クラブ・マナーズニュース

マナーズを巣立たれたみなさま、縁者のみなさまとつながっていたい!そんな私が月3回「0」の付く日にブログをアップします!

スイスでのお話②

2024年08月30日 | 楽しいお話し

 世界中にはたくさんの国がありますね。誰もがよく知っている、毎日のように耳にする国もあれば、オリンピックの開会式、入場行進で見た「聞き慣れない国」「初めて耳にした気がする」というような国もある… 
 そんな中で「スイス」という国は、多くの人が「スイス?スイスでしょう!知ってる知ってる」という国だと思います。まさに、マッターホルンと言う山の名前は知らなくても、あの山は見たことがあるよ!というように

 じつは、私は今から44年前の春、スイス人の友人、イザベルという女の子の家を訪問しました 彼女とはその前年、私が大学2年生の夏、アメリカのテキサス州で開催された国際ユースキャンプで出会い、3週間のキャンプ生活の中でとても仲良くなり、私は20歳のお祝い旅行「ユースキャンプで知り合った、ヨーロッパ出身の仲良しのお家を巡る旅」を計画し、彼女が住むスイスのSIONという町に行きました
 ローザンヌから約1時間のところにある町、SION。でも、その時に訪れたスイスは、私にとって「仲良しのスイス人、イザベルが住んでいる国」。観光らしい観光はせず、彼女のお家での3泊を終えると、すぐにその次の訪問地オーストリアのインスブルックに列車移動しました
 長い間続いたイザベルとの縁も、30歳を過ぎた頃からだんだん薄くなっていき、残念ながら交流は途絶えました。(奇しくも、今回の旅ではSIONの町を高速道路から眺める機会に恵まれ、一気に懐かしさがよみがえりました。2歳年下の彼女も、64歳の立派なオバサンになっているのだと思うと、バスの中で泣き笑いでした…)

 さて、そのスイス、あらためて知ったこと
まずは国の大きさ。九州を少し大きくした面積で、四国のような形をしています。
 公用語は4種類。人口の6割強がドイツ語、2割強がフランス語、1割弱がイタリア語、極々少数の人がロマンシュ語、という言語を話す国民。しかし、ドイツ語もフランス語も、標準的な言葉とはかなり異なるようで、敢えて「スイスドイツ語」「スイスフランス語」のような呼ばれ方をし、中でもドイツ語を話す人達は、地域によって方言があり、ドイツ語圏内のスイス人同士でも、理解が難しいということもある、と教えてもらいました。

 私の最初の訪問地サンモリッツ、ベルニナ鉄道沿線はイタリア語圏。
ツェルマットとグリンデルワルドはドイツ語圏。ちなみに、イザベルの住んでいた、かなりフランスに近い地域はフランス語圏で、IOC本部のあるローザンヌや、WHOの本部があるジュネーブなどもフランス語圏です。

 私が、あらためて知ったスイス…
その① スイス人は、スイス人であることに大きな誇りを持っている、ということ。
 今回の旅では、少しでも現地の人と話してみたい、という思いがあり、チャンスを見つけてはいろいろとお話をしたのですが、そのお相手が4つの言語のどの言葉を話す人であっても、頻繁にこのフレーズを使われました。「私達、スイス人は~~~です。」という表現。
 例えば…
「私達、スイス人は、決してものを無駄にしないのですよ。このrivellaは、それまでは廃棄されていたホエーをメインに使って作られているんです。是非、HPを見てみてください 英語もありますから。」
 「rivella」は、アルコールを飲まなくなった夫と私がとても気に入り、旅行中、よく飲んでいた炭酸飲料です 言われた通り、興味津々でインターネットで調べてみると…
 チーズ作りの工程で大量に出てくるホエー(乳清)。それは、廃棄するしかない厄介者だったとか。しかし、それを何とか活用したい!という強い思いで研究の結果、そのホエーから蛋白分を取り除き、そこに各種のハーブとミネラルウォータを加え、スイス国民に愛されるとってもポピュラーな飲み物「rivella リヴェッラ」を誕生させました むー、なるほど、なるほど。

 「私達、スイス人は、海外から来てくださる方々に喜んでいただくために…」
 「私達、スイス人は、この美しい景観を大切にしたいので…」etc.etc.
 一人一人が自国を愛し、誇りを持って暮らしていること。本当に素敵だなあ、と思いました。私はどれほど「私達、日本人は…」と、外国人に対して話すことがあるかな?話せるかな?あらためて考えさせられました。

