり存在感は感じられるが、それがどうして相手が音楽隊なのか・・・・といった当初の疑問点に戻ってしまうのが何とも虚しい。評価し辛いシャシンではある。
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「哀戀花火」

2008-03-10 20:13:47 | 映画の感想(あ行)
 (原題:炮打雙橙)93年中国=香港合作。おそらく19世紀の中国北部。何代にもわたって爆竹の製造販売を営んでいた蔡家はその地方屈指の大富豪。一人娘・春枝は両親が早く死んでしまったため若くして家を継ぎ、皆から“大旦那”と呼ばれていた。豊かだが格式に縛られている彼女の前に、ある日絵師・牛宝が現れる。彼の自由な生き方に魅かれる春枝。牛宝も美しい彼女に一目惚れしてしまう。だが、番頭の満をはじめ蔡家の者たちは由緒ある家柄をそんな風来坊に汚されちゃたまらないと、牛宝を攻撃し始める。監督は「双旗鎮刀客」(90年)で知られる何平(ハー・ピン)。

 左右対象の構図を中心としたスタイリッシュな映像、洗練された色彩、古い慣習に翻弄されるヒロインetc.といった要素は「紅いコーリャン」「紅夢」などの張藝謀作品と共通する部分である。しかし、張藝謀や陳凱歌ら“中国第五世代”よりさらに若い何平は芸術的完成度の高さに対する色気は微塵も見せない。徹底したエンタテインメント指向で観客を楽しませることに腐心する。しかも、謝晋のような大芝居浪花節(?)とも無縁で、タッチはあくまでドライで展開のテンポも速い。

 “家を守り別姓にするな”という先代の遺言を守るため、牛宝を追い出す蔡家の使用人たちだが、春枝が女として生きていくと言い出すに至り、非常手段に訴える。それは春枝の花婿の座をかけて、満番頭と牛宝の命がけの“爆竹勝負”で決着をつけることであった。

 題名に“花火”とあるが、爆竹屋の話なので、期待していた豪華絢爛たる花火の乱舞は見られない。その代わり、この“爆竹勝負”は香港映画にも通じる人権無視の荒技の連続だ。頭に載せて爆発させるかと思うと、口にくわえて(!)爆発させたり、ヘタすりゃマジにあの世行きのシーンはもちろん吹き替えなしである。

 意外な結末にも唖然となるが、ヒロイン・春枝を演じる寧靜(ニン・チン)の美しさが印象に残る。家のしきたりでほとんど男の衣装に身を包んでいるが、これがゾクゾクするようなエロティシズムを発散。うーむ、やはりアジアの女優はいい(^^)。
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「カフカ 田舎医者」

2008-03-09 06:51:31 | 映画の感想(か行)

 同時に観た「頭山」よりも映像のキレ具合は上を行く。山村浩二監督はアニメーションの鬼才と呼ぶにふさわしい。フランツ・カフカによる原作は未読だが、ストーリー展開は不自然ながら、言い知れぬ不安と孤立感とが充満する雰囲気を味あわせてくれたのは、カフカの世界の一端を掴み取った作者の功績かと思われる。

 雪の夜、年老いた田舎医者は急患の知らせを受けるが、交通手段がないので逡巡するばかり。そこに現れた馬子が馬車を提供するが、医者を乗せた馬車が走り出した途端に馬子は医者の娘に襲いかかる。彼はそれを遠ざかる馬車の上から見つめるしかない。やがて患者宅に到着するものの、大怪我をした少年は助かる見込みはなく、医者は無力感に苛まれたまま一夜を過ごす。

 義務感を奮い立たせて医者のつとめを果たそうとするが、それをあざ笑うかのように状況は過酷さを増すばかり。こうした隔靴掻痒な不条理感をジリジリ出しているところがカフカならではのテイストなのだろうが、映像処理がそれを無限大に増幅している。

 全編手書きの作画だが、遠近法を完全に無視しているのをはじめ、デフォルメされたデザインのキャラクターを唐突に拡大化あるいは縮小させる等、登場人物の心象を大胆に表現するべく腐心する。これを素人がやると“奇を衒った小手先のテクニック”に堕してしまうところだが、山村は計算されつくした画面造型と絶妙のタイミングで観客の目を奪う。特に患者宅の中と屋外とがシンクロし、空間が歪んだような異次元世界が現出してくるあたりは圧巻だ。

 声を主に担当するのが人間国宝・茂山千作をはじめとする狂言の茂山一門である。「頭山」に続き、またしても古典芸能への大胆なオマージュであるが、主人公の“心の中の声”が擬人化され、それも一人ではなく二人も背後霊の如く田舎医者に寄り添って、それらが狂言のセリフ回しよろしく立ち振る舞うのを目撃するに及んでは、思わず拍手を送りたくなった。

