クラブ・マナーズニュース

マナーズを巣立たれたみなさま、縁者のみなさまとつながっていたい!そんな私が月3回「0」の付く日にブログをアップします!

香港ジュエリーへの思い

2025年03月30日 | 楽しいお話し

 この暖かさ 先週、都心でも朝、急に「雹」や「雪」が降り出し、びっくり仰天したことがウソのようです。いよいよ、全国から桜開花の便りも始まりました。それでも、この時期の気候は不安定。「花冷えの日」もあるので、今年は比較的、長く桜が楽しめるのでしょうか
 昭和の時代、平成の初期には、桜は「入学式のお花」でしたが、気候変動のせいで、今ではすっかり「卒業式の時期の開花」となっていましたよね。でも、今年は早い時期の入学式ならば滑り込みセーフかもしれません

 前回、オマケのお話として、少しだけ保税展について触れましたが、最終日の4月6日までまだあと1週間は会期中なので、ちょっとした「雑学」として、ジュエリーのお話をさせてくださいね
 今回の保税展にも出展されている香港からのブランド。「ピュリティジュエリー」というのがそのブランドです。あとはもう一社、極々わずかですが、ダイヤモンドの特殊加工のブランドから出展されているだけです。
 昔を知っている私としては、この状況をとても寂しく感じています というのは、昔の保税展では、香港からの出展ブランドは数社あり、それらのケースを眺めているだけでもぜんぜん飽きない…うっとり時間でした 美しいヒスイを中心としたジュエリーを扱うブランドや、ダイヤモンドジュエリーを得意とするブランド。また、ルビーやエメラルド、サファイアに代表されるような色石(ダイヤモンドと区別するためにこのように呼ばれます)を中心に扱うブランド、etc. これだけでも3社ですからね。
 こういう香港からのジュエリーの人気が高かったのは、ヨーロッパのブランドと比較した時、ほぼほぼ価格設定がかなり「お買い得感のあるものばかり」というのも大きな理由だったことでしょう。
 それには理由があります たとえば… 「品質の面で、ヨーロッパ勢には劣るからですか?」No No とんでもありません、それは大きな見当違い
 香港ジュエリーにリーゾナブル感があったのは、あくまでも人件費や工賃の安さと、宝石そのものの流通量が非常に多かったから、ということが理由でした。
 「流通量」に関して、違う観点から説明をしてみましょう。
2020年の年末、私は白内障の手術をするついでに、眼内レンズを入れたため、それまで約10年近く楽しんだ遠近両用のメガネライフを終えました。みなさんご存知のように、とってもメガネ好きだった私は、何本ものメガネを使っていましたでしょう?素敵なフレームを見つけると、あれこれと悩みつつも、熟考の末に購入
 でもね、そんな風にあちこちのメガネ屋さんでメガネを作ると、ほぼ同じ会社の、同じ「レンズ」を使うのに、支払う代金には大きなバラツキがありました もちろん、フレームの値段の違いが価格に反映されるのは当然です。でも、仕上がり価格の違いは、同じ種類のレンズを入れるにも関わらず、「レンズそのものの値段の違い」から生じる価格の違い、だったのです
 初めてメガネを作るメガネ屋さんでは視力検査をし、その上で「度数もすべて、了解しました それでは、レンズは「ニ〇ン社」の薄型の遠近両用レンズにしましょう。」とか、「うちでは「HO〇A社」の遠近両用を使っていますので…」のように、使うレンズについてお話をしてくれました。大抵が「同じ種類のレンズ」でした。
 でも… とてもとてもオシャレなフレームを扱っている小さなお店、知る人ぞ知る的なメガネ屋さん、そういうお店では、総じてレンズそのものの価格が高い
 それに対して、テレビで頻繁にCMが流れているようなチェーン店の場合、海外で買ったフレームを持ち込み、レンズを入れてもらおうとすると…同じ種類のレンズでも、かなりお安く出来上がります
 不思議さにやっと気づいた私は、ある時、思い切ってたずねてみました。すると、お答えは「なるほど~」と合点がいったことを今でもよく覚えています。
 つまり、オシャレなお店、知る人ぞ知る系のお店では、「ニ〇ン社やHO〇A社」のレンズを、1年間で100本程度しか仕入れない。それに対し、チェーン店では、1店舗でひと月に100本近いオーダーをする。そして、オーダーは個々の店舗からではなく、チェーン店でまとめて発注をする…となると、同じ会社の同じレンズであっても、その時点で発注数が大きく違うため、仕入れの価格も大きく違ってくるということなんですよね。
 大口の発注をかけるチェーン店のメガネ屋と、小さな小口のメガネ屋とに、レンズメーカーが同じ価格でレンズを卸すわけがない、ということ、だったわけです。こんなことは当たり前のことでしょうが、私はその時、妙に「おー、物の価格というものは、こんな風に決まっていくのですね」と、身をもって大発見をした気分になったのでした。

 ということで、これは宝石業界でも同じ、ということです。
香港には昔から、たくさんのジュエリー加工業者があり、たくさんのジュエリーを扱う企業があります。そして、ジュエリーの製作に、それぞれが高い技術のしのぎを削っていました。そんな香港には、大量の加工前の宝石が流れました。チェーン店のレンズが安いというのと同じ理屈です。
 そして、それを加工する工賃、人件費も安い…こういう理屈で、なーんにもマイナスの要因などはないけれど、香港のジュエリーは欧米のものに比べて安価だった、わけなのですね
 そんな香港のジュエリーには、昔は、ものすごく素晴らしい品質の「ヒスイ」のジュエリーがたくさん出展されていました。「香港からのジュエリーはヒスイ、翡翠ですよね」というほど、たくさんのヒスイのジュエリーが紹介されました。指輪も、イヤリングやピアス、ペンダントトップ、そして大ぶりの高価なブローチもありました。
 でも、ある時を境に、ヒスイのジュエリーはどんどんと減っていき、とうとう、ここ10年くらいは全く見られなくなりました 香港は中国に返還されましたし、どんどん中国本国が豊かになっていき、富裕層と呼ばれる人達が増えいきましたからね

 中国は、ヒスイの産出国ではありません。そんなふうに思っている人は多いですね
けれど、むかーし昔の様々な王朝の時代から、中国ではヒスイが珍重され、人の大きさほどあるような「置物」にも使われました。
 そんな中国では、文化的に、伝統的に、ヒスイの装飾品の代表は「太い腕輪」。ブレスレット、という音からイメージされるような華奢なものではなく、ドドーンと腕にはめる「腕輪」です。富裕層の人達が、「富の証」として手にいれ、装われるのがそんなヒスイの腕輪だとしたら…きっとリングであれば10個以上、ピアスであれば5個以上のピアスが出来るじゃないでしょうか はっはっは。
 今では、ペニンシュラホテルに座っても、昔のような「摩訶不思議な、独特の雰囲気」「ひとひねりある感じの、イギリス由来の空気」をあまり感じられることがなくなり… 香港は「中国の大都市」となっていきました。
 世の中は、いろいろとかわっていくもの、ですね
よく「古き良き時代」という言い方をします。それでは、今は良い時代ではないのか?と問われれば、もちろん、そういう訳ではないでしょう。けれど…

 今回、出展されているピュリティジュエリーは、ヨーロッパの「ジュエリー好き」の人達の方を向いているのではなく、中東や、今や発展途上国ではなく、新興国となってきたアジアの国々の富裕層の方を向いているのかもしれないな…なんて思いました。

 いくつもの小さな石を「1粒石」のようにセッティングする集合石の高い技術。洗練された、一工夫のあるオシャレなデザイン。ダイヤモンドを爪と呼ばれる金属で台座にセットするのではなく、ダイヤモンドの石そのものにレーザーで穴を開ける技術で生まれるネックレスやピアス。その輝きたるや、すごいですよ
 あんなに美しかった素晴らしいヒスイに出会うことはなくなりましたが… 私は今も「香港のジュエリーファン」です

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「結婚42周年」を迎えました♡

2025年03月10日 | 楽しいお話し

 まさに、この時期は「三寒四温」と言われるように、春を思わせる日もあれば、冬に逆戻り…という日々を繰り返しています。こうして毎年、本格的な「春」になっていきますねえ
 …と、三寒四温という言葉を使いましたが、ふっと気になり、その語源を調べてみると…
 もともとは朝鮮半島や中国東北部の、天気や天候に関する「言い伝え」でした。そして、なななんとこれは「冬の気候」を表す言葉だったのですよ。
 シベリア高気圧の影響で、冬には、あの辺りは寒い好天の日が三日ほど続くと、次には暖かくて曇天の日が四日ほどやってくる… そういう「冬の天候を表す言葉」で、その言い伝えは科学的な理にも適っていたのです
 ただ、日本の冬にはこういう気候にはならず、むしろ春めいた時期に同様の天候が多いため、この言葉が中国から朝鮮半島を通じてやってきた頃、当時に日本人はこの言葉の意味を勘違いして使っていたらしい… まあでも、いつの間にかそれが定着し、今では辞書にも「語源は違うが、気候がだんだん暖かくなる意、にも用いる。」との記載があります。ほんと、何でも、調べてみるのは楽しいですよね

 さてさて。
3月5日は、結婚記念日でした。今年で、42周年を迎えました 結婚記念日には何かお祝いをするのか?となると… いやー、なぜか結婚1周年目から、タイムリーにその日にお祝いをすることは叶いませんでした
 なんだかんだ祝うのが好きな私は、1周年を迎えるかなり前から「その日はどんな風に祝おうか?」と楽しみにし、いろいろと考えていたのですが、夫は急に韓国出張が決まり、その日は不在になることが決定。千葉の流山市の社宅で、私一人でぼそぼそと食事をしながら思ったのです…「1年目がこれなら、もしかしたらこれからも結婚記念日はこんな感じになるのかも」と。
 そして、その残念な予想はドンピシャリ なぜか、結婚記念日は出張と重なることがとても多く、幸い日本にいても仕事でとっても遅くなる、等々。ははは、
 今年も、夫は大きな仕事のど真ん中だったため、私は「一人でぼそぼそ」ではありませんが、やっぱり一人で、好きなものを作って食べました

 ちなみに、2年前の40周年は「ルビー婚式」と呼ばれるのですよね。3年後の45周年は、サファイア婚式。50周年は有名ですね、金婚式です。
 せっかくの機会なので、ご紹介しましょうか?
1年目、紙婚式。2年目、藁婚式。3年目、革婚式。4年目。花婚式。5年目、木婚式。6年目、鉄婚式。7年目、銅婚式。8年目、ゴム婚式。9年目、陶器婚式。10年目、錫婚式(アルミ婚式)。15年目、水晶婚式。20年目、磁気婚式。25年目、銀婚式。30年目、真珠婚式。35年目、珊瑚婚式。そして、55年目がエメラルド婚式で、60年目がダイヤモンド婚式…
 だそうです。夫婦の絆の強さを表すように、年月が経過するたびに「柔らかいものから硬いもの」に呼び方が決められているのは面白いなあ、と思いました。