 私が、あらためて知ったスイス…
その② スイスが「徹底した、驚くほど優秀な観光立国である」ということ。
 今年のスイスは、春を終える頃から天候不順が続き、山岳地方に頻繁に大雨が降ったようです そのたびにあちこちの道路が水に浸かったり、橋が決壊したり。けれど、毎回復旧は早く、すぐに観光客が利用する道路や鉄道網は使えるようになる
 今回、私達がグリンデルワルドに向かう途中で通行止めになった道も、すぐに復旧工事が入り、通行止めの翌日の夜には一般車両が、翌々日の早朝からは観光バスが通行できるようになりました
 実際、このグリンデルワルドへの道路だけではなく、私達が今回各地方で利用した、山岳道路と呼ぶべきカーブの多い道路や峠道では、通行を妨げないスペースに停車している工事関係の車両を多く見ました。春以降の天候不順で、道路に何らかの問題が起きるとすぐ、観光利用の車両が少なくなる夜間、復旧のために整備に入るのだ、ということでした

 その他にも感動、感心したことはいくつもあります。
山岳地域が国土の大部分を占める国であるにも関わらず、鉄道網が非常に整っていること。
スイスでは「どこにいても、とにかく最大16キロ歩けば線路がある」という言葉があるのだそうです。スイス国鉄と約60社の私鉄の路線を合わせると鉄道の総延長は5,500キロにも及び、ほぼ同じ面積の九州の鉄道網と比べると約2倍、という密度だとか。
駅の案内表示やピクトグラムなど、鉄道以外の場所でがすべて統一されていて、言葉がわからなくても、見るだけでとても分かりやすかったこと。
駅員さんや車掌さん、列車の関係者の方々は概ね問題なく英語が話せ、その土地がその言語圏であっても、自国の言語であるドイツ語、フランス語、イタリア語が堪能で、外国人には旅行のしやすい環境であること。
山岳地帯には、たくさんのトレッキングルートがあり、整備は完璧であること。
 ルートには、初級から上級まで、数多くのルートがあり、それらすべてのルート上の要所、要所には、たくさんの「共通の黄色いルート標識」が設置されて、距離と平均的な所要時間が記されています。

   
   これは、登山電車のゴルナーグラート駅前に設置されていた「トレッキングのための道標」です。ルートの方角と、およその所要時間が書かれているでしょう?

登山電車やゴンドラ等の「乗り物利用」で、約3000mの標高にある展望台や施設まで、楽に登っていくことが可能なこと。(まさに、これは特筆すべきこと、です)
 乗り物の終点の駅や、展望台の周りには、大抵トレッキングコースが整備されています。なので、そのあたりのトレッキングルートを散策したり、下りのみ自分の足で下る、途中まで下ってまた乗り物を利用して下る、往復とも乗り物利用にする、等々、アレンジは自由自在です
 今回の旅程を例にあげると…
  ベルニナ急行を利用し「ディアボレッツァ展望台(2984m)」まで125人乗りのロープ―ウェイで、約10分で登りました。帰りも同じロープ―ウェイ利用で下りました。ロープ―ウェイからは、たくさん歩いている人達が見えました。
  ツェルマットからは、登山電車で終点の「ゴルナーグラート駅(3089m)」にある展望台へに行き、帰りはトレッキングルートを利用して1時間半ほど歩いて下り、途中駅から電車に乗ってツェルマットの町まで下りました。そして、町中を少し歩き、別のケーブルカーに5分ほど乗って「スンネッガ展望台(2288m)」に行き、昼食 その後は、帰りも同じケーブルカーを利用して下山しました。
  グリンデルワルトからは、やはり登山電車で「ユングフラウヨッホ駅」へ。この駅は、ヨーロッパで最も高いところにある駅で、標高3454m。ここにある「スフィンクス展望台」は、3466mです。帰りも、登山電車で下りました。
  シャモニーからは、「エギーユ・デュ・ミディ展望台(3842m。)」があります。ここへはロープ―ウェイを1回乗り継ぎ、登ります。(こちらは唯一、今回の旅行でのフランス領でのお話なので、オマケです)

 ツェルマットやグリンデルワルドには、私が行った展望台の他にも、いくつもの乗り物利用で登れる展望台があり、そこからの数多くのトレッキングコースが整備されているのです。

 何よりの驚きは、それらの展望台の歴史です。
乗り物としては技術的にロープ―ウェイの歴史は浅いわけですが、鉄道の歴史は古いですね。でも、いくら鉄道の歴史は長くても「3000mを越える高地にまで鉄道を走らせよう」という構想を持ってなんて… 信じがたい

