「松前城」は、公式には「福山城」だが、備後福山城との混同を避けるため、「松前城」と呼称して、現在に至っている。
また、福山城の前身の福山館は、本丸のほか二ノ丸、北ノ丸、櫓が築かれていたが、松前氏が無城待遇だったので、正式に城とは呼ばれなかった。
しかし、1849年、江戸幕府は、異国船到来の海防強化のため、松前藩12代藩主に築城を命じ、福山館を拡張・強化する形で、「福山城」が1855年に完成した。
三の丸に砲台が7つ設置され、海岸にも16の砲台が置かれたことからも、幕府の異国に対する警戒心が強かったことが窺われる。
しかし、1868年に勃発した戊辰戦争に巻き込まれ、新選組副長だった土方歳三に攻め込まれ、落城した。現在の松前城は、1961年に再建された鉄筋コンクリート作りで、木造の天守閣建築が検討されている。
また、福山城の前身の福山館は、本丸のほか二ノ丸、北ノ丸、櫓が築かれていたが、松前氏が無城待遇だったので、正式に城とは呼ばれなかった。
しかし、1849年、江戸幕府は、異国船到来の海防強化のため、松前藩12代藩主に築城を命じ、福山館を拡張・強化する形で、「福山城」が1855年に完成した。
三の丸に砲台が7つ設置され、海岸にも16の砲台が置かれたことからも、幕府の異国に対する警戒心が強かったことが窺われる。
しかし、1868年に勃発した戊辰戦争に巻き込まれ、新選組副長だった土方歳三に攻め込まれ、落城した。現在の松前城は、1961年に再建された鉄筋コンクリート作りで、木造の天守閣建築が検討されている。