 今日は、笑っていただける それとも「はてなマークが飛びまくる」お話をご披露しましょう。
 みなさん、すでにご存知の通り、私は大阪の生まれで、父は中小企業の創業者でした。
私の母校は大正時代に創立された女子校(現在は、男子もいます)で、商売人さん達が集まり「うちの娘らが、気持ちヨー通える学校を、自分らで創りまひょや」てな感じで、小学校、幼稚園から順番に出来ていった学校でね。
 同級生の多くは、やはり私同様、中小企業のトップを含め、「商売人」と呼ばれる家庭の子女でした。
 私が高校1年になって間もなくの頃、意を決して父に言いました。
「あのな、セ〇リは大学受験することに決めたんやて。あそこのお兄ちゃん、神戸大にいってはるやんか。お兄ちゃんが受験する時、セ〇リも一緒に関西学院大学を見に行ってな、甲山の見える緑のキャンパスに憧れたんやてえ。せやから、これから3年間がんばって、関学を考えてるって言ってるねん。まどかはどうするのん?て聞かれたんよ。それからずっと考えてたんやけど、私も受験勉強がんばって、大学は他の大学を受験したいなあて思てんけど…」と。
 まだ話は途中のつもりでしたが、けんもほろろに一蹴 「なにアホなこと、言うてんねん」で、The End
 私の母校は、かなりの苦労人だった父や母の昔からの夢でね… 私は、父の起業後、中学から入学しました。合格発表の後、出来上がってきた制服を試着した私の姿を見た両親は、嗚咽して、喜んでくれました そんな父、母の夢の最終章は、私の結婚式で、お仲人さんに「新婦のまどかさんは、かの〇〇学院を卒業され…」と言ってもらうこと、だったわけです。この時点で「???」の方も多いことでしょう 今の私であれば、もちろん「」で爆笑しますよ。
 でもねえ… 幼い頃から、両親のたくさんの苦労話を聞かされていた私ですので、両親の夢を叶える道具?とまでは言わないまでも、私の存在で、両親の苦労が報われ、夢が叶うのであれば、何とかがんばってみようという思いはたーくさんありました。
 なので「他の大学なんて、絶対にアカン」と激怒されてからは、あっさりそんな希望は捨て、その替わり、高校の3年間、弁論大会や論文コンテストに熱中していった訳です。
 まあそれが後々「願書の添削」のようなかたちで、奇しくも「まどか先生の大切なお役目」につながっていった…不思議であり、ありがたいこと、でした

 私は25歳と2ヶ月で結婚をしたのですが、私の同級生の中ではかなり晩婚組でね。仲良くしていた仲間達の中では「最後の結婚」でした すでに、お友達は「一児の母」になっている子達がほとんどで… 父も母も密かにではなく、大いに嘆いていたものです
 でも、幸い、降って湧いたように夫が登場し、私の結婚も決まりました。でもね、今度はまた、別のことで両親が大真面目に「かなり」憂いていたことがあったのですよー。これまた呆れるような爆笑ストーリーなのですが…
 当時の大阪の「私のいた世界」では、お友達の結婚式に招待されると、必ず独身女性は「振袖」で出席しました それはそれはあでやかでしたよ。新婦の友人が座るテーブル1卓か2卓は「振袖軍団」でね。
 ところが、です。女の子達は結婚してしまうと、新婦のテーブルの装いは一変します 既婚者となると、振袖ではなく、みな「色留め袖」を着ての出席となるからなのです
 その色留袖がどんなに金箔と刺繍で彩られた豪華なものであっても、さすがに振袖のような華やかさは望めません…
 さっき書いたように、私は仲良し達の中では結婚が最後でしたからね。あでやかな「振袖軍団のテーブルはない」ということになります

 そこで、両親が考えたこと いつになく、にこにこと、私におもねるような笑顔で、こんな提案をしてきました。
 「タ〇コにも、オジョ〇も、ケイ〇にも、みーんな仲良しちゃんらには来てもろて… スピーチはタ〇コにしてもらうんか?そらエエなあ それでやねんけどなあ、ちょっとお父ちゃんとお母ちゃんで考えてたんやけど、仲良しの同級生だけやなくて、クラブの2年くらい下の後輩とか、ボランティアのクラブの後輩達にも来てもろたらどうやろなあ。エエと思うんやけどなあ、後輩らにも世話になったわけやさかいなあ、ははは
 私はすぐに両親の「思惑」がわかりました
まだ未婚の後輩達を披露宴に招待する 新婦の友人のテーブルは、1卓が豪華な色留袖軍団、そしてもう1卓は華やかな、若々しい「振袖軍団」の出来上がり。ありがたいことに、後輩達は、確かに、振袖を着てきてくれました、ははは。私の両親の意を酌み、婚約中の後輩も迷うことなく、振袖姿で登場
 化石のような話ですよね。私自身、書きながら笑えました
昔から、関東と比べると、比較的、関西圏は和服文化、和服神話、のようなものの強い土壌だったとは思います。そんな中でも、当時の私の母校の世界観には、独特のものがありましたねえ…

 そして、さすがにそれが校訓ではありませんが、私の母校は、基本的には「良妻賢母を育てる」のがモットーでしたので、キャリアを持って働く卒業生などいるはずもなく… 大抵、自分の生まれ育った環境と似た世界に嫁いでいきました。
 そして、親元からそれほど遠くないところで暮らし、我が子もまた母校に通わせる…というパターンが多かったのです。そんな中にあり、私はかなり「異色」でした。
 せっかくなので、もっと笑ってもらえるお話を。
大学時代、アメリカのニューヨーク州に短期留学中、何度か学生達との座談会がありました。その席で、度々こんな質問がありました。私の英文学科という専攻を聞いた後、アメリカ人の出席者達が「じゃあ、あなたは卒業後は、どんなふうに人生を過ごそうと考えていますか?たとえば、どんな職業があるのでしょう?」
 この質問に、私は常に満面の笑顔で、迷うことなく「Good wife! Good mother」と答えました。こう答えると、必ず不思議なしばしの沈黙があり、ハテナが飛んでいたのです… でも、当時の私には、その沈黙とハテナの意味さえ理解できなかったのですよねえ… 

 こんな笑えない、ちょっと辛い笑い話もあります
結婚後、私と同様、ずっと関東で暮らしている仲良しがいます。彼女も、私同様の数少ない「異色派」です。彼女は、私より2年早く結婚をしました。
 彼女のお嬢さんが就職活動をしていた時のお話です。
お嬢さんからこんなことを聞かれたのだそうです。「そう言えば… 今まで、ママのキャリアの話を詳しく聞いたことがなかったわよね。ママの仕事での苦労話はどんなこと?きっと参考になると思うから、あらためて聞いてみたい」と言われたので、友人は答えました。「ママは家事手伝いだったから、会社勤めはしていなかったでしょう?だから、仕事での苦労話ってものはないわね。参考になる話がなくてごめんね」と。
 お嬢さんは「カジテツダイ、カジテツダイって何?」と聞き返し… 黙ってしまったそうです。
そしてその翌朝、他の家族よりも少し早目に起きてきたお嬢さんは、いつものようにキッチンで朝食の支度をしている友人の横に立ち、神妙な面持ちでたずねた…
「ねえママ。私、ママは学校で優秀なんだと思ってたんだけど… おじいちゃまも、おばあちゃまもいつもそんな風に言ってたでしょう?もしかして、何か事情があったの?就活の直前になって、何か問題を起こしたとか… それとも、その当時、何か私の知らない精神的な問題とかがあって、社会人として貢献できる素養が無いって判断されて、家事を手伝うしかなかったの?私、ちょっと気になって…」と、深刻な面持ちで言われた、とのこと。

 今では、このエピソードはすっかり「思い出話の中の最大のヒット」となり、時々話しては大爆笑をしますが、当時はとっても複雑でしたねえ…
 なぜならば、その友人は私が尊敬して止まない読書家で、部屋には天井までの作り付けの書棚があり、そこにはびっしりと本が並んでいました。
 もちろん成績も良く、世話好きで、知識も豊富。花道も茶道も師範並み。お料理もとても上手で…まさに私の理想とする「良妻賢母」になる友人でしたから。
 今、彼女のお嬢さんが、母親のことをどのように思っているのかは知りませんが…  当時の私は、大切な我が娘に、母親の有能さ、すばらしさを理解してもらっていないことに憤りとも悲しさともつかない、複雑な思いを抱えたものです

 人や物の価値観は、「世の中の流れ」「自分が身を置く環境」に大きく左右されるもの、ですね
 まさか私が、自分のキャリアを持ち、微力ながらも人のお役に立てる仕事を30年近くもするとは想像もしていませんでした。
 娘が結婚を決めた時には、私は彼女に「絶対に仕事は辞めてはいけないわよ 子どもを授かっても、しっかり社会人としての自分のキャリアを大事にしなさいね」と真剣にアドバイスし、まさにその娘は今、2歳8か月児の子育てをしながら、自分の仕事も大切にして過ごしています。

 おかげさまで、42年間、波乱万丈の人生ではありましたが、今となっては「山も谷も」すべてが貴重な経験であり、一つ一つが尊い思い出です 山や谷を経験したからこそ学べたことも多々ありました。
 まあ、今の年齢を思えば、これから先は「平穏であること」を願っています、はっはっは 今日は、本当にダラダラ…とりとめのないお話で、失礼しました

 

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ジュエリーマナーズ「春の保税展 2025」のご案内

2025年02月28日 | 楽しいお話し

 2月も終わりますねえ 明日からは3月が始まります。
この時期は、毎年、ジュエリーマナーズの「春の保税展」のご案内をする時期です。保税展とは何か?については、「保税展とは?」をご覧いただくこととして、今日はジュエリーにまつわる「へえ」「ほー」「なるほど、なるほど…」を楽しんでいただこうと思います。
 まずは、先に保税展の会期と会場をお知らせ。

3月20日(木・祝)、21日(金)、22日(土)、23日(日)

3月27日(木)、28日(金)、29日(土)、30日(日)

4月3日(木)、4日(金)、5日(土)、6日(日)

いずれの日も、午前10時30分 ~ 午後6時、まで。
会場は、「ガレリア UCHIHARA」の地下2階ホール(保税蔵置場)、東京都港区六本木7-2-7です。
 すでに、21日(金)の午後と、27日(木)終日にはお約束がありますので、字消し線で消すことにしました。今日の最後にはパンフレットもアップしますね
 まずは、少しだけ出展されるブランドのご紹介。
今回は、初出展の「パトリック・マヴロス」というブランドがあります。なななんと、このブランドは「モーリシャス」からの出展です。モーリシャスって… むー、聞いたことはあるよなあ、島国だっけ?
 ピンポンピンポン はい、そうです
アフリカ大陸の東側にある島国マダガスカルの、さらに東約900kmにある島国で、広さは東京都くらいだそうですよ。この「パトリック・マヴロス」というブランドのジュエリーは、イギリスのキャサリン妃もご愛用とのことで… 何だかどんなジュエリーがやってくるのか、ワクワクします。
 久しぶりに香港からの出展「ピュリティジュエリー」、前回までは「ファルチネッリ」というブランド名で出展されていたイタリアのチャーミングなブランドは、今回からは「タヴァンティ」とブランド名を変更し、登場します。そして、ジュエリーマナーズファンにはお馴染み、盤石の地位を誇るイタリアの「クリヴェッリ」。今回も楽しみです

 そんな中で、敢えて今日ご紹介をする、イタリアの「ナニス」。
ブランドとしての云々は横に置き、今日はそのブランドの特長である「ビュラン彫り」についてご紹介しますね
 ビュランというのは、鋭利な「ヤスリ」の名称です。ナニスのジュエリーは、まずは18金やプラチナをつるつるに磨き上げ、その素材にビュランを使い、敢えて丁寧に彫りを入れていきます。
 つまり、せっかくつるつる、ピカピカにした素材に、わざわざヤスリで傷をつけていく、という訳です
 そして、その彫りの入れ方にも数パターンあり、縦方向、横方向にまっすぐに彫りを入れる方法や、ランダムに彫りを入れる方法など… それぞれの彫り方によって、出来上がりの風合いに微妙な違いが生まれるのですよ
 要するに、金やプラチナのジュエリーというだけで価値が高いわけですが、そこに「非常に細かい傷をつけるという手間をかけた技術」で、ひとひねり、ふたひねりを加えたジュエリーに仕上げている、のですね。まあ、ジュエリーとはそういうもの、ではあります 宝石だけをカットして、ドーンとリングに乗せる、ペンダントトップにする、というだけでも立派なジュエリーに仕上がるわけですが、やはりそこにデザイン性を高めるためにカットの仕方を工夫したり、別の色の宝石を合せたり、金属を曲げたり、金属の種類を複数にしたり、金属と宝石を合せたり…と、ひと手間、ふた手間を加えることで、一層すばらしいものになっていくのです。その「手間」こそが、「技術」でもありますね

 話をナニスに戻し… 説明だけでは、なかなか伝わらないと思いましたので、写真をお見せすることにします。
 私がスマホで撮った写真ですから、なかなか微妙な風合いまでは伝わりきらないとは思いますが

  まずは、これが「つるつる、ピカピカ」の状態です。私のスマホカバーの柄が写り込んでしまっているので、中央部分が黒く見え、私の手まで見えています(失礼)

  これが、ビュラン彫りを施した、上の写真と同じピアスです。じつは、さっきのつるつる。ピカピカの側が裏側。こちらが、ピアスの表側です。
 このビュラン彫りは、縦方向に直線の彫りを入れているのがおわかりになるでしょうか?

