クラブ・マナーズニュース

マナーズを巣立たれたみなさま、縁者のみなさまとつながっていたい!そんな私が月3回「0」の付く日にブログをアップします!

ジュエリーで、コーヒーブレイク

2021年03月30日 | 楽しいお話し

 満開の桜が美しいです 
今年は、例年よりも桜の時期が早く、開花の後も気温が高いままだったので、一気に満開になりましたね。コロナ禍にあっても、自然の移ろいは粛々と・・・芽はふき、花は咲き、実は実る。悲しいくらいに、気持ちは和みますね

 今日は「春の保税展」のご案内をするのですが、その前に、ちょっと楽しいジュエリーのお話を聞いていただきましょう
 今日ご紹介をする宝石は、「トルコ石」と「ラピスラズリ」です。みなさんの宝石のイメージとは、ちょっと異質?なところに位置する宝石かもしれませんが、この2つの石は、ジュエリーの歴史の中でも、最も古い2つ、と言えるでしょう。
 まずは、「トルコ石」。
この宝石の原産地は、アフガニスタンやイラン、イラク、昔「ペルシャ」と呼ばれたあたりで、トルコでは産出されません。それなのにどうして「トルコ石」と呼ばれるのか?それは、この宝石がヨーロッパにもたらされる時にはトルコを通り、トルコの商いによって紹介されたものなので、フランス語で「トルコの石」、トルコ石となったそうです。
 宝石はね、「鉱物」です。大地からの貴重で高価な恵みです では、トルコ石はどのようにして誕生したか?ハイ、それは・・・むかーし昔、
アフリカ大陸の北東部の一部分がアフリカ大陸から分裂し、ユーラシア大陸に衝突します。ドドドーーーーン その衝撃によって、ぶつかられた側のユーラシア大陸で造山運動が起こります。その造山運動によって大量の「花崗岩」が生まれました。その花崗岩の中には「銅」や「アルミニウム」などの成分が含まれていました。
 このままでは銅やアルミニウムのお話になってしまいます。トルコ石が誕生するには、もう一つの要素が必要でした 前出の大陸が衝突する前、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の間には「テチス海」という海がありました ところが、大きな衝突のせいでテチス海は内海となってしまい、造山運動の末にとうとうテチス海の水分は干上がってしまったのです。長い長いながいーい年月の間に、テチス海に生息していた生き物達は地層の中に体積していきます。よく高山から貝の化石が出てきた、というのは、こういう造山運動を証明するお話なんですよね。そう、この「生物を由来とするリン」と「花崗岩の中の銅やアルミニウムの成分」とが合体し、トルコ石が誕生したのです
 正倉院に収められている円鏡「平螺鈿背(へいらでんはい)」には、たくさんトルコ石が用いられています。天平の時代、西暦700年代には、日本にトルコ石が入って来ていた すごいですねえ・・・

 では、次は「ラピスラズリ」のお話。
ラピスラズリは、日本では「瑠璃」と呼ばれていました。原産地は、トルコ石同様にアフガニスタンあたり。近年は、ロシアのバイカル湖近郊、チリなどでも産出されています。ラピスラズリは、ヨーロッパでは古くから顔料としても用いられ、「ウルトラマリン」、日本では「群青」と呼ばれる色です。このウルトラマリンは、ヴァチカンのサンピエトロ寺院内、システィーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた「最後の審判」の空の色であり、フェールメールも愛した色で、1800年代に人口のウルトラマリン色が開発されるまでは、金と同じ価格で取引をされたそうです。そりゃあ、宝石を砕いて絵具にするのですから、当然と言えるでしょう。
 日本で「瑠璃」と呼ばれたラピスラズリは、仏教の「七宝」の1つとして尊ばれました。(①金②銀③瑠璃④玻璃(クリスタル)⑤しゃこ(母貝)⑥真珠⑦まいかい(中国で珍重された紫色の貴石)注⑦⑧ サンゴ、瑪瑙(メノウ)と記したものもあり)
 トルコ石もラピスラズリも、あのツタンカーメンの黄金のマスクの装飾にもふんだんに使われていますから、すでに紀元前1300年には高貴な人々の大切な装飾品であった、ということです。歴史的には、紀元前7000年頃のインダス文明の遺跡からラピスラズリのビーズが発掘されているそうですよ。
 いやいや、ジュエリーは私にとって装飾品、魔除け、お守りであると同時に、エンドレスの学びであり、大きな大きなロマンです