 声優初挑戦の紅一点の金原ひとみ(当然、芥川賞受賞のあの若手作家だ)の意外に可愛い声にびっくりすると共に、オンド・マルトノなる珍しい電波楽器をフィーチャーした音楽にも強い印象を受ける。2007年のオタワ国際アニメーション映画祭でグランプリ(日本人では初めて)に輝いた秀作で、観る価値は十分にある。
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「頭山」

2008-03-08 06:46:58 | 映画の感想(あ行)

 わずか10分間の短編ながら、山村浩二というアニメーション作家の端倪すべからざる才能を如実に示す一編である。古典落語の「あたま山」の映像化だが、この元ネタ自体が一筋縄ではいかないシュールなものだ。

 拾ったサクランボを食べていたケチな男が、タネを捨てるのがもったいなくて飲み込んでしまったところ、頭のてっぺんに桜の木が生えてきて、やがてそこに花見客が押し寄せてくる。怒った男は桜の木を引っこ抜くが、今度は跡に出来た穴に水が溜まって池になり、そこで釣りやダイビングを楽しむ者が後を絶たなくなる。ついにはノイローゼになった男は自分の頭の上に出来た池に身を投げて死んでしまう・・・・というもの。

 落語というものはギャグの連続の合間に人情味とか滑稽味とかペーソスとかを盛り込んだ奥行きの深さを楽しむのが普通だと思っているが、これは普遍的なユーモアを徹底して拒否する奇想の表出そのものだ。この話を考え付いた者はキ○ガイと紙一重の天才だと思う(徒然草の中の「堀池の僧正」がベースになっているという説もあるらしいが)。

 さて、落語ではどんなにブッ飛んだストーリーでも落語家の実力により“そのネタの中での既成事実”になってしまい、それで聴衆は納得してしまうのだが、映画化するとなると簡単にはいかない。何しろ自分の頭にある池に向かって自分自身がダイヴしてしまうのだ。これをどう料理するか・・・・と思っていたら、なるほど実に巧妙な画面処理が施されている。これなら違和感がない。他にも花見客の脱げた靴が男が食べているラーメンの中に飛び込んでしまうという常軌を逸したシークエンスがあるが、このあたりの手際も鮮やかだ。

 全編手書き風の作画である点が実に効果的で、これならば絵を構成する線を自由自在に操ることによって、映像空間をいくらでも広げることが出来るし、別の世界にワープさせることも可能だ。とはいってもそれを誰からも文句が出ないようにやり遂げるのは至難の業なのだが、それをクリアできるだけの実力・・・・というか映像スペースの把握能力みたいなものを山本は身につけていると思う。

 国本武春による浪曲をナレーション代わりにしているあたりも絶妙の効果。2003年アヌシー国際アニメーション映画祭でのグランプリをはじめ数々の賞を獲得。第75回米アカデミー賞短編アニメーション部門の候補にもなった快作だ。
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「Undo(アンドゥ)」

2008-03-07 06:35:46 | 映画の感想(英数)
 94年作品。作家の由起夫(豊川悦司)は“強迫性緊縛症”という精神病にかかった妻の萌美(山口智子)を回復させようと努力するが症状は悪化する一方。最初はペットの亀や厚い本を縛っていた彼女だが、やがて部屋中のあらゆるもの、形のないものまで紐で縛り始めた。精神科医(田口トモロヲ)のアドバイスにより、ある夜由起夫は彼女を壁に縛り付ける。しかしそれは二人の関係を終わりへと導くことでもあった。

 岩井俊二が「Love Letter」の前に撮った47分の中編。監督が山口を起用したフォト・ショートストーリーを元にしている。

 いかにも映画青年が頭の中だけで作ったような筋書き、素人が自己陶酔しているような画面の構成、思わせぶりなモノローグetc.“フッ、青臭いぜ”と一言で片付けたくなる要素が目につくシャシンながら、これを力技で観る者の内面に食い込むようなスルドイ作品に仕上げてしまう岩井監督はやはりタダ者ではない。正直言って“二人の間の何を縛るのか、何が縛られるのか”などといった観念的テーマには興味ない。結果としてその主題を思い浮かべることになっても、まず圧倒的な存在感で差し出されるのは演技と映像である。

 諦念と自虐に満ちた透徹した表情は“豊川ってこんな俳優だったっけ”と思わせるほど観る者に迫ってくる。そして素晴らしいのは山口だ。見開いた目は何も見ておらず、“完全にイッてしまっている”表情は、本当におかしいのではないかと思わずたじろいでしまう。二人の関係がどうなったのかは知らないが、これほどになるにはかなり切迫したものがあったと確信するほどの熱演だ。