  最後がこちらです。わかりづらいかもしれませんが、この彫りは、直線の一方方向ではなく、ランダムな方向に彫られていること… 見えますかねえ?

 これらの画像はアップの状態で写しているので、同じように見えていると思いますが、実際には、上の二つ(表と裏を写したもの)と下の一つとは、かなり大きさが違います。下の方が、上の倍ほどの大きさがあります。そして、上の二つは楕円ではありますが、球体ではなく、ぺしゃっと押しつぶした楕円で、下のは球体です。また、上はピアスで、下は同じピアスでも、引っかけるタイプで、耳からブラブラと下がるもの。そして、微妙に違う彫り方も違う。この2つのピアスを、かなり雰囲気の違うものにしています。
 …となると、彫りの説明用に、と写した写真では同じように見えるものでも、大きさ、形状、彫り方の違いで、実際に装ってみると、かなり雰囲気が違っています。 おもしろいですよね。まさに「ジュエリーは見ているだけではわかりません。なので、それが小さな指輪であっても、身に付けて、必ず全身が映る鏡に映してご覧になってくださいね」と私がアドバイスする所以です

 いかがでしょう?少し楽しんでいただけましたか?
どんなこと、どんなものでも、「知ろう」とすれば、すべてが「奥の深いもの」ですね

 私は、教室を終えてからは、何も考えないで、今まで興味のあったことだけ見たり聞いたりしていては「脳ミソがダメ」になってしまいそうで… なので、敢えて新しいことに興味を持ち、より知っていこうとしています。幸い、すぐに「なんで?」「ああ、知らないはこれ」などと思う性分なので、今のところは思考も錆びついてはいないようですが、記憶力の低下のすさまじさを思えば、とにかく安心したり、満足するのは禁物だと自分に言い聞かせています。
 最後に、保税展のパンフレットを載せておきますね。
いつもお話をするように、初めての方、コワいもの見たさ…の方々、大歓迎です 保税展は、輸入前のものを展示しているため、すべての展示品は東京税関の管理下にあり、入場する場合には、事前に東京税関への登録が必要になります(なんて言っても、別に何も大層なことではありませんが、笑)。なので、おいでいただく日時が決まりましたら、必ず事前にお知らせくださいね。

 

 

  オマケのお知らせ 
  長い間、そのままになっていたブログ内の「ブックマーク」を新しくしました

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オマケの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」

2025年02月10日 | 楽しいお話し

 2月に入りました。立春も過ぎましたが、毎年、本格的な寒さはまさにこの時期以降、ですよね 立春あたりからの猛烈な寒波襲来。たくさんのニュースが飛び込みました。中でも北海道の帯広等、比較的雪の少ない地域、道東の大雪の映像は想像を絶するものでした じつはまさにその時、夫は仕事で釧路にいて… 羽田に戻る便は全便欠航。結局、丸1日、釧路に足止めになりました
 毎回、「我が事」になって初めて実感する不便や不都合、不幸… それがどんなに大きな異変であっても、自分の暮らしに関係のない時には「まあ、大変だわ」「何てことなの」と思いながらも、よほどの大きな被害のあるものでなければ、悲しきかな、すぐに忘れてしまう 人とはそういうものだろう…とは思いながらも、あらためて今回、何か「マイナス」を知った時には、もう少し真剣に、もう少し思いを発展させて考えよう、と思いました もちろん、私が考えたからと言って、何かニュースの中の出来事がプラスに転じるわけはありません。でも、身近な人に起こったマイナス、自分に起こったマイナスにだけではなく、もっと様々な事に対して「心を向けよう」と思った出来事でした。(おまえは、何度もこんな反省をし、同じような決意をしているんじゃないかという天のカミサマの声がきこえてきそうです

 前回は、長い長い私の旅行記をお読みくださり、本当にありがとうございました そして、前回の旅行記には興味なし、とスキップをさせてしまった方々には、お詫びします
 …と書いておきながら、じつはあともう1回だけ、お許しをいただき、旅行記の続き、オマケを書かせてください
 「旅行記の続き」というか、もしかしたらいつか、この「続きから、別の展開」をご紹介することになるのではないか?という思いを持っているのです… 四の五の言わず、書き始めます
 私は前回、前々回「ポルトガル旅行」というように紹介しました。そう、その通りです。
 でも、ポルトガルのポルトに到着した翌日は、じつはポルトの町の観光をしたのではなく、ポルトから北に約200kmにある町、スペイン北部の「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」という町に日帰りで行ったのです。
 今回のポルトガル旅行。今ではすっかりポルトガルの大ファンになり、いろいろと歴史や文化に詳しくなりましたが、叔母から「ポルトガル旅行に…」と誘われた時、全くノーマークだったポルトガルであるにも関わらず、すぐに食指が動いたのには訳がありました。それは 旅程にこの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」の地名があったから、だったのです。

 たぶん、今から10年ほど前のことだと思います。民放のBSの番組、俳優の平岳大さんが番組の企画で、スペインのある町の大聖堂を徒歩で目指す…というのを偶然、観たのです。(今回、あらためて調べてみたら、2015年1月4日にBS-TBSで放送された『スペイン横断800キロ 平岳大と情熱の巡礼路』という番組でした。初回の放送は、2014年9月7日。)
 当時、私は全くスペインのことは知りませんでしたし、カトリックの信者でもありませんので、ただ、800kmも歩いていくのねえ… 巡礼っていうやつ、だなあ… という感覚で観ていました でも、なぜかとってもとっても心が惹かれ…
 そして、それから何年もが経過し… 数年前、NHK-BSでも、3回シリーズで、この巡礼についての番組が放送されました。その時には、平岳大さんの時とは別の巡礼路からサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に向かうものでした。
 2023年の12月、私がスペイン旅行に行く時には、残念ながらこの町は旅程に入ってはいませんでした。「ああ、残念。極一般的なツアーでは、サンティアゴ・デ・コンポステーラのような北スペインに行くというようなものはないんだなあ」と思い、出かけたのでした。
 こんなにダラダラと書いても「いったいなんのこっちゃ」ですよね、失礼しました

 サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に向かう巡礼。これは、「カミーノ・デ・サンティアーゴ」と呼ばれています。
「カミーノ・デ・サンチィアーゴ」は、人気の高いフランスからのルート、スペインからのルート、ポルトガルからのルート等、複数のルートがあり、ピレネー山脈を越えるルートは全長約800キロにも及びます。1日に、それぞれの体力に合わせて、約15キロから25キロを歩き、アルベルゲと呼ばれる巡礼宿に泊まり、決められた通過点で「巡礼手帳(クレデンシャル)」にスタンプを押してもらい、進む…
 現在は、徒歩の他に自転車での巡礼も許されています 昔は徒歩の他に、馬や馬車で、という巡礼の方法もあったそうです。
 この起源は古く… 長い長い間、不明であった「聖ヤコブの遺骸」が星の導きという奇跡により見つかり、その地に教会が建てられ、それ以来、皆がそこを目指すようになった、とのこと。諸説ありますが、聖ヤコブの遺骸が見つかったのは、814年と言われています。そしてその地を、カンポ(野原)とステーラ(星)を合わせた意味のコンポステーラと呼ぶようになった…「サンティアーゴ」は、「聖ヤコブ」のことを意味します
 また、この聖ヤコブのシンボルが「ホタテ貝」なのですね。なので、この巡礼路には、必ず道標や道のサインに「ホタテ貝」が描かれ、巡礼者達は何がしかの「ホタテのマーク」をつけて歩くそうです。
 めでたく巡礼をやり遂げた人々には、「巡礼証明書」が発行されます
本来は、全行程、平均約500kmを歩き切らないといけないのですが、現在では、100km以上を歩ききったことが巡礼手帳によって証明されれば(自転車の場合は、200km以上)、巡礼証明書が発行されるようになっているそうです

 12世紀には、年間50万人もの巡礼者がサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂を訪れたとか。そんな「カミーノ・デ・コンポステーラ(聖地巡礼)」ですが、ヨーロッパ全土を襲ったペストや各地での戦乱によって、長い間、下火になります。
 ところが、1980年以降、時のローマ法王がこの巡礼をあらためて重要視したことにより、この巡礼が「カトリックの聖地への巡礼」という意味合いだけではなく、カトリック信者でない異教徒であっても、それぞれにとっての「特別なもの」として尊ばれるようになり、現在に至っている… ということなのだそうです。

 せっかくですので、やっぱり写真でもご紹介させてください

   これが大聖堂です。

   大聖堂の中、祭壇です。祭壇の正面には聖ヤコブの像があります。

  巨大な「ボタフメイロ(香炉)」です。上の写真をよく見ていただくと、祭壇の中央に天井からロープで吊り下げられているのがおわかりになると思います。重さが80kgもあります。カトリックにそれほど馴染みのない!?日本人の私達では、なかなかピンとこないのですが… クリスマス等の映像で、一度はカトリックのミサの様子をご覧になったことがあるのではありませんか?あの中で、そのミサを司る司祭が、乳香という香りのする石状のものを香炉の中に入れ「手に持って」「手でぶらぶらと許す」儀式があります。本来、香炉とは、そういう「手で持つ大きさ」なのですね。ところが!ここの香炉は、天井から吊り下げられ、重さが80kg(しつこいですね)もあり、大きな儀式の時には、7人がかりで、滑車を使い、聖堂の中の空間にグワ~ン、グワ~ン、と揺らせます。もともとは、長い長い時間をかけて、聖堂にたどり着いた巡礼者達の「匂いを消すため?!」に始められた…と言われているとか。(youtubeで「サンティアゴデコンポステーラ 香炉」と検索すると、その動画がいくつか出てきますよ。その様子は壮観です!)

  祭壇の聖ヤコブ像。何と、誰でもこの祭壇の後ろ側に登っていくことが出来て、像の後ろから、聖ヤコブ様に触ることが(抱きつくことも、可能)出来るのです。巡礼路を歩くという偉業も成し遂げないままではありましたが、私も「抱きつかせて」いただきました。罰当たり、でしょうね、きっと

   大聖堂の入口。階段の横が「ホタテ」のデザインになっているのがおわかりになりますか?