 マッターホルンやそのまわりの4000m級の山々、氷河を見渡せる「ゴルナーグラート鉄道」の完成は、なななんと、1898年。日本で言えば、明治31年です
 グリンデルワルドから上る登山電車。美しい山の景観を汚してはいけない!との思いから、アイガー、メンヒの山の内部を掘削し、トンネルのかたちで完成させた「ユングフラウ鉄道」。
 その構想は1960年代からあったのだそうですよ。実際に建設が始まったのは1896年。工事中は硬い岩盤に苦しめられ、途中、資金難等の理由で一旦中断しながらも… とうとう、1912年7月30日、ついにユングフラウヨッホ駅までを開通させました。
 この鉄道が客を乗せて運行を始めたのが1912年の8月。日本では、ちょうどこの月から大正時代が始まりました

  自転車利用でのツーリングルートも充実していて、鉄道にも自転車専用の車両があったり、自転車と一緒に乗り込める電車が1日に何本も走っていたり…サイクリストにも多くの配慮があります。
   
   
これは、ベルニナ急行の列車に接続された自転車専用の車両です。

 要するに、100年以上前からスイスでは、一人でも多くの人達に「自国の美しい景観を紹介したい、紹介しよう」という思いに燃え、その時代の技術の粋を結集し、観光業への貢献があったということです。本当に感激しました

 ただ「山というものに対する考え方」そのものが、日本とスイスでは大きく違います。それは文化の違い、ではないか、と私は考えました。
 そもそも、日本では古くから「山は信仰の対象」でした。山々には神様が御座(おわ)し、一般の人々が簡単に近づいてはいけない聖域とされていました。入山できるのは、修行を積んだ僧だけであったり、修行そのもののために山に登る、という時代が長く長く続きました。
 そして、時代が移り、戦後になって「観光が一般化」されるようになっても、なかなか山は「万人向けの観光の対象」になることはなかった
 「山に魅せられ、苦しく辛い思いをしながら登る、という行為に価値を見出すような登山家、登山愛好家」だけに開かれた地だった、と言えるではないでしょうか…
 そこに美しい高山植物の群生があったとしても、満点の星空が美しくても、「鍛練的な登山、修行的な登山」では、そういうものは「付録的なもの」でしかなく…  高山植物を愛でる、とか、昨今のようなyoutubeで紹介される「山で美味しいものを自炊する」なんてことは、平成も中頃を過ぎてから… かもしれません。良い時代になりましたね

 スイスの山々、そしてたくさんの氷河の景観は、どこを切り取っても絵になり、気が付けば「すごい…すごいわあ…」という言葉しか発していませんでした

 山々も絶景ですが、もう一つ、敢えて語りたいこと
じつは、バスや電車から高い山々を眺めていると、大抵、その絶壁には2.3本の白い筋が見えます。そう、夏の時期、氷河が解けて急な傾斜を流れ落ちる「名もない滝」です それらの滝は、やがて川となり、水量を増して高原や町中を勢いよく流れます。
 上高地の梓川然り、日本アルプスの雪解け水は、みな透き通った清流なので、私はスイスの川もそういうものをイメージしていたのですが、実際にはほとんどが乳白色(今年は特に、ゲリラ豪雨的な雨が多かったせいもあるのでしょうが)。石灰岩で形成されているアルプスでは、氷河は、解けて流れ下る時に山々を削り、石灰分を多く含んだ水となり、白く見えるのだ、とか。

   

 その豊富なお水 スイスでは「水道水でも問題なく飲める」のです。美味しいお水です
よくヨーロッパ旅行をすると、「お水はミネラルウォーターを飲んでくださいね。たとえホテルであっても、蛇口からのお水は飲料水ではありません」と注意を受け、特に夏の旅行の場合、よく小銭を探して、お店でミネラルウォーターを買います そのたびに「ガス入りか、ガスなしか」を確認して
 でも、スイスでは、空のペットボトルさえあれば、冷たくておいしい水がどこでも確保できるんです 

 なるほど~は、まだまだありました。
スイスは、1815年のウィーン会議以降「永世中立国」国土の大半が山岳地で、農作物も豊富とは言えず、めぼしい産業にも恵まれなかった昔のスイスにとっては、人材こそが大きな財産だったとか。
 かつては、ヨーロッパの様々な戦争に、本当にたくさんの「強靭なスイス人傭兵」が参戦したのだそうです。
 1874年に「外国軍への参戦を禁じる」という法律が出来るまで、スイス人傭兵は、特にヨーロッパ各国で活躍しました。
 そんなスイスには現在も、陸軍と空軍の大きな軍事力があり、憲法で定められた徴兵制により、20歳から50歳まで、男子の全国民には兵役義務があるのだそうです。