 「春の保税展」は、下記の通りです。
コロナ禍にあることは、世界中どこでも同じで、世界のジュエリー達もなかなか発表されるチャンスがなく、出番を失い、眠っています。そういう状況下に催される内原の「保税展」です さあ出番だ~~~~!っと、たくさんのジュエリー達が登場します。バーレーン王国からの初出展、イタリア、アメリカからの初出展工房もありますし、ロシアのモイセイキンのジュエリーも久しぶりにやってきます
  開催日は、今回は11日間もありますが、私が会場に行けない日、時間もありますので、どうぞ下記でチェックをして、ご来場の日時をお決めくださいね。それから、保税展の場合のみ、ご来場は登録制です。事前に東京税関に入場申請をいたしますので、ご来場者全員のお名前をお知らせください。保税展のおさらいは、「保税展」でどうぞ

4月9日(金)、11日(日)、16日(金)、18日(日)、23日(金)、25日(日)、29日(木・祝)、30日(金) 以上8日間は、午前10時30分~午後6時まで

4月10日(土)、24日(土) この2日間は、午後1時~午後6時まで

会場は、内原東京保税蔵置場(ガレリアUCHIHARA B2ホール) 港区六本木7-2-7

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母のジュエリーを身につける・・・

2021年03月20日 | その他

 緊急事態宣言が解かれます でも、実際には何も変わらず、ですね。変異型ウイルスの感染も広がってきているようですし。何せ、解除するタイミングとしては時期が悪い 年度替わり、そして桜の開花。もう、リバウンドは想像に易い・・・
 ただ、さすがに最近は思います 今は「withコロナ」の世の中です。各自がしっかりと対策をし、粛々と暮らしていくこと。すべて、何もかもを怖がって、まったく行動をしなければ、本当に「何も出来ない、こもったまま、寝て起きて食べる」の繰り返しだけ。そんな月日がひたすら続き、心、気持ちが疲弊してしまうのではないでしょうか・・・
 
 恐縮ですが、母の話を書かせてくださいね。
亡くなった母が、楽チンな余生を願い、父が晩年を過ごした介護施設に引っ越しをした日から、そろそろ1年になります。昨年の3月23日が、引っ越しでした。
 昨年は桜の開花が遅くて、母が引っ越しを終えた頃は、まだまだ蕾堅し、の状況でした 私は「4月13日、お母さんの89歳のお誕生日のお祝いに次の帰省をする頃、桜は満開になるよ、きっと。その時のお花見を楽しいにしてるわね」と言い残し、東京に戻りました。
 母は、父が存命中、介護施設の方にお手伝いをいただき、車椅子の父と一緒に施設の前の公園にある桜並木を散歩したことが、とっても大切な思い出でした。なので、母は引っ越しをしたら、スニーカーを履く練習をして(母は革靴一辺倒で、なかなか私が勧めるスニーカーを普段履きにしてくれなかったのです)、思い出の桜並木を散歩するの!と、それを何よりも楽しみにしていたのです 
 ところが、4月7日、東京にも大阪にも緊急事態宣言が発令され、私の帰省は叶いませんでした。その上、桜が満開になっても、感染予防上、母は介護施設から一歩も外に出ることも出来ず・・・
 「桜の木は逃げては行けへんもんね。今年は辛抱、辛抱 公園の桜ね、窓を開けたら、ちょっとだけだけど見えるんよ 来年までお花見はお預けやね、ふふふ。」
 花が開花している間、電話をするといつも、母はそう言って笑っていました。まさか、その「来年」は母には来なかったなんて、夢にも思わなかったです、あの頃は。

 今年の桜は、とっても早いですね。昨年、このタイミングで咲いていてくれていたなら、母の願い通り、公園の桜並木をお散歩できたのになあ・・・と、残念でなりません 桜が大好きな私ですが、今年はちょっぴり、寂しい思いの桜の開花
 でもね、桜を眺めて、私が悲しんでいては、母は絶対に喜びません 「何その顔 あかんあかん、暗い顔は、心まで暗くしてしまうよ」という母の声が聞こえてきそうです。
 じつは・・・私には、ステキなお花見のプランがあるのです 
それはね、私は母の指輪のサイズ直しをしました。イヤリングは、ピアスにリフォーム また、母が気にいって着ていた10点ほどのお洋服も、私のサイズに直したんです 
 ご存知の方は少ないですが、私の母は「5号サイズ」が着れるような体型でした。なので、ボタンの位置を変えるとか、脇を2センチずつ出す、なんてことでは、まーーーーーったく私は着られません、はっはっは ただ、母がリタイアをしてからのここ4,5年は、同じブランドの服を気にいって着ていることが多かったため、大阪、東京、双方のお店の方達が無理難題を快く引き受けてくださり、両脇に襟と同じレースを入れてくれたり、タックの数を減らしたり、と苦心惨憺。私の願いを叶えてくださり、私が着られるようにリフォームしてくださいました
 指輪のサイズも、母は7。実際には6でも良いのですが、節の高かった母は、余裕をもって7に ですから、こちらは残念ながら、デザインによっては私のサイズへのお直しが叶わなかったものもありました。
 でもね、写真立ての中で、笑顔で私と並んで映る母、その母が着ているお洋服が、今は私のクローゼットの中に何枚もあり、引出しを開けると、母が大好きだったリングやネックレスが、並んでいます
 桜が咲いてきたら、私は毎日、母のお洋服を着て、母のジュエリーを身に付けて、散歩に行こうと思います、スキップ気分で