  
 町中の、巡礼路の道標や、道にはめ込まれたサインです。

  じつは、巡礼路には「ポルトガルの道」というものがあり、リスボンから出発し、ポルトガル国内を縦断し、国境を越えてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに至ります(約620km)。ポルトは、その途中の町。なので、ポルトの町中にも、この巡礼路の道標を見つけました。

  大聖堂の前で会った高校生くらいに見える生徒達。学校の課題として、修学旅行的に巡礼路を100km歩いた、とのこと。彼らは首に「ホタテ」を掛けていました。さずがに彼らは若いんですねえ、元気いっぱいでした。じつは、聖堂内でも、聖堂の前でも、10組くらいの「巡礼者」と思しき方々を目にしました。リュックにストック、リュックにはホタテのワッペン…というのが、今の巡礼者のトレードマークのようです。
 失礼かと思いつつ、聖堂の前で英語でお声をかけてみました。フランスから巡礼路を歩いてこられた親子と、スペインの南部からの巡礼路を歩いてこられたご夫婦でした。「さっきまでへとへとだったんだけれど、ここまで来たら興奮して…今は何も言えない、考えられない」とおっしゃっていました。どういう言葉が適切なのかはわかりませんでしたが、やっぱりこれなのかな?と思い「Congratulations」と言うと、握手をしてくださいました。とんでもないことを成し遂げた方達との握手でした

  じつは、ここでとっても素敵なことがありました。これは、大聖堂に併設された修道院「聖パイオ修道院」です。現地のガイドさんに教えていただき、この修道院のシスター達が、代々レシピを受け継いでいるというスイーツを買いに行くことになりました。
 でも、そのスイーツ。大聖堂のショップのようなところで売られているわけではなく、まさに修道院の門を叩き、ドアを開け、小窓のベルを鳴らす… というシステム。中から現れたのは、満面の笑顔の、かなりのご高齢のシスターでした。
 娘は14年間、カトリック校のお世話になりました。私は今でも、娘が小学校に進学する時、幼稚園の卒園面談でシスターから言われたお言葉が忘れられません。今もお年賀状のやり取りはあるのですが、シスターはすでに80歳をゆうに越えていらっしゃいます。そのお言葉は、私の「母」としての道標になり、それは今も続いています。
 私は、この聖パイオ修道院のシスターから、3箱のお菓子を買い求めましたが、お土産というよりも、とても尊いものを授かったそんな気がしました。

  

 これで、とうとう(やっと)おしまい、です

 私はこの回の冒頭の部分に… 「旅行記の続き」というか、もしかしたらいつか、この「続きから、別の展開」をご紹介することになるのではないか?という思いを持っている… ので、この「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」について書きたい、と書きました。
 はい ピンとこられましたか?
私は、この「巡礼路を歩いてみたい」と思っているのです。もちろん、500kmなんて無理です。時間は十分にありますが、その距離を歩くのは、無理です。でも、100kmを何とか…
 今回、実際にサンティアゴ・デ・コンポステーラに行ってみて、また、サンティアゴ・デ・コンポステーラがあるスペインではなく、ポルトガルの町の中で(じつは、ポルトだけではなく、リスボンでも「ホタテの道標」を見つけました)たくさんの巡礼路の印「ホタテ」を目にして、その思いは以前よりも一層強くなったのでした…
 夢に終わってしまうかもしれませんが、この「カミーノ・デ・サンティアゴ」を歩く、という夢を持っていよう、と思っています

 3回に渡り、長い長い旅行記を、最後までお読みくださり、本当に本当にありがとうございました 2回で終わると思いきや、オマケまでついてしまい、申し訳ありませんでした お読みくださったみなさまには、感謝しかありません

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ポルトガル旅行、ちょっとご紹介

2025年01月30日 | 楽しいお話し

 ポルトガルから帰国し、ささっと片づけをした後は、すべき家事の時間以外、自宅にいる間は、すべて、ネットでのアルバムづくりに励みました
 私は高校生の頃から、何か行事があるとアルバムを作ったり、8mmフィルムを編集して、それにカセットで音楽を流せるようにレコードを録音したり…そんなことをするのが大好きでした 今の若い人達が、今私が書いた「8mmフィルムを編集して~」以降の文章を読んでも意味がわからないでしょうね
 そう、昔の動画は「8mmカメラ」で撮影(音は録音されません、無声映画のようなもの)し、それを写真屋さんで現像してもらい、部屋を暗くして、8mmフィルムの映写機で、白い壁や、シュルシュルとスクリーンを広げて、そこに映像を映して楽しんだものです。1本のフィルムは、約5分程度だったでしょうか… 運動会のような然るべき行事や旅行などで、映像が5分ずつの細切れになるのが嫌ならば、現像されたフィルム自体を特殊な器具を使って切ったり、貼り合わせたりして編集したのです。
 というわけで。もともと、私にはそういう「旅行記」的なものを記録し繰り返し見る…という趣味があったわけです。

 じつは、スペイン旅行の時、私は初めて「カメラ」を持参せず、スマホだけで済ませました。それがなぜか自分の中で「旅行なのにカメラも持たずに行った」なんていう、おかしな引け目になっていたこと、と、訪れる町について何の下調べもせずに行ってしまった、ということとがマイナスに相まってしまい、私は帰国した後、いつものように意気揚々とアルバムを作るぞ~という気分にならなかったのです…
 確かに、あの旅行の日程が12月の中旬で、帰国後は大慌てで年賀状の準備をし、発送をしたり、お正月の支度に追われていたことは事実です。そして、やっと落ち着いた頃には、帰国から1ケ月以上が経過していた…という具合で、それが「アルバムなし」になってしまった一因でもあります
 けれど、それまでのすべての外国旅行では、帰国したら数日後には町のプリント屋さんに出かけ、開店から閉店まで丸一日お店の機械の前に座り、写真を編集。途中、何度もスタバに行き、コーヒー休憩 お店の方々にもコーヒーブレイクしてもらい、長い時間、一人で機械を独占してしまうお詫びの思いを…としたものです
 そして、編集の数日後、アルバムとして写真だけのアルバムが出来上がってきたら、今度は自宅で、いろんな色のサインペンやラインマーカー等を使い、手書きでのコメントを書き入れる…そんなアルバムづくりをしていました
 「スペインのアルバムなし」という状況の後、昨年の夏にスイスへ。この時も持参したのはスマホだけではありましたが、スペインでの写真で、十分にその画像の美しさを再認識した私は「ああ、もうあの旅行用に使っていたコンパクトカメラを持って行くことはないなあ…」と思ったものです 少し寂しくはありましたが… そして帰国後すぐに、アルバムを作り始めました
 この時からプリント屋さんに行くのではなく、ネット上で完結させるもの。自分で選んだ大きさのアルバム、各ページの写真のレイアウトも数種類の中から選び、これまたそのページの決められた箇所にパソコンで説明文を打つ…という私にとっては新手の様式スペースの関係で、 説明文の字数には制限がありましたが、それは当然ですね。まあでも、じつは写真を選んだり、配置をしたりする以上に、この字数に制限のある中で説明文を書くことには骨が折れました。書きたいことをしっかりと書きつつ、簡潔に、印象に残る良い文章にする… (これって、願書の項目を書く要領と同じですね
 出来上がってきたスイスのアルバムを見て「ああ、やっぱり作って良かった~」と実感。何度も何度も見返し… 完全なる自画自賛ではあるのですが、見るたびに満足し、感動、ふふふ
 すると… あらためて「ああ、私はスペインのアルバムをこんな風に一生懸命に作らなかったから、訪れた町の地名も、その町で見て学んだ諸々も、記憶が不確かになるのだなあ…」と、合点がいったのです。
 これではいけない せっかくのスペイン旅行が台無しになる そう思った私は、旅行から1年も経ってはしまったものの、それこそ年賀状も発送し終え、お正月の準備も整えた後の数日間で、スペインのアルバムも作りました 新手の方法では、お店に出向かなくても良いですからね。早朝にでも深夜にでも、やっぱりコーヒーを何度も飲みながら、パソコンの前に座るだけ。
 サイドテーブルの上にいろいろ資料を広げ、ネットであらためて調べながら… 「うんうん」「そうだった」「なるほど~」「だからそんなことになったんだあ」「そっかそっか」etc.etc.
 今度は、帰国したら必ず、すぐにアルバムを作ろうと誓い、ポルトガルに出発
 1月26日、日曜日の深夜。お尻がペタンコになるほどパソコンの前に座り続け、5日間かけてのポルトガルのアルバムが完成 発注も済ませたので、今は仕上がったアルバムの到着を待っています

 まさに自画自賛です
なので、全く他人の旅行にご興味のない方、ポルトガルという国にあまり関心のない方は、どうぞ今回はスキップしてください そして、もしポルトガルや歴史や文化等に関心のある方は、見てみていただけますか?
 発注したアルバムの大きさはA4で、76ページもありますので、その中の極一部のお写真と、それらが何であるのか?の説明文を載せることにします。
 幸い、ブログには字数制限はないのでアルバムに書いた説明にこだわらず、自由に説明文を書くことにします。

   
  

 ↑ ポルトガル第2の都市「ポルト」。世界遺産の歴史地区には見どころが多く、ポルトの象徴的な景色が「ドウロ川とドン・ルイス1世橋」でしょう。この橋は、1886年、エッフェルの弟子によって建設され、上はメトロと人用、下は車と人用の二重構造の橋です
 15~16世紀の大航海時代の先駆けとなったのが「エンリケ航海王子」。彼はこの町で生まれ育ちました。王ジョアン1世の第3王子という彼には「王座に就く」という道は厳しく、自ら道を拓く!という努力が、国をリードする功績の源となったのでしょう。リスボンと並び、坂、坂、また坂の町で… しっかり1日歩いて観光をしたら、足の裏が痛くなりました。
 余談ではありますが… 最近は「on」というブランドのスニーカーを愛用していますが、旅行中は脱ぎ履きのしやすいものがベターと思い、スケッチャーズのスリップインを履いて出かけました。歩くことを考えると、ソールはonのほうが良いのかもしれません

   

  

 「コインブラ大学」 ポルトから南に約80kmのコインブラ。ローマ時代から栄えたコインブラは、モンテゴ川河畔の町。リスボン、ポルトに続く第3の都市。ローマ時代の遺跡は大学内も含め、町のあちこちに。何といってもこの町の象徴は「コインブラ大学」。丘の上に鎮座しています。
 世界で4番目に古い大学で、ポルトガル史上最大の詩人ルイス・デ・カモンイスは、16世紀の卒業生。ポルトガルの政治を独裁的に導いた元首相アントニオ・サラザールも卒業生であり、政界入り前はこの大学の教授でもありました。
 人口の約20%が学生とのこと。朝は登校する学生が目立ちました。「黒マントが学生のトレードマーク」と、以前、NHK-BSの番組で観たことがあるので、そんな彼らに会えるのを期待していました。でも、さすがにそれはNHKの演出?!だったようで… マントは全員、自前のものながら、今は入学や卒業、儀式にのみ着用するとのこと。
 ちなみに、世界最古の大学は、イタリアのボローニャ大学(1064年)、2位はパリ大学(1150年)、3位はスペインのサラマンカ大学です。

     
   

  

 ↑ トマールにある「キリスト教修道院」。
イスラム教徒からエルサレムを奪還したキリスト教徒。エルサレム巡礼の守護を目的で結成されたのが「テンプル騎士団」です(むー、世界史で習ったような…)。
 ポルトガル王アフォンソ1世により、その褒美としてこの地、トマールの高台を与えられ、1160年に修道院建設を開始します。
 騎士であり、僧でもあったテンプル騎士団(騎士団って、シュッとした剣を持った姿ばかり想像していて、祈りの毎日を過ごす修道僧だったとは全く知りませんでした(*_*)。
 しかし、一つの組織として富を蓄え、その裏付けで強大な力を持ち過ぎたことでローマ教皇から解散を命じられます。(その裏には、フランス国王の意思もあったような…) 
 そのあとを「なぜか上手く」すべてを引き継ぎ、再編したのが「キリスト教騎士団」でした。15世紀には、かのエンリケ航海王子が団長に就き、活躍をしたそうです。その活躍には当然、大きな資金が必要だったわけで… エンリケ航海王子がこの騎士団のトップにいたことが、ポルトガルの大航海時代を支えた大きな要因であることは確かです!
 出征していく騎士団達は、当然、聖堂で祈りを捧げて出かけるわけですが、聖堂は2つあり、一つは通常の聖堂。毎日、彼らが祈りを捧げる御堂。もう1つは写真にある「祭壇が聖堂の正面にある様式ではなく、聖堂の真ん中に、円形状に設けられている様式」です。それはなぜか?その答えを聞いて驚きました。
 その理由は、彼らが出征時「馬に乗ったままで、祈りを捧げられるようにした」ということでした。
 ほおー…とガイドさんの説明を聞きながら、その様子を想像してみました…
あの時、私はこの聖堂の中に立ち、丸い空間、中央の祭壇を見上げていたわけですが… 500年前、いざこれから遠征へ!と旅立つ修道僧が馬上で、同じようにこの空間でイエス像を見上げ、祈りを捧げ、聖堂内をくるりと一回りし、出て行った…
 やっぱり「空間に身を置く」ということは、時空を超え、感覚を知り得ることなのだな…と。すごいことです…

