福島県福島市在住@チエちゃんです
2006年にgooブログを始めた私は、ネタ切れとコメント返信疲れを起こして、5カ月ほどブログを休止していました。
しかし、10年前のあの日から7日目にこのブログを再開しました。
書かずにはいられなかった。
身体は疲れているのに、神経がピンと張りつめ眠れぬ夜を過ごす私にとって、ここに書くことが精神安定剤でした。
その時書いた記事は「大地震」のカテゴリーにありますので、興味のある方はどうぞご覧ください。
今日、私は地震発生から7日間の件を読み返してみました。
あの日私は、経験したことのない大きな揺れのさなか、この地震は果たして収まるのか? まさか、日本沈没?(「日本沈没」とは1973年に大ヒットした小松左京原作のパニック映画)そんなことを考えていました。
本当に、この世の終わりかと思うほどの長い地震でした。
そしてさらに、津波は恐ろしいとは聞いていましたが、あれほどの凄まじい威力ですべてを飲み込んでしまうとは、私の想像を遥かに超えるものでした。
内陸部に住んでいる私は幸いにも体験せずに済んだのですが、実際の津波を体験・目撃した人の恐怖は如何ばかりかと思います。
これだけ科学が発達しても、大自然の力には到底抗えないと感じたことでした。
しかし、現在の私には2011年の3.11が過去のものとなってしまいました。あの時、絶対に忘れないようにしようと誓ったことが、遠くになりつつあるのです。
それは仕方のないことなのかもしれません。
辛い思いを抱えながらも、私たちは未来に向かって進まなければなりません。
まだ復興していないと感じている人は多いと思います。
「復興」が震災以前のレベルに戻すという意味なら、私はもう復興しなくても良いのではないかと思っています。新しい未来を描いて、それに向かっていくことの方が大切なのではないかと。
震災で親族を失ったわけでも、家屋が損壊したわけでもない私が言うべきことではないのかもしれませんが。
東日本大震災で犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
【写真は、以前仮設住宅があった場所。今は、ご覧の通りの空き地になっています】
あまりに長く続く強い揺れで、この世の終わりが来たか?
このまま家が潰れて死ぬのかな?って思ったっけな~
あの時、やっぱり死を連想しましたか
私も、放射能で死ぬのかな?と思っていました。
ズズーン 腹に響くような鳴動 キャーっ 店内から悲鳴
連れが わたしの腕を引っ張り テーブルの下へ
この世の終わりかと思われました。
家に帰って すぐパソコンに向かい やられた!
と ブログを書き始めました。
忘れもしない3/15 関東を放射能ブルームが襲いました。
近くの工場の放射線の警報器が鳴り響きました。
その時は知らなかった。
親類の安否を訪ね福島飯館村に行きました。
手持ちのガイガーカウンターは鳴りっぱなし
その後7月 南三陸を訪ねて 津波被害にあった方のお話
を聴いた……
でも なにより 心を打ったのは 山の2合目あたり
斜めになった 赤い鳥居 ちょうど 潮が寄せて
緑色の木々が 枯れて茶色になった境目に まるで
手を広げて 守ろうとするかのように立っていた。
新聞で土木業界で調べてところ
沿岸の神社で同じような事が起きていたと読みました。
先人は 津波がここまで来ることを知っていたのだろうか
かってない1000年に一度という 地震がくると
予知していたのだろうか いいえ そうとはわたしには
思えないのです。昔からその地を守っていた日本の神さまが
ここまでだよと止めてくださったような気がするのです。
ボランティアで 何度か 福島を訪ねました。
山で町で道路で ガイガーカウンターは鳴り続けた
うつくしい村でした なだらかなやさしい山に守られた…
山の幸に恵まれた…
でも うしなわれてしまった。 ダレが?
これから また いろいろ 起こります。
ベーシックインカム 中小企業淘汰 高齢者も。おそらく
地震も。
この国のために自分の家族のために子どもたちのために
なにができるだろう……
祈ることはできる ほんの少し伝えることはできる。
それだけは それだけが。
チエさん 書き続けてください。みんなが福島を
忘れないように。
もし、ブログを書いていらっしゃるなら、URLを教えてくださいませんか?
私も、自分に出来ることを少しずつやっていこうと思っています。