 広い広い緑の放牧地や、シャレの点在する典型的なスイスの高地にも、ところどころ「オレンジ色のボール状のものが2,3個くっついた電線」がありました。

   

 何となく不思議に思い「あの電線にくっついたオレンジ色のボールは何ですか?」とたずねたら、その答えは「空軍が飛行訓練をする時のための目印です。スイス国内では、よく霧が発生します。真っ白で先が見えないなんてこともあります。そんな風に霧で見通しの悪い場合でも、あのオレンジ色のボールは、ここに電線がある!という印で、飛行訓練の時の危険回避のため、です」と教えてくれました。むー… それもスイスの一面なのだな… としみじみ感じました…

 そう言えば、「スイス人の傭兵」と聞いて、ピンと来た方もおいでになるかもしれませんね 先ほども書いた通り、現在ではスイス人傭兵はいませんが、それでも「たった1か所だけ、スイスの傭兵が存在しているところ」があります。それは、バチカンです

       

    

 カトリック教会の世界の中心、バチカン市国のサンピエトロ寺院では、要所、要所にカラフルな制服をまとった「スイス人傭兵」が立っています。
 ジュネーブやチューリッヒなどは、歴史的に宗教改革発祥の地ではありますが、現在のスイスは、カトリック教徒が35%、プロテスタントが23%でという具合で、私の想像以上にカトリック教徒が多いのですね。
 そんなカトリック教徒の中でも、非常に敬虔な信者で、選ばれし若者が「バチカン市国の傭兵」となるのです。これは、1506年、教皇ユリウス2世の頃から500年以上、この伝統は続いているのですねえ

 今回のスイスの旅は、山岳地帯を中心にした6泊7日。装いも常にスポーティーに徹した1週間でした。
 でも、スイスには古都のルッツェルンや首都のベルン、湖畔の町チューリッヒやローザンヌ、国際機関の多いジュネーブなど、見所満載です。いつかは、そういう町も訪れてみたいです。

 でもね、物価の高さにはいささか閉口しましたよ
スイスの通貨は「スイスフラン」です。私が換金した7月下旬は、為替が最悪の時期で… 米ドルもユーロも???!!!の時期。1スイスフランが175円でした。(ここのところは、170円程度だと思います)
 ツェルマットの町のメインストリートにあったマックの看板を見てみると… セットの最低価格が約3500円 
 スーパーで買うような、袋に入ったちょっとしたお菓子が、1袋約800円。「rivella」のような清涼飲料水が、1本約750円
 2023年度の平均年収が、スイスは日本の3倍以上だったことを思えば、物の値段が3倍以上であってもおかしくない…のでしょうが、そこに為替マジックが加わって、ついつい何でも値段をチェックし、顔を見合わせ、目ん玉飛び出し状態でした

 それでも。
まるで「やらせか」「観光用なんじゃないか」と思うような、山々の見える高原のあちこちで放牧されている牛さん達。登山電車の窓を開けると、本当にカウベルの音がガランガランと聞こえる様子。まるで私が子どもの頃に見た「アルプスの少女、ハイジ」のアニメを観ているような風景… スイスの自然はすごいです

 最後にひとつ。
 今回、シャモニーからグリンデルワルドに向かう途中、グリュイエールという町のサービスエリア的なところに停まりました。グリュイエール、そうです、エメンタールチーズと並び、スイスの代表的なチーズです
 私も夫も、今まで「チーズフィンデュ」を食べる機会に恵まれなかったので、ツェルマットで勇んで現地の人に教えてもらったお店で初体験。とっても気に入り、そのお店の陽気なオーナーに「チーズの配合は秘密だけど、グリュイエールチーズさえあれば、美味しく出来るよ キルシュと白ワインは必須だからね」と教えてもらいました。
 図らずも、道中、そのグリュイエールに停車できて大感激。幸いにも持ち帰れると聞き、翌日は帰国でしたので、真空パックされたグリュイエールチーズをゲットしました。
 その上、チューリッヒに向かうバスの中で、破格の安値でメルカリに出品されていた新品未使用のル・クルーゼのフォンデュ鍋まで購入 帰国した翌日、さくらんぼから出来たリキュールのキルシュと白ワインの小瓶も買って、準備万端
 ところが… インターネットで調べた通り、白ワインも鍋で煮立たせ、そこにスライサーで細かくしたチーズを入れ、混ぜ混ぜしていたのに、どういうわけかイメージ通りに解けないのです。
 挙句の果てにチーズは解けるどころか、今度は固まってきてしまい… まるで昔の湿布のシートのような状態?ゴムのような状態になり…
 そのゴムゴムグリュイエールをナイフで端っこを切り、食べてみましたが、グリュイエールの味もせず。持ち帰った貴重なチーズは、訳の分からないものに変身してしまいました
 夫と二人で、下準備したマッシュルームやブロッコリー、パンのお皿を前に大爆笑。グリュイエールチーズさん、ごめんなさい チーズ職人さん、お許しください
 どなたか、自宅で美味しくチーズフォンデュを作るコツ、ご存じありませんか?