  

  

  

 「オビドス」 中世の箱庭、城壁に囲まれたおとぎの国の世界… ガイドブックの一文です。ポルトガルの最も美しい村... の1つに称されるこの町は、1282年にディニス国王が新婚旅行で訪れ、この地をとても気に入り、王妃イザベルにプレゼントをした、という町。それ以降、この町は代々「王妃の直轄地」となり、それは700年間続きました。
 いやはや、スケールの違う贈り物ですが、町に住む人達にとっては、どういうことだったのでしょう?王妃の所有地ということで、平和に過ごせたとか、何か恩恵があった、とか?
 町を囲む保存状態の良い重厚な城壁は、ムーア人がこの地を統治していた時代のもの。その厳めしい外観と、愛らしい町とのギャップが不思議な空気を生んでいました。この人口約800人の静かな町の周りには、たくさんの桜の木があり、日本と同じように3月下旬から4月上旬になるとピンクに染まるそうです。そして、その桜、チェリーから作られる「Ginja(ジンジャ)」というリキュールは町の名物。チョコレートで出来たおちょこ状の小さな小さなカップにジンジャを注ぎ、最後はそのチョコレートも食べてしまう… 面白いですよね。細い通りには、そのジンジャを試飲するための小さな屋台がポツポツと出ていました。

  

  

  「シントラ」 リスボンまで小一時間の距離の町。町全体が世界遺産です。
ポルトガル王家の夏の避暑地として愛され、大西洋を見おろす風光明媚な山間の町です。その歴史は7~8世紀、イベリア半島に侵入したアフリカからのイスラム教徒(ムーア人、と呼ばれることが多いです)が城を建設したことに始まり、その後リスボンを奪回した初代の王アルフォンソ1世によりポルトガル王家のものとなりました。
 今回、見学をしたのは王の夏の離宮ですが、町の至る所に当時の貴族や豪商達の別荘があり、薄ピンクやローズ、クリーム色等、華やかな外装の建物は「おとぎ話の町」を連想さ、少し浮世離れした景観でした。
 離宮の内装はアズレージョを多用していて、広間では、マヌエル1世はここでバスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓を決定したり、後年には日本の天正遣欧少年使節団の謁見も受けた、とのこと。彼らはこの豪華さに驚いたでしょうね。
 イギリスの詩人バイロンが「この世のエデン」と称えたそうですが… 中は迷路のようで、螺旋階段や細い階段を上ったり下りたり。バリアフリー感「0」。私は歩きながら「王様、王妃様は、何でも家来に頼んだんだろうけど、部屋から一歩も出ないという訳はないだろうし… よほど足腰が丈夫だったのかなあ?」と、へとへとになりながら考えていました… 庶民の要らぬ心配ですね、ハハッ。

   

 

 

  「ロカ岬」ヨーロッパ最西端の地、です。
16世紀のポルトガルの大詩人カモンイスが、「ウズ・ルジアダス」という叙事詩の中で、この岬のことを「ここに地終わり、海始まる」と書き記しました。原語では「ONDE A TERRA SE ACABAR E O MAR COMECAR」となるそうで、岬の碑文にも刻まれています。私は今までカモンイスという詩人も、当然、彼の作品も全く知りませんでしたが、この一文「ここに地終わり、海始まる」には聞き覚えがありました。
 地球は丸い、太陽を中心にして、地球はその周りを回っているという「地動説」が真実として世にしっかりと出るまだ前の時代です。そんな時代に、この広い広い大西洋に船を繰り出し、風まかせの船旅をした人々… 想像を絶することです…
 私はロカ岬に立ち、大西洋を眺めながら、そんな先人達の勇気と探求心、否、そんな簡単な言葉では表わしきれない心の内に思いを馳せました…
 この日の夜「君は確かに、ここヨーロッパ最西端を訪れましたよ!」という、シントラ市からの証明書(きちんと私のフルネーム、年月日が記載されていました)を受け取り、大感激。




 ↑「発見のモニュメント」リスボン、テージョ川の河畔に立つ巨大なモニュメント。バスコ・ダ・ガマがインド航路へ旅立った際の船出の地として知られるこのベレンの地に、1960年、エンリケ航海王子の没後500年を記念して建てられました。帆を張る巨大船に見立てたモニュメントには、エンリケ王子を先頭に、探検家や科学者、宣教師など33人が並び、その姿は圧巻です。前から3番目がバスコ・ダ・ガマ。後ろから2番目がフランシスコ・ザビエル。彼はバスク生まれのスペイン人ですが、ポルトガル王の要請を受け、宣教師としてポルトガル船に乗り1549年、日本にまで到達。イエズス会の創設者の1人。
 モニュメント前の地面には、大きな大きなモザイクの世界地図があり、ポルトガル人が到達した地名とその年月日が記されています。

 ああああ、長かったですよねえ いつ終わるのかと思われましたでしょう?
最後までお読みくださり、本当に本当にありがとうございました
 私は、こんな風に「納得のいくアルバムを作るため」を理由に、帰国後、たくさん勉強?をします。残念ながら、ずっと覚えているか?と問われれば、答えは「NO!」です けれど、こういうところでも、私のマナーズでの長年の持論「知ること、学ぶことは楽しい」を実践、実感しています。
 そんな私の「好み」に、今回もお付き合いくださり、あらためて、本当にありがとうございました 
 心からの感謝をこめて

 

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美しく、優しい国・・・ポルトガル

2025年01月20日 | 楽しいお話し

 1月20日、私は今朝、11時前に羽田空港に到着 じつは、1月13日からポルトガルに行ってきました。
 何年も前から、叔母(と言っても、叔父の再婚相手で、私と1歳しか年がかわりません)がポルトガルに行ってみたい、と言っていて、そのうちに叔父と一緒に行くのかな?と思っていたのですが、何分にも叔父は高齢… そんなことで、2019年にその叔母とは2人でトルコ旅行に行ったこともあったので、叔父のピンチヒッターとして白羽の矢が立ち、行くことになりました
 あの国にも、この国にも行ってみたいと思っている私ですが、ポルトガルはノーマークというか、あまり今までに考えたことのない、誰かとも話題に上ったことのない国だったのです…(ポルトガルさん、ごめんなさい)ポルトガル人の友人がいるわけでもなく、海外出張が多い夫も、今までポルトガル出張はありませんでしたので、残念ながら身近に感じたことがない国。なので「ポルトガル=世界史の中のポルトガル」でしかありませんでした

 2023年の12月、友人とスペイン旅行を終えた時、私は「世界を席巻した覇者として、一時代を築いた国、スペイン」であるにも関わらず、まともな知識を持とうともせず、出発してしまったことを心底恥じました。というより、何というのでしょうか… バルセロナ然り、アルハンブラ宮殿然り「知ったような気になっていた」というのでしょうか。 
 とにかく、「百聞は一見に如かず」の思いを持って、今回は「知らないことを、たくさん知ってみようそして、帰国してから勉強しましょ」の思いで出発しました。

 今回は、「ポルト」という町が旅の出発地でした。ポルトガルという国名は、この町の名前に由来する、と言われています。ローマ帝国の時代、ここは「Portus Cale(カレの港)」と呼ばれていたとのことで、その「港 Portus」の頭の方だけを使ったようですね。 
 そこからは南に下っていき、世界で4番目に古い大学コインブラ大学のある「コインブラ」、地理好きで、案外ポピュラーではない町の名前も「ああ、〇〇の国の町だったっけ?」などと思うことのある私であっても、初めて聞くような町々「トマール」「オビドス」「シントラ」。そして、首都のリスボン。それぞれの町には「壮大な歴史と物語」があり、楽しめました
 一時期は世界の覇者的存在で、アフリカや南米、インド周辺にたくさんの植民地を持った王国であったポルトガル。今では、むしろヨーロッパの貧しい国の部類に入るようですが、文化の香り高い、人がすこぶる優しく、食文化も豊か…  比較的、地味だけれども、本当に素敵な国でした
 ポルトガルはこの時期は雨が多い、と言われています 実際、出発の前日、12日までは1週間、ずっと各地、天気予報では雨マークでした。ところが、雨女の私にも関わらず、今回は「天のカミサマ」の思し召し。抜けるような冬の青空が続き、たった1度もにわか雨にもあうことがありませんでした 感謝、感謝です。

 いろいろ、感じたこともご紹介させて欲しいな、と思っています。なので、それらは次回に。
4枚だけ、お写真をアップしますね

 

 ポルトにある「レロ・イ・イルマン書店」。1906年創業の書店で、世界一美しい本屋、と呼ばれているところ。ハリーポッターにも影響を与えた、とか。

  ポルトの駅舎内の壁。アズレージョと呼ばれる装飾タイルです。名所旧跡の外壁や内壁にある、ということではなく、普通のお家の外壁などにも使用されています。こちらは青一色ですが、カラフルな絵や、幾何学模様の柄など、豊富です。

 

 コインブラ大学の図書館に保管されている16世紀の日本地図。16世紀までに描かれた日本地図は、すべてポルトガル人の手によるもの。紀伊半島の付け根、大阪のあたりには「Sacay」という地名が描かれれいます。これは「堺」のこと。この町の出身である私としては、あなためて自治都市堺で生まれたことに誇りを感じました。

  ナザレの海岸。夏はヨーロッパ中から観光客が押し寄せるとか。この日は、決して風の強い日ではなかったのですが、これだけの白波がビーチにまで打ち寄せているでしょう?じつは、このナザレ、この写真の手前からそれほど遠くない岬の灯台あたりに大波!世界有数のサーフィンの聖地だそうですが… あまりの波の大きさに死者も出るほど。

 

 

 

 

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2025年 今年もどうぞよろしくお願いします!

2025年01月10日 | 楽しいお話し

 2025年、元日は穏やかでしたね 昨年は何と言っても元日早々、能登の地震がありましたので、心ザワザワし、幸せに過ごしても良いのだろうか?と、何度も自問自答することの多かった1年でした。
 そして、無事に一日を終えることができること… それを「決して当たり前に捉えてはいけない」と感じさせる1年間だったように思います。
 喪中の方もおいでになると思いますので、敢えてご挨拶はいたしませんが、今年もみなさまにとって充実した1年となることをお祈りしています

 1月10日、私は67歳を迎えます
少し前に「還暦」のお祝いをしてもらったように思っていたのですが、ここ4、5年は、あっという間に1年が過ぎていくように感じます とは言え、自分では1日1日を大切に過ごしているつもり… なので、その365回の積み重ねが1年となるわけでね… あっという間に過ぎるように感じてはいても、しっかりと毎日を噛みしめ、感謝をして過ごしてはいるのですが、不思議ですねえ

 我が家は、元日には息子と、娘一家がやってきて、一緒におせちでお祝いをし、その後は恒例の「てっちり(大阪では、フグの水炊きのことをこう呼びます)」でした 帰省をして、大阪で新年を迎えていた時からの習慣なのです。
 大阪では、天満というところの公設市場に行き、毎年行くフグ屋さん(きっと、日頃は普通の魚屋さんなのだと思うのですが、ふぐ好きの大阪人のため、12月の28日以降は、ほとんど店頭にはフグしかなくなります)に行き、毎年、こんな掛け合いをしました。
 私「〇人で食べるんですう。満腹コース!やったら、どうしたらええやろか?」
 オジサン「そやなあ…ほんなら、この大きいのん1本と、この中っくらいのやつ1本でエエんとちゃうかなあ
 私「ほんなら、それでお願いしますてっさ(薄切りのお刺身)用と、てっちり用にしてもらいます。」
 オジサン「よっしゃよっしゃ ほなま待ってやあ、目方、測るさかいに… そやなあ、 めっちゃ勉強してえ…2百万円やな。」
 私「はいはい、了解了解 そしたら、何時に取りに来たらエエですか?待ってる間、おいしいもんでも食べてきます  働いてもろてる間、私だけエエめするの、申し訳ないんけど、ごめんなさいね
 オジサン「かまへんでえ、2百万円、はろてもらうんやさかいな おいしいもん、しっかり食べてきてや
 私「ほな、よろしくお願いします~