 映像のキレ具合はかなりのもの。縛られた山口の、芸術的オブジェを思わせる造形の見事さ。完璧な構図。的確なライティング。ざらざらとした質感のフィルム処理も相まって、異次元と化したマンションの一室が登場人物の暗い深層心理を具現化し、ヒリヒリするぐらい迫ってくる。REMEDIOSの音楽もいい。
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「君のためなら千回でも」

2008-03-06 06:36:15 | 映画の感想(か行)

 (英題:The Kite Runner)「チョコレート」などのマーク・フォースター監督作品なので期待したが、どうにも感心できない内容でガッカリした。ソ連によるアフガニスタン侵攻の1年前の78年からタリバン支配下の2000年までを背景に、二人の少年と成長した彼らの姿を描く本作、一番の敗因は主人公アミールのキャラクター設定を間違えたこと。

 彼はハザラ人の召使の息子のハッサンと“友人関係”を築いているように見えるのだが、実は完全に見下している。ハッサンがイジメっ子から暴行を受けても助けに行かない。さらにはハッサンに盗みの濡れ衣を着せて追い出そうとする。どうにも嫌な奴なのだ。

 世情が不安になると主人公は父親と共にとっとと亡命するが、ハッサンは現地に留まり、そして不運な目に遭う。偏狭な臆病者のアミールはアメリカに渡り、それなりに移民としての辛酸は味わうが、大人になると取り敢えずは生活基盤を作りライターとしても期待されるようになる。だが、彼には故郷と友人を捨てたことに対する反省も何もない。

 そんな彼がハッサンの息子が窮地に陥っていることを知り、いっぱしのヒーロー気取りでアフガニスタンに舞い戻り、タリバンの連中と大立ち回りを演じるのだから呆れる(御丁寧にもかつてのイジメっ子がタリバンの幹部になっていたという、これ見よがしな設定も用意される)。しかも、相手の気持ちも確認せず“アフガンは危ないから”と一人合点してハッサンの息子をアメリカに連れて行こうとするのだから、この独善ぶりには閉口するしかない。まさに自己満足そのものではないか。

 そもそもソ連に対抗させるためにタリバンをバックアップしたのはアメリカだ。そして後年アメリカは手のひらを返したようにタリバン政権下のアフガンをテロリストの温床と決めつけ、出兵して制圧したのは誰でも知っている。そういうシビアな国際情勢について何も触れず、とにかくアメリカに逃げれば何とかなるという脳天気な認識を全面展開させているあたり、本作の送り手には“題材に対する深い考察”というものには無縁であったと断定せざるを得ない。

 唯一の見所がカブールの街で大々的に行われる凧揚げ大会の場面だ。相手の凧糸を切るため、まるで空中戦のようなバトルを繰り広げるのだが、画面いっぱいに凧が乱舞し、それらがスピード感たっぷりに動き回るのはなかなかのスペクタクルである。カメラワークとSFX処理も申し分ない。逆に言えば、冒頭近くに展開されるこのシークエンスさえ見れば、その後途中で席を立っても何ら問題ない映画だとも言えよう。
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「デイズ・オブ・サンダー」

2008-03-05 06:44:37 | 映画の感想(た行)
 (原題:Days of Thunder )90年作品。監督がトニー・スコット、主演がトム・クルーズ、といえば「トップガン」を思いだすが、この「デイズ・オブ・サンダー」はそのコンビの2作目である。題材がストックカー・レースであることから、「トップガン」のジェット戦闘機の空中戦がカーレースに変わっただけの映画ではないか、と誰でも一瞬思う。しかし、よく考えてみたら、いくら能天気のトニー・スコット監督でも、飛行機がクルマに変わっただけ、などという単純なドラマは作るわけがない、もうちょっとワザを見せて、違ったアプローチでいくはずだ、と思い直す。・・・・だが、この監督の能天気はハンパなものじゃなかった。彼は見事にここに「トップガンのカーレース版」を作りあげてしまった。

 トム・クルーズ演じる一匹狼のカーレーサーが、どんどんのし上がっていって、最後にはデイトナ500マイル・レースで活躍する。もちろんその過程には、ライバルとの葛藤もあり、保護者みたいなベテランのレース関係者もいる。さらにはロマンスもある、といったぐあいで、何から何まで「トップガン」の二番煎じ。もう、脱帽ものだ。

 主人公の過去がどうの、レースの哲学がどうの、といった難しいことはいっさい言いっこなし。いかにしてカッコイイ映像を撮るか、ということに全力をそそいでいる。それが効を奏して、レースの場面はすっごい迫力だ。加えてサウンド・デザインも上手くいっており、これは絶対テレビ画面で見てはいけない映画だ。観たあとはみごとに何も残らないシャシンで、私としては当時としてはタカ派路線が鼻についた「トップガン」より、こっちの方が好きだ。
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