 

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スイスでのお話①

2024年08月20日 | 楽しいお話し

 15日、関東に台風が接近していた前夜、滑り込みセーフで帰国しました
成田空港からネックスで東京駅に着くと、駅構内はごった返していて、びっくり。
 じつは、スイスでもゲリラ豪雨的な雨に見舞われ(夕方、バスで移動中での雨だったので、雨にあって難儀した、という訳ではありませんでした)、それが原因で道中の小さな川が氾濫。道をふさいでしまったため通行止めに。それでその日は予定していた目的地に付けず、急遽、別の町のホテルに泊まる というようなハプニングがありました。それが夜8時を過ぎての出来事でしたが、幸運にもホテルが見つかり、本当にラッキーでした
 みなさんよくご存知の通り、かなりの雨女の私なのに、今回は好天に恵まれ、全行程、「見るべきもの」「見たいもの」すべて見ることが叶い、本当に天のカミサマに感謝の旅でした

 スケージュールの詰まった旅程でしたが、時間を見つけては、なるべくたくさんのスイス人と話すようにして、今まで知らなかった「スイス」をたくさん知ること、学ぶことが出来て、大変有意義な時間となりました うんうん、なるほど、そうなんだね…と、考えることもたくさんありましたよ。
 でも、そういうことにをご紹介するのは次回にまわし… 今回はみながイメージする「きゃあ、スイス アルプスの少女ハイジの世界」と形容するスイスを、写真も登場させながらご報告します

 とにかく、スイスの旅行は概ね「風景、自然が相手」であり、天候に大きく左右されることを再認識。古代の遺跡を訪れる、寺院の壮麗さを眺める、芸術品を鑑賞する…ということであれば、百歩譲って雨であっても雪であっても大丈夫 でも、風景を楽しむことがメインの旅行となるとねえ
 今回は、エミレーツ航空利用だったので、ドゥバイを経由してチューリッヒに入りました。そこからはバス。陽気なイタリア語圏のスイス人のドライバーの運転で、最初の訪問地のサンモリッツへ。そこに着くまでにも、すでに湖や山々が見え、「ああ、スイスだ… イメージしていた通りのスイス。来たんだなあ」の気分。

 翌日は、ベルニナ鉄道に乗り、イタリアのティラノへ。そこからはバスに乗り換え、途中、ベルニナアルプスを満喫するため、ロープ―ウェイに乗って標高2984mのディアボレッツァ展望台に上がりました。目の前に広がる景色は、もう「ななななんだあ…」という気分。今まで、あまり耳にしたことのない「ベルニナアルプス」でしたが、白い峰々と、そこから伸びる氷河…圧巻でした

    
 ディアボレッツァ展望台に向かうゴンドラには、でかでかとGUCCI の文字

 私には馴染みのなかった「ベルニナアルプス」でしたが、鉄道ファンにとっての「ベルニナ鉄道」は、ブルージオのループ橋などで有名なのだそうです。

    
ゴンドラから見えたベルニナ急行の列車です 上りと下りの列車(どちらが上りか下りかわかりませんが、笑)

 到着の日とその翌日の

宿泊地、サンモリッツの町は、洗練された高級避暑地、という感じの町。久しぶりに聞くイタリア語にニヤニヤ。ちょっとした挨拶や注文をする時、片言のイタリア語が通じると、一人心の中で「ヤッタゾー」のガッツポーズ。言葉って、やっぱり楽しいですよね。

 次の目的地は、ツェルマット。朝、サンモリッツ駅を出発し、氷河鉄道と呼ばれる列車に乗り、アンデルマットという町へ ツェルマットまでこの列車でも行けるのですが、今回はアンデルマットでバスに乗り換え、夏期だけ通ることのできるフルカ峠、という峠を越えました。

