クラブ・マナーズニュース

マナーズを巣立たれたみなさま、縁者のみなさまとつながっていたい!そんな私が月3回「0」の付く日にブログをアップします!

50年ぶりに、フランスが近くなりました?!

2024年09月30日 | 楽しいお話し

 今日は、語学がらみの、私の大昔の思い出話にお付き合いくださいね
海外に行くと、たくさんの気づきや、想定外のびっくりなど、様々なことがあるものです。今、私は66歳。初めての外国は、高校1年生の夏、家族とアメリカのアラスカ州をキャンピングカーで旅をした1週間でした じつは、そのアラスカの自然に魅せられた父は、翌年の夏にもアラスカ行きを計画。1年目に果たせなかったデナリ国立公園(当時は、マウントマッキンレー国立公園と呼ばれていました)に行きました。
 1970年代、「初めての海外旅行はハワイ」というのが一般的だった中で、アラスカ、というのは、かなりレアなケースでした 写真好きだった父は、一眼レフカメラも8mmカメラ(当時はまだ、ビデオ撮影用の機器はなく、動画は8mmカメラでした)も持参するため、たくさんのフィルムを買いに行きつけの写真屋さんに行ったところ、「えっ、どこに行くって?アラスカ、アラスカ?それってどこや、北極か?ペンギンとか白熊とか見たいんか」と言われたものです。
 初年度のアラスカは、まさに珍道中でした。両親共に英語は話せませんし、私も高校1年生です。州都であるアンカレッジで借りたキャンピングカーを運転した父。初めて給油のためにガソリンスタンドに行くと… 通じません
 まず、ハイオクガソリン「high octane 」が通じない。次に満タンという意味での「full」の発音にも苦戦。「F」と「L」ですからねえ

 まあ、山ほどの「気づきとびっくり」に恵まれ、はっはっは。旅行そのものはすこぶる楽しいものでしたが、同時に、身に沁みて「英語を話す必要性」を痛感。帰国後、すぐに父の命令で、私は「英会話スクール」に通うことになりました。
 私は大阪の、一応女子大まである一貫校に通っており、すでに他大学の受験はしないことに決めていたので、英会話学習は大学受験勉強と同じ重さを感じながら、まさに「寝る間を惜しんで」猛勉強、猛練習 3年半かけてそのスクールの全課程を修了しました(とは言え、現在の私の英語力はすっかりお粗末になり、海外旅行で困らない程度、というものになり果ててしまっています)。そして、その英会話学校は後々、私が大学卒業後、就職をするところとなります。

 25歳で結婚するまで、父の仕事に同行したり、短期留学をしたり(大学時代、アメリカへの大学への留学を熱望しましたが、暴君の父に拒絶され、断念)、大手の旅行社で添乗員兼おねえさん役で海外で開催されるサマーキャンプ等に同行したり、英語を使いながら若さを謳歌しました
 それほど英語を話すことには不自由しなくなった当時の私は、「英語という言語はオールマイティーだ」という思いがありました。
 結婚後は、夫のインドネシア駐在以外、旅行で海外に行くということはなくなりましたが、夫の仕事がら、妻として、海外からのお客様を妻として一緒にアテンドする機会は多く、英語はいつも私の側にありました。
 そして、すっかり子ども達も成長し、独立して以降、私が50代に入り… またあらためて海外に目が向き始めました。もともと、異文化に興味津々の私です 世界遺産や、世界の街歩きの番組、たーくさんのYouTubeにアップされている動画を見るにつけ、「ああ、ここにも行ってみたい!」「きゃー、これ、見てみたい!」とワクワクが止まりません

 それでもね、どうしても食指の動かない国がある… それは、フランス
小学校4年生に観た映画(題名も忘れてしまっているのですが)で、モンサンミッシェルを見て以降、ずっと「いつかはここに行ってみたい」と強く強く思っているにも関わらず、どうしても行けない… なぜかって?
 