 なんてね。こんな感じでしたよ
 もちろん、2百万円なんてわけはありません。2百万円というような言い方をされたら、大阪人は「ああ、2万ね」とすぐにピンとくるわけです。聞き直したりするのは「野暮って」ものです いや、もし何かこの2百万円にコメントをするなら、「ちょっと高いわあ」とか「そら勉強してもろて、ありがたいわあ」のような感じでしょうか。そうそう、この「勉強」の意味もおわかりですよね。「まける、値引きする」という意味ですよ

 私はこの3月で結婚42周年を迎えますので、それは、私が大阪を離れ関東に来てから42年になる、ということです。
 最初の3年間は千葉県の流山市の社宅住まいでした そこでの生活を始め、一番驚いたことは、買い物に行った時、お客とお店の側との「会話がほとんどない」ということでした
 大阪では、一商店での1対1のお買い物ではなく、スーパーのレジであったとしても、案外「今日は寒いですねえ」とか、「朝から暑―てかないませんねえ」というような声をかけ合ったりするものでした。もちろん、そのレジの方が、よく顔を合わす方でなかったとしても、です。
 お店での会話は、「会話で生まれるあたたかい空気を楽しむ時間」であり、「人との関係を和みの時間にする知恵」のようなものであったと思います。
 なので、私は「会話のないお買い物」の時間を、とても寂しく感じたものでした
 でもね、横浜に引っ越し、行きつけのお店にベビーカーで行ったりするようになると、息子を媒体として、あやしてくれたり、ちょっと声をかけてくれるようになり… 私は思い切って私のほうから積極的に話すようにしたのです
 するとどうでしょう、驚いたことに、お店の方は別に嫌な顔をされず、大抵は私の声掛けに笑顔で応じてくださる、ということに気づいたのでした
 なんでも決めつけはいけませんねえ。大阪の人(関西の人?)は気さくで、関東人はツッケンドン、だなんて、思ってはいけないな、って。

 大阪ももちろん都会で、昔から、主に四国や山陽地区から移り住んでこられた方も大勢いるわけですが、さすがに首都圏とは比べ物にはなりません。何せ首都圏は全国区ですものね。沖縄や九州から、北海道や東北から…とにかく、全国から首都圏に移り、そこに生活の基盤を置いている人が多い。
 だから、大阪のように、そこである意味「完結するような文化」「大阪人独特の文化」というものを持たない、というのでしょうか。
 まあでもね、世の中では、そういう大阪の気さくな、フランクな空気感を嫌う、という人も大勢いるのも知っています、笑。私は気さく、フランク、というふうに感じるのですが、それを品がないとか、厚かましい?というふうに捉える、というのかな…

  おっと、すっかりお話が脱線しましたが、フグに話を戻しましょう
親達がみな他界し、私達夫婦が帰省をしなくなって(帰省するところがなくなりました)5年目のお正月です この5年間は、フグは大晦日に下関から冷凍のものを送ってもらっています。
 そして、このフグを受け取り、梱包を解きながら、私も夫もいつも「オジサン達との掛け合い」を思い出し、その話題で盛り上がります。「禿げた方のおじちゃん、ほんま、面白かったねえ 吉本顔負けってほどのユーモアのセンスやったやん?あのおじちゃん、どうしてはるやろねえ…」「僕らが親のところに帰省してるのを知ってはったから、きっと親が亡くなりはったんやあなって、思ってるんとちゃうか。」etc.etc.

 今年、てっちりを食べていて、「へえ~」と思ったのが、元日に2歳8か月を迎えた孫が、フグが大好物になった、ということ
 フグはね、骨のない身だけにした部分は、ほとんど「てっさ(お刺身)」にします。なので、お鍋に入れるフグの多くは「骨付きの身」とか「アラの部分」なんですよね。それらがまた美味しいのです。でも、いくら「それがおいしく、お鍋から取ったその熱々の身を直に手で持ち、かぶりつくように食べるのがフグのおいしさ」なーんて言っても、2歳ではそれは出来ません なので、当然「コロッとした、プリプリの骨なしの身」を食べます
 来年もあのペースでどんどん骨付きではない身を食べられたら…  ひゃ~ 来年からはもう少し多めに買わなくてはなりません、笑

 たまたま、私のお誕生日は年が明けてすぐなので、新しい1年と、新しい年齢の1年、何かを考えるには都合が良い、とでも言いましょうか
 さて、67歳の1年、何に挑戦しましょうかねえ… 1年が終わる時に、このブログに「今年もあっという間に過ぎました。特に何もしませんでした。」と書くのは、あまりにも格好悪いし、残念だし、悲しいですからね
 何を始めるか 何をするか やっぱり語学?
むー、記憶力がすこぶる低下はしてますからねえ… 新しい単語を覚えても、すぐに忘れてしまいます…
 還暦の記念に、3週間ほどイタリアの語学学校に行くことを考え、1年半もイタリア語の勉強をしていたのですが、ちょうど夫のガンの罹病のタイミングとなり、断念。イタリア語の勉強も止めました。
 そしたら、今ではほとんど思い出せないのですよ 大学時代に、ほんのちょこっとだけ第二外国語としてかじったフランス語はフッと思い出したりするのですよ。あの頃は、脳ミソがピチピチで、シャープだったんですよね、間違いなく
 でも そんなふうに年齢のせいにしていたら、何も始められませんよね。とにかく、何かをすることを考えます

 最後に。
今日は文中に「大阪」や「大阪弁」のお話をしました。以前から「まどか先生から聞く大阪のお話し、楽しいです」とよく言われることがあります。なので、古い古い、ふる~いブログですが、大阪弁や大阪関連の回を紹介しましょうね。
 お時間のある時、いやいや、ちょっと元気が出ない時や、落ち込んだ時にでも読んでみてください。きっと笑って、そして、時にはなるほど~なんて思ってもらえる気がします

方言は、その人の柱になっている?!

大阪のお母ちゃん

大阪弁のおもしろ話 

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2024年もありがとうございました!

2024年12月20日 | 楽しいお話し

 今年「最後」のクラブマナーズ・ニュースです。
毎年、12月30日はお休みにさせていただいていますので、今日の回が、今年最後となります

 両親達が存命中は、大抵、29日には帰省をしていたのですよね なので、なかなか30日にパソコンに向かう余裕がありませんでした。
 自分で言うのはおこがましいですが、実家では、私はそれはそれは骨身を惜しんで働く人で なにせ、実家で過ごす人数が多かったですから。
 我が家の家族4人、両親、そして、実家同士が仲が良かったので、義父が亡くなって以降、義母は私の実家でお正月を一緒に迎えました。その上、日頃は世田谷に住んでいる父の弟、つまり私の叔父は、叔母の他界後は、一人での年末年始は寂しいから…と、やっぱり私の実家に来ていましたので、一番多い時期には総勢8人になりました 
 実家は長年、大阪でもかなり郊外の一軒家でしたが、若年性パーキンソンを患った父にとって、庭の世話や、階段の多い家は不便となり、その父を見舞うため、毎月帰省する私の足の便のことも考えて、梅田という町中の高層マンションに引っ越しました。車の運転をしない母にとっては、町中の暮らしは一気に便利になり、私も一安心でしたが… 年末年始に限っては、働き手の私にとってはなかなか大変 慣れないキッチン。それに大人数のお台所のお世話となると、スーパーもないところです。お買い物と言えばデパ地下で、大人数の三食、すべてを済ませるとなると… 
 多い時は、一日に3往復。両手にデパートの紙袋を2つずつ持ち、行ったり来たり… 我が子達が大きくなってからは、「今朝はちょっと、私達はマックの朝ご飯を食べにいってきま~す」とか、「僕達は、お昼ご飯には大阪のうどんを食べてきます~」とか、目立たぬよう、密かに私の負担軽減を考えてくれる気遣いがうれしかったです (能天気な夫は「気を遣ってるわけやないやろ、ははは、考えすぎやで。ほんまに、そこで食べたいだけちゃうかあ。」なんて言って、私を興ざめさせていましたが
 年が明けて家に戻ると、いつも軽い腱鞘炎になり、整形外科のお世話になる始末 まあでも、それも終わってしまうと、すべてが懐かしい、泣き笑いする思い出です

 みなさま、今年1年、このブログを読んでくださり、本当に本当にありがとうございました
 昨年末に教室を終えた時には、お声がけくださったアマゾンへの文章を書こうと意気込み、年が明けてからは毎日パソコンに向かい、一生懸命にホームページの文章を整理したり、書き直しをしたり…とがんばっていたのですが…
 決して怠惰になったと、というわけではないのですよ ただ「幼児教室マナーズを全うした、という一種の興奮状態」から覚めてみると、まるで我に返ったように、あらためて、いろいろなことを落ち着いて考えるようになりました。
 すると、意気揚々と「30年間の集大成を書いてみよう」などと鼻息荒く考えていた奢り(おごり)というのでしょうか… 少なくともそれに似た、肩で風を切るような 思いが静まり、冷静になりました…
 30年間、確かに幼児教室マナーズを運営し、たくさんのご家庭とお目にかかり、本当に素晴らしい時間を送りました でも、それは「私ががんばった」のではなく、毎年毎年、多くのご家庭が私を信じ、私を認め、私を慕い、マナーズという教室を盛り立ててくださっていた30年間だったのだ、ということに気づいたのです。極々簡単に言えば、私が偉かったのでも何でもなく、私を信じ、マナーズを愛してくださった方々がいらした、ということ。
 そういう事実に気づくと、偉そうに「私はこうしました」「私はこう言いました」というようなものは書けないな、と。そういう結論に達したのです。

 年明けの、鼻息荒くパソコンの前に座っていた自分が、かなり滑稽に思えました、ふふふ。そして、敢えて何もせず、今年1年を静かに過ごしました。
 ただ、いつもブログ「クラブマナーズ・ニュース」に書いているように、宝物であるみなさまとのご縁を大切にしたい 守りたい という一念で、月に3度、このブログだけは書きました。駄文であることを重々承知の上で どうぞ、来年も書き続けさせてください
 もしかしたら、いつかは「長年、小学校受験というご家族の一大事に関わらせてもらったおばあさんが、その経験から、本当の意味での『賢い子ども』を育てるヒント、エッセンスをお伝えしますね」というようなことを書くかもしれません。

 2024年の秋、小学校受験のありようは、とても変化していました
 長いコロナ禍で、各学校はたくさんのご苦労をされたけれど、その中からの気づきも多かったのだなあ、とあらためて思いました。
 大きな変化、それが「出願」でした。今年の秋の出願は、ほとんどの学校で「ネット出願」となったことは何よりの驚きでした。昨年は、ここまでネット出願が浸透していませんでしたので…
 もちろん、すでに一部の学校では実施されていたことではありますが、それでも、まだまだ小学校受験では、ある意味で「事務的になり過ぎない」という部分がたくさん残っていたわけです。
 少なくとも「ネット完結してしまう出願」などはありませんでした。しかし、たった1年で、こんなにも変わるなんて…です