   
 奥に見えている山の右側にジクザクに通っているのがフルカ峠越えの道です。

 そして、いよいよ「あの山」とご対面 とは言え、マッターホルンは高い山であるにも関わらず、どこからでも見えるという訳ではなく… ツェルマットに到着する直前まで見えないのです「もし、雲に隠れていないようであれば、この辺りから見えるのだけれど…」と言われ、まさに祈る思いで前方を見つめていると… 見えました ほんの少しだけ頂上に雲のかかった「あの山」が。
 小学校の頃に使ったノートの表紙や、銀行からもらい、リビングに貼ってあったカレンダー、等々。世界的に、美しい富士山も有名ですが、やはりマッターホルンほど世界中に知られた山はないのではないでしょうか?山の名前は知らなくても、誰もが生涯に一度はどこかで「見ることのある」特徴的な独立峰、です

 ツェルマットの町は、上高地のようにガソリン仕様の自動車は入れません。鉄道利用であっても、車利用であっても、ツェルマットの手前10分ほどのテーシュという町で降り、そこからは電車に乗り換えツェルマットへ入ります。
 雨女の私ですが、夫が晴れ男だったお陰で、ツェルマットで滞在した2日間、時々、部分的に雲で隠れる程度で、マッターホルンはずっと見え続けました。

      
       三日月とマンタ―ホルン

                   「キャンドルマッターホルン」と呼ばれる、頂上だけが朝日に照らされ、赤く輝く様子。この後、20分ほどで山全体が紅に染まりました

   
    スマホで撮った写真ですが、まるで絵葉書のように撮れました

 翌日は、今回の一番の目的「ちょっとしたトレッキング」です
ツェルマットから登山電車でゴルナーグラート駅(3089m)まで登り、リッフェルベルク駅まで2時間弱、登山のガイドさんと一緒に下る、というもの。途中、小さな湖リッフェル湖に映る「逆さマッターホルン」を見たり、薬草やハーブになるお花を見たり、まさに好天に感謝する時間でした

    
リッフェル湖の「逆さマッターホルン」 この後、3,4機飛行機が飛び、飛行機雲がマッターホルンと青空に映えました

 このトレッキングルートは有名で、you tubeにもたくさんあがっています。ガイドブックでも必ずといってよいほど紹介されていますが、そこには「スニーカーでも全く問題なし」というふうに書かれているものが多いのですが、私はやはり、スニーカーであっても、それほどグリップの効かないソールのものだとすると、この下り坂のルートは危険だな、と思いました 私と夫は、くるぶしまでサポートするような登山靴ではなく、今回はスニーカータイプの「登山用の靴」を持参し、この日はそれを履いていました。でも、何と言っても「下り」ですからね…
 確かに登りとは違い、あまり呼吸も上がらず「辛さ」という面では楽ですが、下り膝に負担がかかりますし、慣れないと大変です。その上、もし、滑りやすいソールのスニーカーでは、好天であっても、ハラハラになる そんなことを思いながら歩いていると、まさにガイドさんから同じようなお話がありました。
 その後、もう少し歩きたかったなあ…の気分ではあったものの、リッフェルベルク駅から下りの登山電車でツェルマットに戻り、今度は別の展望台「スンネッガ」に行きました。展望台があるスンネッガまでは、ずっとトンネルの中を通る電車でね。山々を眺めながら昼食 ホテルに戻ってからは、夕焼けに染まるマッターホルンを眺める…という至福の時間でした

 さて、次の日は強行軍。ツェルマットに別れを告げて、フランス領のシャモニーへ。
だんだん見慣れてきたとは言うものの、スイスの風景はどこを切り取ってもウットリです 遠望する高い山々、牧草地に放牧されているカウベルを付けた牛達(観光用に、決まったところで放牧されているわけではなく、本当に夏のシーズンは山にいるのだと聞き、驚きました 私はてっきり、観光客を意識して、わざわざ首にカウベルをつけさせ、放牧しているのじゃないのかな?なんて思わないわけでもなかったので)、点在するシャレ―… 標高が下がると、ワイン用のブドウ畑、リンゴやアンズの果樹園、飼料用のトウモロコシ畑、等々、すべてがカレンダーや絵ハガキのよう

 シャモニーにはお昼前に付き、ランチの後、今度はモンブランを見に「エギーユ・デュ・ミディ展望台」へ。ここは、途中で一つ乗り継ぎをし、ロープーウェイで標高1000m程度のシャモニーの町から、一気に3842mまで登ります。すご~く早く登れますが、スイスの登山電車のような風情はないなあ、などと思ってしまいました ロープーウェイの駅は世界中からの観光客でごった返していて…並んでいても割り込まれたり、暑かったり、少しうんざりしてしまいました。

