五代将軍、徳川綱吉の時代。京都烏丸四条の大経師以春は朝廷御用の表装工の頭で、毎年の暦を刊行する権利を与えられていた。以春の妻・おさんは兄から金を無心されるが、夫には頼まず、手代の茂兵衛に相談する。茂兵衛は店の金を無断で流用しようとするが、以春にばれて激しく詰問される。茂兵衛に好意を抱く女中のお玉がとっさに嘘をついて、急場をしのぐが、お玉に気がある以春は気に入らない。茂兵衛を屋根裏に閉じ込めてしまう。
一方、以春がお玉の寝床に忍び込んでくるという話を聞いたおさんは、夫を懲らしめるためにお玉の布団で待っていると、忍んできたのは屋根裏から逃げ出してきた茂兵衛であった。運悪くその現場を番頭格の助右衛門に見られたおさんと茂兵衛は不義密通をしていると騒がれ、いたたまれなくなって店を飛び出してしまう。二人の死出の旅路が始まった。
1683年に実際に起こった不義密通事件を基に、「好色五人女」(井原西鶴)と「大経師昔暦」(近松門左衛門)が書かれ、溝口健二の『近松物語』はその二つを合体して部分的な変更を加えたものである。前二作と溝口の映画の最も大きな相違点は前二作が、それぞれ状況は異なるが、おさんと茂兵衛が錯誤によって性関係を結んでしまうのに対して、溝口の映画は錯誤による性関係を認めていないことだ。
「好色五人女」では暗闇の中で眠り込んでしまったおさんを、茂兵衛がお玉だと勘違いして契りを結んでしまう。「大経師昔暦」では茂兵衛はおさんをお玉だと誤り、おさんは茂兵衛を夫の以春だと勘違いして枕を交わしてしまう。「源氏物語」の<空蝉>の帖で、光源氏が空蝉と間違えて軒端荻の寝所に忍び込むという場面があるが、源氏は途中で間違いに気付いている(結局、行為は続けるのだが)。いくら暗闇の中とはいえ本当に相手がわからなかったのかという疑問が残る。
『近松物語』では助右衛門に見つかった時、二人は性関係を結んでおらず、周囲の誤解によって不義密通者にされてしまう。リアリストである溝口は偶発的で現実離れした展開を好まず、映画では二人が契りを結ぶのは互いの愛を確認してからだ(実際に性的な場面が描かれているわけではないが)。逃げ切れないと悟った二人は死を覚悟して琵琶湖に舟を出すが、入水する直前に茂兵衛が「お慕い申しておりました」と愛を告白し、おさんは「今の一言で死ねんようになった」と言って茂兵衛に抱きつく。この場面は「好色五人女」にも「大経師昔暦」にもない溝口のオリジナルで、この映画のクライマックスになっている。従来の心中物なら、愛し合っている二人はあの世で結ばれることを信じて入水するところだが、おさんは<愛されているからこそ生きたい>と思う。これが溝口のリアリズムであり、現代の恋愛劇なのだ。(KOICHI)
一方、以春がお玉の寝床に忍び込んでくるという話を聞いたおさんは、夫を懲らしめるためにお玉の布団で待っていると、忍んできたのは屋根裏から逃げ出してきた茂兵衛であった。運悪くその現場を番頭格の助右衛門に見られたおさんと茂兵衛は不義密通をしていると騒がれ、いたたまれなくなって店を飛び出してしまう。二人の死出の旅路が始まった。
1683年に実際に起こった不義密通事件を基に、「好色五人女」(井原西鶴)と「大経師昔暦」(近松門左衛門)が書かれ、溝口健二の『近松物語』はその二つを合体して部分的な変更を加えたものである。前二作と溝口の映画の最も大きな相違点は前二作が、それぞれ状況は異なるが、おさんと茂兵衛が錯誤によって性関係を結んでしまうのに対して、溝口の映画は錯誤による性関係を認めていないことだ。
「好色五人女」では暗闇の中で眠り込んでしまったおさんを、茂兵衛がお玉だと勘違いして契りを結んでしまう。「大経師昔暦」では茂兵衛はおさんをお玉だと誤り、おさんは茂兵衛を夫の以春だと勘違いして枕を交わしてしまう。「源氏物語」の<空蝉>の帖で、光源氏が空蝉と間違えて軒端荻の寝所に忍び込むという場面があるが、源氏は途中で間違いに気付いている(結局、行為は続けるのだが)。いくら暗闇の中とはいえ本当に相手がわからなかったのかという疑問が残る。
『近松物語』では助右衛門に見つかった時、二人は性関係を結んでおらず、周囲の誤解によって不義密通者にされてしまう。リアリストである溝口は偶発的で現実離れした展開を好まず、映画では二人が契りを結ぶのは互いの愛を確認してからだ(実際に性的な場面が描かれているわけではないが)。逃げ切れないと悟った二人は死を覚悟して琵琶湖に舟を出すが、入水する直前に茂兵衛が「お慕い申しておりました」と愛を告白し、おさんは「今の一言で死ねんようになった」と言って茂兵衛に抱きつく。この場面は「好色五人女」にも「大経師昔暦」にもない溝口のオリジナルで、この映画のクライマックスになっている。従来の心中物なら、愛し合っている二人はあの世で結ばれることを信じて入水するところだが、おさんは<愛されているからこそ生きたい>と思う。これが溝口のリアリズムであり、現代の恋愛劇なのだ。(KOICHI)