 こんなことは、まさに「おとぎばなし」のようなお話になってしまいましたが…
「出願は、必ず初日に そして、早い時間に提出できるように。でも、あまり学校への到着が早すぎて、開門前に並んだりしてしまうと、近隣のご迷惑になるので、その点には気を付けて、そして、etc.etc.」
 こんな文章を今の保護者の方々がお読みになったら、「えっ?これって何のこと、ですか?」とキョトンとされるでしょうね。
 願書がネットで完結するようになり、自筆で提出しなくて良くなれば、親の字の上手下手も関係なくなります。
 以前は、達筆な方は密かに「ああ、良かった 誤字脱字だけには気を付けよう」と思われましたし、あまり字のお上手ではないご両親は、願書の清書をされる日には、お腹がキリキリ痛む、なんてこともあったのです
「願書に記入する時には、一行の使い方に注意をして、読み手に読み易いような書き方をしましょう。」
 などと、事細かに私が書いたプリントをメールに添付する必要もありません。
 私は、こういうたーくさんのことに神経を使い、身を清める思いで願書を書き上げられるお父様やお母様に、祈る思いでアドバイスを書いたものですが… それがみなさんの役に立っていた当時のプリントをあらためて読み返し、泣き笑いをしてしまいました…
 そんな私に、「ネット出願」が最後のアッパーカット になりました。一気に、「浦島太郎になってしまった気分」でした… 
 そして、私は心底思ったのです。きっと、私がよく言うところの『天のカミサマ』が私のことを思ってくださり「まどかさん、マナーズの卒業生のみなさまから惜しんでいただけるうちに、まどか先生の教室を終わりにしなさい。それがあなたにとって、とても素敵な、美しく正しい『引き際』なのですよ!」と、その時期を示唆してくださったのだな…と。

 今年も1年間、本当にありがとうございました 何度も何度もしつこく書くので、呆れられてしまうかもしれませんが、「みなさまとのつながり、ご縁」が、私の宝物です
 どうぞ、素敵なクリスマスシーズンをお過ごしくださいね そして、良いお年をお迎えください次回のクラブマナーズ・ニュースは、1月10日、私の67歳のお誕生日です

 最後に… 今の我が家のお写真を載せますね。みなさまご存知の通り、私は季節のあれこれを大事にし、部屋もその時期に応じたものを飾ったりしているのですが、とにかく、このクリスマスが1年で一番「賑やかに」飾り立てます。あまりのことに引いてしまわれるかも、ハッハッハ。

    

玄関のドア前、と、玄関を入ったところ、です。額は、お教室にも飾っていた小澤真澄さんのもの。

   玄関を入ったところから、リビングを見ています。
細い掛け軸状のタペストリー。これが気に入っていて、いろいろな季節のものを揃えています。次の時期のタペストリーは「お正月」、その次は「お雛様」、「桜」「端午の節句」と続きます。夏の「波乗りウサギ」や「ハロウィン」もかわいいですよ。

      

驚かれるでしょうが、お手洗いの中です。この木製三段の飾り棚は、毎回、いろいろと並べるのに重宝しています。七宝焼の額は、実家に飾っていたものです。クリスマスプレートは、1983年のもの。私が結婚した年の記念に母がくれました。

     

左側・・・リビングに入ったところに置いてある飾り棚。一番下の段にはwi-fiの諸々、ルーターとかがごちゃごちゃと入っていて、本来はそのための棚なのですが、それが見えるのが嫌で、こんな使い方をしています。2段目の緑色のキノコみないなものは、じつは非常時のライトです。1個1個が独立するようになっていて、5個をそれぞれ別のところに持っていくことも可能。便利です。
右側・・・テレビの横の飾り棚。この中は、ほとんど入れ替えることはありませんが、棚の上は季節によって替えますね。何も置かないで、時計と一輪挿しのお花だけの時もあります。

  リビングの壁際です。クリスマスの時だけ、ボックスや棚の上にクリスマスの飾りを置いていますが、基本的には、ここは写真とお気に入りの置物だけです。

   

テレビの棚。ここも普段はあまりたくさんのものを飾ってはいません。ただ、クッションカバーだけは、時期によって替えています。最後はベランダ。

 笑っていただけましたか?
これをすべて、26日に片付け、今度は「お正月にむけて」飾り付けます。お正月の飾りつけはもう見なくても良いですよ~、のお声が聞こえてきそうですね、フフッ。
 どうぞ、素敵な年末年始のお時間をお過ごしくださいね では、2025年に

 

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スライサー事件!

2024年11月30日 | 楽しいお話し

 今年もあと1か月となりましたが、私はいまだに「服の入れ替え」を完了していません
 以前は「装いは、ちょっと季節を先取りしたほうがオシャレさん」という昭和の観念?で、綿100%のワンピースなどは、11月の頭に早々と片付けたものですが… 今年は、そんなコットンワンピースの上にウール混のベストを羽織れば、まだまだ十分に着られる日もありますからね もちろん、かと思えば「冬を思わせる気温の日」もあったりして…
 コロナが明けたと思ったら、今度は如実な気候の変化 人とお目にかかった時の「気候のあいさつ」のバリエーションは広がりましたね

 さて。
じつは私は21日の夜、スライサーで右手の親指の先っぽを「スライス」してしまいました 皮を剥くためのピーラーや、おろし金、「なます」を作る時の細い千切りにはスライサーを使ういますが、包丁を使うことが好きな私は、ほとんどのものは自分で切ったり刻んだりします。なので、滅多に単純な「1枚刃のスライサー」を使うことはありません。
 けれど、その日は何となく、キッチンの引き出しを開けた時、パッと目に入った1枚刃のスライサー部品。「むー、この1枚刃のスライサー、ほとんど使ってないなあ。たまには使ってあげようかな…」と思い、まずはニンジンを縦に4分の1に包丁で切った後、イチョウ切りにするため、スライサーでスライスし始めました。
 包丁で切っている時には、なぜかあまり感じたことはなかったのですが、その日、スライサーを使っていると「へえ、こんなに細い状態でも、ニンジンって硬いんだなあ…」と思い、だんだんニンジンが短くなって、スライスしにくくなっていくにつれ、どんどん動かす手に勢いが増しました。
 手を動かしながら「もうそろそろ危ないよな」と思った次の瞬間、「ギャー」パッと血が流れだし… ニンジンを強く握っていた親指の先を、スライスしてしまったことに気づきました

 その瞬間は痛くはありませんでした。でも、どんどん血が出てきて、ポタポタと流しに血が落ちるその様に驚き… でも、何度も自分に「冷静になれ!冷静になれ!」と言い聞かせ… 傷口を確認し、水で洗いました。手を伸ばしてキッチンペーパーを千切り、ペーパーで指先を強く押し、スライスした方の右手を上に挙げました。心臓よりも高い所に傷口を持っていったほうが血が出にくいのでは?と思ったのです。けれど、あっという間にキッチンペーパーは赤く染まり…
 もっともっと脳ミソを働かせようと思いました。「今、どうすることが一番良いのか」と。とにかく、落ち着くこと。止血、止血です。
 あと1時間もすれば夫が帰ってくるはず。彼は大学卒業後、赴任先の北海道の炭鉱で、実際に地下深くの坑内に入り、保安員として仕事をしていた経験があります。
 彼の昔話に時々登場する炭坑内での事故… 指を何本も失ったり、腕や足に大きな傷を負った鉱員さん達の救助に当たった話は、怖ろしいながらも、様々なことを深く考えさせられる、今まで全く知らなかった世界の話しでした。
 そんな夫なので、何かちょっとした怪我をした時には、とても頼りになるのです。けれど、彼を待っている時間はない
 とにかく、私の知りうる知識を駆使し、何とか「ダラダラ」の血は止め、バンドエイドを三重に貼りました。あっという間に血が滲み、3回バンドエイドを替え、4回目にはやっと止まってくれた様子。
 包丁でスバっ深く切ったような傷ならば、救急病院に駆け込むことも考えました、きっと縫わないといけないので。でも 「スライス」なんて傷には、打つ手なんて止血しかない

 要らない情報ですが… 気持ちも落ち着き、ビニール手袋をしてスライサーを片付け始めると… なななんと、スライサーの刃の裏側に、スライスした私の親指の皮膚がくっついていたのです
 正直、かなりゾゾッとしましたが… でも考えてみれば、つい30分ほど前までは「私の親指の一部」だったのですよね。私の過失で、こんな羽目になってしまっただけ。
 私は何ともその皮膚さんが愛しくなり、気の毒にも思い、これをどうしようかと悩んだのです…(結局、考えあぐねた末、捨てるに捨てれず、その時からお仏壇の端に置いています。たぶんお仏壇の4人の親達は呆れているとは思うのですが、笑)

 寝る前に夫に見てもらい、結果的には、再度傷口を軽く水で洗ったあと、しっかりと乾かし、キズパワーパッドを貼ることにしました。
 ・・・と、そんな訳で、あれからずっと綿製とゴム製の指サックを使い分けながら生活しています。すでに1週間以上経過しましたが、さすがに傷口に何かが当たったりすると「痛っ」となります… いやー、本当に肝を冷やしました。

 このことから、いろんなことに気づいたり、考えたりしました その中でも一番の気づき、それは「私達は日頃から『つまむ』というたくさんの動作をして暮らしている」ということでした
 利き手である右手ではあっても、たかが長さ1cm、幅3mm、親指の先っぽの小さな傷です。けれど、この「親指」というのがミソでした
 例えばこんなこと… 洋服のボタンの留め外し。ファスナーの開け閉め。おズボンの上げ下ろし。キッチンでは、瓶等の開け閉め。お鍋やフライパンの扱い。お箸やスプーン等の扱い。ブラシで髪をとく。ネックレスの輪かんの留め外し。尾籠な話で恐縮ですが、トイレットペーパーを取ること。お尻を拭くこと、etc. etc.
 ほとんどの動作で、私達は親指を使って「つまむ」「つかむ」ということをしていたのですよね… そのすべてがしづらく、時間がかかります
 もちろん、だからこそ何とか痛くないように、でも効率的に出来るように!という工夫もして… 久しぶりに脳はよく働いてくれています
 私は、あらためて指サックに包まれた「親指さん」に声をかけます。「いやー、あなたは密かに、本当によく働いてくれていたのねえ」と。そして、これからは大真面目に、もっと一日の終わりには労いたい、と思いました

 それからもう一つ。思いもかけなかった方向に考えが向きました
「トリアージ」というものがありますよね。大きな災害時、救急救命のための優先順位を決めること。「Ⅰ赤、Ⅱ黄色、Ⅲ緑、0黒」です。Ⅰは、最優先。脈が不安定で重症。Ⅱは、脈は安定しているので待機が可能。Ⅲは、自分で動け、軽症。残念ながら「0黒」は呼吸が確認されず、助けられないとその場で判断される場合。
 私は、初めてこのトリアージについて知った時、「当然でしょう」というふうに受け止めました。軽症の人は「どんなに痛くても、もっと重症の人がいれば、待つのは仕方がない」とまで思ったものです。
 でも、今回のことで思いました もし、私がその場にいたとしたら?
「長さ1cm、幅3mm、親指の先っぽの小さな傷を負った私」です。血がダラダラと流れ、なかなか止まらず、途方に暮れている私 でも、トリアージで選別されるとしたら「Ⅲ緑」ですよね。緑なんかじゃなくて、薄い薄い、うす~い黄緑だわ、と。もちろんそんなものはありませんが。
 頭の中だけで「トリアージは当然」「軽傷で動けるなら、痛いとか辛いとかは我慢しましょうよ」などと思っていた自分が情けなく… 悲しく… 恥ずかしくなりました
 何事も「自分事」「自分に降りかかった災難、惨事」として受け止め、その状況や状態にまさに向き合っていると想像し、深く考えることをしなければ、本当にその場にいる方々の辛さや困難など、全く理解できないものですね… 本当に

 私は、自分の生き方として、私のまわりのすべての人達に「心を寄せたい」と考えています。それが家族や友人、知人ではなく、町中で偶然に隣り合わせた人であっても、短い時間、空間を共有した人であっても、その人のことを思い、私に出来ることをしたい、と思っています たとえそれが小さな会釈であっても、一瞬のすれ違いざまの「にこっ」とほほ笑む表情であっても。
 そして私は、概ね、そういうことを実践している、そんな風にして暮らしている、と感じてきました。
 でもでも… まだまだでしたねえ  
出来ているのではないか?などと思って、「いい人」ぶっていた?!私。それはおごった自己満足でした。
 今回のスライサー事件は「指先の小さなバンドエイドにも、じつはその人の出来事、物語」がある。そんな気づきのある痛い出来事で… こんな小さな小さな傷ですが、働き者の右手の親指さんが完全に元の暮らしに戻るには、もう少し時間がかかりそうです。