    
 エギーユ・デュ・ミディ展望台から見たヨーロッパの最高峰「モンブラン」。山頂は雲の中

 でも、もちろん上に着くと、そんな気持ちも一気に吹っ飛ぶ ただ、ロープ―ウェイを降りると、一瞬フラリ。4000m近い高度はなかなか大変で、幸い頭痛はしませんでしたが、時々フワフワします。数か所ある展望台を巡るため、階段を登ったり下りたりするのですが、登りの時は2,3段上がると、すぐに息が切れる…
 残念ながらモンブランの山頂は雲に隠れてはいましたが、展望台からの360度の大パノラマ。5000m近い山々とたくさんの氷河は息を飲む眺望でした。

    
 モンブランの反対側 グランドジョラスの方向 氷河にはクレバスがはっきり見えます

 じつは、この後が大変でした
下りのロープーウェイも大混雑。シャモニーで一泊するのであれば「これですばらしい一日が終わった」となるのですが… 私達はシャモニーに下りてきた時、すでに3時を過ぎていて… それから、グリンデルワルドに移動の予定 もと来たフォルクラ峠を越え、そこからまだ延々と行かなければなりませんでした。そして、そんな過酷な道中で、最初の方に書いた「ゲリラ豪雨、云々」となったのでした

   

 でもね、見てください、この二重にかかった虹を スイスのトゥーン湖という湖の横を走っている時、この虹が見えてきました。肉眼では、もっとはっきり2つの虹が湖面からまるで這い上がっていくように、半円形に伸びていて… こんなすごくきれいな虹は今までに見たことないこれは吉兆か と思っていたところ、その20分後に渋滞となり、様子が不明。やっと状況がわかった時には「先の道が急な豪雨で通行止めになり、グリンデルワルドまで車では行けない」となり 
 バスの外は豪雨となり… それでも幸いなことに、停車してしまった少し手前の町、インターラーケンという町まで戻り、そこのホテルに泊まれることになりました。無事にホテルにたどり着き、部屋に入ったら11時半でした でも、泊まる所も確保され、最上の幸運

 幸い、雨はあがり、朝になると青空。道は復旧しないため、車で出発することは出来ませんが、臨時列車が出ることになり、予定変更をし、鉄道でグリンデルワルドへ
 そして、その翌日は天候も良く、問題なくユングフラウ・ヨッホに向かいました。
鉄道の世界最高地点(3454m)の駅、ユングフラウ。ここは、亡くなった両親達4人も訪れたところです。登山好きだったにも関わらず、いつも北アルプスに行くと高山病に悩まされた私の父は、母とユングフラウ・ヨッホに旅行した時もひどい頭痛で大変だった、と母が話していたことなどを懐かしく思い出しながら、リンツのチョコレートショップや、電飾ピカピカの氷像など、すっかりテーマパーク化された駅の中の施設を歩きました。この中でいると、そこが雪で覆われた高山にあることを忘れてしまいそうでした、ハッハッハ
 でも、一旦外に出て、スフィンクス展望台に向かえば、そこは別世界。目の前には、世界最大最長のアレッチ氷河。アイガー、メンヒ、ユングフラウの山々… 「絶景」「圧巻」「息を飲む」こんな言葉、すべてがピタリと当てはまる風景でした。

    
クライネシャイデック駅。電車の乗換駅であり、たくさんのトレッキングコースの起点ともなっています。後ろに見える山、左からアイガー、中央がメンヒ。右側、半分欠けているのがユングフラウ 写真を撮っている箇所に、数々の山岳小説を残した新田次郎氏の名前が刻まれた小さな碑がありました。ここからは三山がよく見えます。

 「幼児教室マナーズ、お疲れ様」の記念に、夫がプレゼントしてくれた今回の旅。どの瞬間も泣けてくるほどありがたいものでした。
 何度もツェルマットに訪れても、1度もまともにマッターホルンの姿を見られなかった、という人もたくさんいる、と聞きます…
 その日、その時間の風の状況に大きく左右され、頻繁に運行が取りやめられる、というエギーユ・デュ・ミディのロープ―ウェイ。お天気は良いのに、風が強くて登れなかった、という人も…
 登山電車でユングフラウ・ヨッホまで行けても、展望台のまわりは悪天候で真っ白。何も見えなないまま下山を余儀なくされた人…
 そんなことを知るにつけ、今回のように、大小いくつかのトラブルに見舞われても、そのつど上手く解決し、すべての旅程を全う出来たということに、ただただ感謝です
 決して大袈裟ではなく、これから生涯、この幸運に満ちた旅行であったことに感謝して、もっともっと万事に努力精進して生きていこうと心から思う旅でした。