 「ジュエリーにはパワーがあり、自分を守ってくれる魔除けでもあります」これは、私がいつも話すことです。
 そして・・・母が残してくれたジュエリー達には、宝石の力にプラスして、母が私を守る力も加わる
 今度、これらを私の娘が身に付ける時には、ジュエリーのパワーと、祖母と、母に、守られる 真珠はね、残念ながら有機物なので、年月が経過すると色や照りの劣化は否めませんが、宝石は「鉱物」ですからね まさに、エジプトのファラオ達、オスマンのスルタン達のジュエリーが今でも燦然と輝き美しいように。

 お洋服も、ジュエリーも、お着物も、正直、母と私の好みとはかなり違っていたのですが・・・不思議とリフォームをしたお洋服もジュエリーも、今は私の大好きな逸品達になりました 不思議です

  「春の保税展」の予告   (詳細は、次回、30日に)

開催日:4月9日(金)、10日(土)、11日(日)、16日(金)、18日(日)、23日(金)、24日(土)、25日(日)、29日(木祝)、30日(金)

会場:内原東京保税蔵置場(ガレリアUCHIHARA B2ホール) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今、私達にできること

2021年03月10日 | その他

 明日の「震災から10年」を目前にして、日本中、ここ10日ほどはあらためて震災関連の番組やニュースを放送しています。
 あの日から数か月は、毎日のように「揺れ」を感じ、テレビをつけてもCMなし。買い物に行っても入荷していないものもある、という異様な空気に包まれた私達でした。
 当時、幼稚園児だった子ども達は中高生になり、小学生は大学生や社会人になりました。おじさん、おばさん達は、10年経ってもおじさん、おばさんのままですが、見た目や体調は少し?かなり?変わったでしょうか・・・
 時の経過や状況の変化には関係なく「誰もがいつも『相手を思う心』を持ち、『他の人のために一生懸命になること』が真の優しさ」だと私はいつも考えています。そして、そういう「真の優しさ」を持った人でありたいと、常に言い聞かせています。

 「私達にできること」「空っぽの商品棚」これは、私が「まどか先生の ママ達のおやつ」に書いたブログです。一つ目が、2011年3月14日、二つ目が、2011年3月18日。あらためて10年前の「私」が何を感じ、考えていたのか?を読み返してみました。
 まだ、娘は菊名の家で一緒に暮らしている頃で、息子も娘も共に、目前に大学の卒業式を控えていましたが、もちろん、どちらの大学も卒業式は中止されました。
 息子は、たまたま大学最後のダイビング部の合宿で石垣島に行っていて、地震の時間は石垣島から沖縄本島に移動した直後で、羽田空港への乗り継ぎ便を那覇空港で待っている時。テレビのニュース速報で地震のこと知り、彼には「揺れの実体験」はありません。(ただ、予定通りには東京には戻れず、2日後に彼の家に戻った時には、書棚が倒れ、おびただしい数の本が床に散乱。揺れの大きさを初めて実感したとのことでした。)
 揺れたあの時間、娘は有楽町のアルバイト先。2回目の揺れが収まった時点でお客様を誘導して建物の外へ。その後、店を片付け、横浜の家に戻ることは断念し、アルバイト先の人と一緒に歩きだし、早稲田近くのお友達の家に行きました。(その時、一緒に歩いてくれた「アルバイト先の人」が、8年後、娘が結婚する相手、でした)
 誘導して外に出てもらったお客様の中には、ベビーカーに赤ちゃんを乗せた女性おいでになったそうで、娘は歩きながら「あの人は、あの後どうしたのだろう?今頃どうしているのだろうか?」とずっと気になった、と話していたことを今でもよく覚えています。

 10年の歳月。
被災された方々の10年と、私達の10年とは、全く違う意味を持った年月だったに違いありません。「本当の痛み、辛さ」を同じように感じることは出来ません。
 でも、だからと言って私達が何も出来ないわけではない
 私達にできること。その、「私達にできること」を、粛々としていくことが、被災者の方々と共存することだ、と私は感じています

 

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