 スライサーさんが悪いわけではありません。でもね… 1枚刃スライサーの部品さんを押しいただき、感謝して… でも、当分の間は封印することになりそうです

 

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赤城で大感動!の巻

2024年11月20日 | 楽しいお話し

 私が関西人であること、大阪生まれ、大阪育ちであることは、みなさまご存知のことですよね 夫も大阪人ですから、家の中では「大阪弁」で話しています。何せ、夫は大学から東京なので、すでに半世紀以上も関東暮らしなのに、どこでもいつでも関西弁のまま、です
 関西出身者の中には、それほど大きな意図もなく関西弁を直さない人は少なくないとも思いますが、夫の場合は比較的「音感が悪い」ので、どんなに耳から常に標準語が入って来る環境にいても、幼年期に会得した「音としての関西弁」が残り、標準語の音に反応?感化!されることがなかったのだろうな、と思っています
 私は、上の子が4歳になり、幼稚園が始まった時点で、子ども達相手には、標準語のイントネーションで話すようになりました。それは幼稚園のママ友からアドバイス?忠告!を受けたからです 奈良育ちのそのママ曰く、上のお子さんが年少さんの時「〇〇君のママ、変な言葉で話してる~」と幼稚園で頻繁にからかわれ、そのたびに坊ちゃんが落ち込んでいたという経験があって…
 当時は、なるほどなあ…と思いました。きっと、からかった子ども達も「いじめることが目的」ではなく、単純に「あれ?ちょっと違う言葉に聞こえるぞ」と思っただけ、だったのでしょうね。その言葉を聞くたびに、感じたこと素直に口に出しただけ
 でも、確かに、それが続いていけば、言われる側はだんだんと嫌な気分になっていく 不幸にも、もしかしたらそれが「いじめの種」に発展してしまうかもしれませんものね。なので、私も「種は蒔かない方が良い」と思いました。
 そんなことで、私は普段の暮らしから「バイリンガル」になりました もともと、高校での2年間、弁論大会への準備では、常に標準語で発表をする練習をしていたので、標準語で話すことは苦ではなかったのです。(それに、音感も良い方ですし、はっはっは

 ・・・と、話しは意図せぬ方向に進みましたが、じつは今日は「群馬県、赤城山麓の宿泊施設」についてお話をしたかったので、そちらに話題を方向転換
 関西育ちの私は、明石とか姫路とか、天橋立とか城崎温泉とか、吉野とか伊勢、等々、そういう関西圏の地名には「うんうん、わかるよ」と反応できますが、お恥ずかしながら、群馬県、山梨県、栃木県、茨城県、というような県には本当に不案内で… 首都圏からの距離感もありません でも今回、急な夫からの誘いで「群馬県の赤城山」に行ってきました
 そこは、夫が仕事で出会った方からたまたま紹介された宿とのことで、すでに夫は大学時代の友人達3人と9月に行っていて、いたく感動 次回は是非とも娘一家を誘って来ようと思った、とのこと。それを実現させた1泊2日でした。

 自分で言うのもおこがましいですが、まあ私は口も肥えている方だと思いますし、この歳ですからね。今までいろいろな旅館やホテル等に泊まった経験もあります。そんな私を「大満足させたところ、感動させたところ」をご紹介しますね
 「珠雷山荘(しゅらいさんそう)」というのが、その施設の名前です。
ホテルというよりも、全サービス付きの貸別荘的なところ、と思ってもらえば良いでしょうか。
 場所は、まさに赤城山麓。前橋市の中心からは20分程度。高崎からも1時間はかからないでしょうね。東京からだと、関越自動車道を通り、2時間半くらい。夫と私は車利用でしたが、娘一家は東京駅から新幹線で高崎駅へ 1時間もかからないと聞き、びっくり。そこで私達がピックアップ。

 現地に到着したら、笑顔のスタッフがお出迎え 元は会社の厚生施設だったところを全リノベーション。珠雷山荘(しゅらいさんそう)そのものは1つの建物なのですが、「華の間」と「蕾の間」という二つに仕切られ、私達は「華の間」を利用しました。こちらの「華の間」の方がかなりリビングダイニングが広く、2つの寝室も和室ながら、低いベッドだからということで、夫も最初からこちらを気に入ったようでした。(蕾の方は和室にお布団を敷くタイプだそうで、私はどんなにこだわったお布団でも、結局、目が覚めると身体のあちこちが痛くなり、お布団は苦手なのです

 案内されてリビングに入ると、夫が「リビングの広い『華の間』がお薦め」と言った理由がすぐにわかりました。本当にリビングダイニングが広くて、何て言うのでしょうか… いい感じ、なんです そして、大きなスクリーンに映し出された紅葉の動画… そのリビングに入っただけで、あたたかい「気」に包まれたようで、それだけで癒されました。
 後からチェックすると、紅葉の動画が映し出されていたスクリーンは天井への収納式。スクリーンが必要なければ収納してしまえば、もっと壁面が広がり、また違う感覚かもしれません。私達はリビングで過ごした時間は、ずっとスクリーンは出したままで、YouTubeで世界の紅葉や素敵な映像とBGMを流していました NetflixやゲームもOK。夫が前回行った時には、お友達はカラオケで盛り上がっていた、とか(むー…

 ダイニングテーブルも椅子も、ソファも、ちょっとしたサイドテーブルも、ニクイほどセンスが良くて… スタッフから「暖炉も楽しんでください。着火剤が入っていますので、難しくなく火をおこしていただけます。追加分の薪は横にありますので」と説明を受け、娘が挑戦。すぐに暖かくなり、孫も初めて見る暖炉にワクワク。
 夫が「コーヒーにでもする?」と言うので、私はいそいそと「どうだ、気が利くだろう」という表情で持参したパック式のコーヒーを出してきたら、夫は笑顔でそれを制止し、キッチンスペースに消えました。
 戻ってくると、手にしているのは手動式のコーヒーミル、そしてとっても良い香りのコーヒー豆  これも施設に常時セッティングされているとのこと。私達は滞在中、何度もコーヒーをいただきました。コーヒーが苦手のお婿ちゃんは、これまたいくつも置かれている、この施設のオリジナルの「八女茶のティーバッグ」。これまでパッケージがオシャレなんですう…
 窓からは青い空、紅葉した木々…  暖炉の火を眺め、孫の相手もしながら、おしゃべりとゆったりとした時間
 お風呂とは別に、中庭的なところに建てられたプライベートサウナもあり、サウナの外のウッドデッキには、木樽の水風呂と2つのデッキチェア。サウナ好きのお婿ちゃんは、感動のあらし
 それに、お庭には「たき火」の準備も出来ていて、暖炉同様、簡単に着火。夕食後はたき火を囲み、しみじみとおしゃべり。それが消えれば、満点の星 辺りに家々の電灯の明かりがないので、まるでプラネタリウム状態。
 暖炉やたき火は「秋と冬」の楽しみかもしれませんが、夏はお庭で花火、のように、四季折々の楽しみ方はあるようです。
 寝室は、和室が2部屋。先ほども書いたように、そこには低いベッドが各部屋に3つずつ。この寝心地たるや、天国でしたあ 夫も私もマットレスにはうるさい方で、各自、吟味して、好みに合わせたものを購入して使っているのですが、大真面目に、私はこの珠雷山荘のベッドを持ち帰りたい!と思うほど、安眠出来るマットレスでした

 お食事も本当に美味しくてね 夫は前回、夕食には上州牛のすき焼きをお願いしたそうですが、今回はブランドポークのしゃぶしゃぶ。お鍋が「紙なべ」だったことにも感激 (じつは、私と夫はお互いの知人を介したお見合いで出会ったため、双方の両親が初めて会って、挨拶を交わす、という席を設けました。それが「紙なべの水炊き」で有名な大阪北新地の蘆月という料亭だったのです。結婚後41年、久しぶりにそれを思い出したのでした、ふふふ
 朝食は和食で、ご飯が7時に炊き上がるようにセット済みになっていて、夕食後にスタッフが静かに冷蔵庫に用意してくださったセイロを、自分の気に入った時間に火にかけ、蒸し野菜に
 夕食も朝食も、地元産の野菜満載で、出汁やポン酢にもこだわりがあって、おいしい。
 それに、食事を終えれば、食器類は廊下に置かれた大きなコンテナボックスに入れるだけ。まさに、何から何まで、快適に過ごせるように、微に入り細に入り、考え抜かれた使用になっていて、本当に唸ってしまいました

 今回は、2世代での利用でしたが、次回は夫婦ふたりでのんびるするもいいなあと思いましたし、お友達とワイワイとやるも良し、でしょうね
 2部屋にベッドが6台ですが、エクストラのお布団もあるとのことで、和室もリビングも広いので、そこのところは臨機応変にお部屋をつかえるようです。
 前回、夫と一緒に行ったお友達は、すでに高校時代の同窓生と「古希のお祝い会」と称して訪れ、ワインをたくさん持ち込み、リビングのプロジェクターを使ってカラオケ大会で盛り上がったとか。
 夫は次回、仕事のオフサイトミーティングで使うことに決めたらしく… 確かに、使い方はいろいろだな、と思いました
 みなさんご承知の通り、いつも笑顔の私ではあっても、性格的には何事も曖昧にはせず、辛口の意見もしっかりと持つ私ですが、今回のこの珠雷山荘「華の間」での滞在には大大満足でした

 調べてみると、近くにはいろんな施設があります。馬事公苑というところでは馬に乗れたり、いろんなワンちゃんに会える施設があったり、広い公園の中のオシャレなカフェを楽しめたり… もちろん、赤城山山頂あたりの大沼、赤城神社の観光や、赤城山のトレッキングも出来て、楽しみ方は多彩の様です。
 けれど、それぞれの季節「珠雷山荘でのんびりと、くつろぐことを目的にする」ということでも十分に楽しめるなあ、とも思いました

 せっかくなのでみなさんにシェアしたく、すっかり長々と詳しくたくさん書いてしまいましたが、それでもまだまだ語り足りないほどです、はっはっは
 本来ならば写真もたくさんアップして見ていただこうと思ったのですが、すべてに人が写っていて… 差し支えなさそうなものを2枚だけ。施設のURLを記載しますので、そちらでチェックしてみてくださいね!

  珠雷山荘「華の間」 https://akagi-shuku.com/hotels/shurai-sanso/hananoma/

   群馬県前橋市富士見町赤城山1841-1

  

 あまりに褒めちぎったために「先生ったら、この施設の回し者」と思われるかもしれませんね
いえいえ、回し者ではありません 単に「気に入ったら、何でも人に勧めたくなる」という大阪のオバチャンの真髄を発揮してしまいました、くくく。
 だってね、私のお気に入りの銀座の東急プラザの近くにあるイタリアンも、最近すっかりハマっている「キノコの薬膳なべ」も、同じようにたくさん語れますよ ただね、食べることに関しては、ご一緒することは出来るでしょ?でも、お泊り…となるとなかなかそういう訳にはいかない… だから、ついつい語りまくってしまいました。

 前橋は、冬でも比較的雪が多くない、と聞きました。となれば、次回はもっと季節が進んでから、冬にも泊まってみようと思っています。
 今回は、孫のために前橋の「るなぱあく」というレトロな遊園地でたっぷりと時間を過ごしたために、施設近くの公園の、これまた夫のお薦めのおしゃれなカフェには行けません。今度は、冬の景色を眺めながらコーヒーブレイクをしたあと、珠雷山荘のポカポカ暖炉を楽しみたいと思います

 

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