 人の旅行の話は鬱陶しいかもしれませんが 次回は「スイスで知った、スイスのいろいろ」についてお話をさせてください

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8月10日、じつは、今…

2024年08月10日 | 楽しいお話し

 8月10日。学校の夏休みも、そろそろ半分を迎えたでしょうか?
我が子の学校生活が終わり、親から独立していく年齢になると、「季節の移ろい」を感じる基準がとても曖昧になるものです
 中間テストや期末のテスト、様々な恒例の学校行事、春、夏、冬の長期のお休み、始業式や終業式、等々… 親というものは、いかにそういう我が子の学校絡みの出来事を通し、季節を感じていたことか! それを実感するものです 
 子どもが巣立ってしまうと、ほとんど季節感のないルーティンの毎日が続き、それをこなしていくうちに1年がめぐっていく はっはっは、笑えますよ
 朝、我が子がお弁当を受け取る時の様子や、「行ってきます!」の声でその日の子どもの気分を憶測したり… 親に反抗的だったり、無関心を装う時期の子どもの、ちょっとした笑顔に安堵したり…
「ああ、子育ては本当に大変だ」我が子をこよなく愛しながらも、ちょっぴりタメイキをつく思いを味わう年月は永遠には続かないもの。
 そんなことは重々承知しているけれど、その渦中にいる時には「子育てを終えたら、どんなにホッとするだろうか」と、そんな日が来ることを願う日もある…
 でも 人生100年などと言われるようになった今、子育てに四苦八苦する年月は、100年近い人生の6分の1程度、の期間でしかありません
 もし今、あなたが子育てに苦労していたり、重ーい疲労を感じているとするならば、どうぞゆっくりぬるめのお風呂に入り、お風呂上りには好みの飲み物を飲み、そして深呼吸をして、気分転換をしてくださいね そして、翌日には笑顔で、我が子に向かう鋭気を養ってください

 8月10日、この日の「クラブマナーズ・ニュース」じつは、8月10日、私は旅行中です。
 何のトラブルもなく旅程が順調であれば、8月10日の土曜日は、朝、サンモリッツからグレーシャーエクスプレスと呼ばれる列車に乗って、ツェルマットに向かっているはず

 夫は、スキューバダイビングのインストラクターでもあり、若い頃から長年「海派」でした。なそんな夫とは、昔から「行きたいところ」という話題ではモルディブやグレートバリアリーフは頻繁に出ていましたが、なかなかヨーロッパアルプスの話しにはなりませんでした。
 一方、みなさんのご存知の通り、山派の両親の元に育ちました。
幼い頃から「マッターホルン、ていうのは英語の名前なんやで。イタリア側からもマッターホルンは見えるやろ。そのイタリアではチェルヴィーノって呼ばれてるんや」とか、「アルプスって言ったらスイスやと思いがちやけど、イタリアにまで続いててな。イタリアのアルプスにはドロミテって呼ばれてる岩ばっかりの山脈があるんやすごいで針山みたいな山が連なっててな…」などなど。山関連の話題は豊富でした。小さかった私でも、時々地図帳を広げ想像を膨らませ、ワクワクしたものでした。
 残念ながら、若年性のパーキンソン病を患った父は、50代ですでに普段の歩行も困難になり、夢見たヨーロッパアルプスのトレッキングは叶わずじまいで他界しました。そのことを思うと、普通に元気に過ごせていることの尊さを、ひしひし感じます

 夫は、学生時代は世論や石垣島に通いつめ、30代には4年近いインドネシア駐在。頻繁にあった海外出張も、海の美しい地域が多かったため、ある程度「海には満足」したようでした。
 そんな夫が、ひょんなことから上高地に魅せられて以来、山派デビュー。ランニングやトライアスロンで脚力、体力共に強靭だったことが幸いし、その後は穂高連峰や立山、劔連峰を楽しみました。まだ現役の夫は忙しく、なかなか実際の山行には至りませんが、今では一緒に山の番組を観たり、山の道具を見に行ったり…と、山派を謳歌しています。
 そして、今年からの私は… 「受験期が目前に迫って来る8月。子ども達の志望校と願書のことで頭がいっぱい。他のことは考えたくない」ということではなくなり、春、夫から「スイスアルプス、見に行かへんか?」という提案に飛びつきました 

 何と言っても自他ともに認める雨女の私です。天候ばかりが気になっています
まあでも、万事、なすがまま、ありのままを「吉」と受け入れ、楽しんでまいります 次の8月20日の回には、少しスイスのお話をさせてくださいね。

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