 またまた古い思い出話に戻ります。それは、今から44年も前、1978年の春の出来事です。
スイス旅行に関して書いた前々回のブログの中で、私は「20歳のお祝いということで、その前の年、19歳の夏、テキサス州で開催された国際ユースキャンプで知り合ったヨーロッパ出身の仲良しのお友達のお家を巡る旅をしました」と書きましたね。
 その時、私はスイスのIsabelleが住むSionという町に入る前、フランスの友人を訪ねました。
 Patrickは、パリから遠く離れたオーベルニュ地方の小さな小さな町「Ambert アンベール」というところに住んでいました。そう言えば、オーベルニュ地方は天然水で有名な地方です。2020年まで日本でも長年販売されていた「Volvic ヴォルヴィック」は、この地方の代表的なミネラルウォーターですよ
 友人の住むアンベールの町は山間のとても小さな町でね。鉄道は通っていなくて、オーベルニュ地方の中心地「Vichy ヴィッシー」という町まで、超ローカルな電車に2時間ほど揺られていくところ。ヴィッシーからも約50キロ。峠越えをする車で1時間ほどの町でした。
 
 当時は、当然のことながら、とんでもないアナログの時代でした。
約1ケ月間の、ほとんど電車移動での必需品であり、移動の糧だったのは「トーマスクックの時刻表」と「ユーレールパス」という切符でした。
 みなさんは「時刻表」なんてご存知ないかも。時刻表は日本でもありましたよ。携帯することが多いので、軽量には出来ているけれど、とても分厚い本でね 「すべての駅の電車の発着時刻と、注意書き」が記載されているのです。その「ヨーロッパ版」が、トーマスクックの時刻表でした。
 当時は、私が住んでいた大阪では手に入らず、日本で扱っていたのは新宿の紀伊国屋書店本店、1店舗だけでした。オレンジ色の表紙のトーマスクックの時刻表。
 追加で敢えて書きますが、当然、当時はメールもLINEもない つまり、インターネットのない時代です。私が「〇〇さん、あなたのところに行きますよ。最寄りの駅に着く日と時刻は…」と知らせる方法は「Air mail」郵便です ヨーロッパの場合は、その手紙が先方に到着するまで約1週間かかりました
 私がそのお祝い旅行で訪れたのはベルギー、デンマーク、オランダ、フランス、スイス、オーストリアの6か国。各国に住む友人達には、訪問することの可否を確認した上で、ヨーロッパの鉄道地図と、そのトーマスクックの時刻表を使って調べ(乗換案内もNAVITIMEもありません、笑)、「私は〇日の〇時〇分に〇〇駅に着きますよ」と知らせていた、という訳です。びっくりですよね、ほんと。

 ところが、私は、フランスの計画中、とてつもなく大きなミスを犯していたことに気づいていませんでした
 私は「その日」の朝早くにアムステルダムを出発 国際列車に乗ってパリに到着。パリには複数の駅があり、私は到着した駅とは違う駅に移動しなければなりませんでした。タクシー乗り場からタクシーに乗り、運転手さんには、メモを見せながら「Gare de Lyon, S'il vous plaît !」そのくらいは言えました。通じて、一安心
 そして、ヴィシーに向かうべく、決めていた急行電車に乗ろうと、時刻表に記載されたホームまで行くと…その電車がありません。「えっ?このリヨン駅、始発駅だよね。な、な、なんで電車がホームに停まってないの
 私は大きなスーツケースをゴロゴロ引っ張りながら歩き、駅員さんらしき人を見つけては英語で話しかけました。「Excuse me!」ところが、私がそんなふうに話しかけた駅員さん全員が「Non!Non!」と手を顔の前に出して拒絶。
 やっと、広い駅舎のオフィスのようなところを探し当て、時刻表を見せながら話しかけても、「Je ne parle pas anglais!私は英語が話せない」「Je ne sais pas!わからない」と、ニコリともしない表情で、フランス語が戻ってくるだけ。
 パリは首都でしょう?たくさんの外国からの観光客だって来てるでしょう?そんな人達、みんなフランス語を話してる訳じゃないよね?なんで?ねえ、なんで
 私の頭の中では、グルグルと怒り?悲しみ?が巡り、ひと言では表せない、何とも言えない思いが溢れ、わああああああああ!と叫びたいような思いでした… ああ、フランス人は本当に英語を話さない人達なんだ…
 英語で質問する私を拒む人達の様子は、その人が英語が話せるのか話せないのか?ではなく、フランス語を話さない私を拒絶しているとしか思えない空気。確かに、そういう拒絶の空気が存在していたのでした
 困り果てた私は、本当に泣けてきてしまい…腰が抜けたようにベンチに座り、時刻表のそのページを広げて、呆然としていました。
 そこに座っていたのは、今の66歳の東洋人のオバサンではあいませんからね。自分で言うのも何ですが、決してみっともない格好をしていたわけではないのですよ。それなりの装いをした、20歳の女の子だったのですが・・・

 そんな様子で、どのくらいの時間が経過していたのでしょうねえ。その私に「Something wrong?」と声をかけてくれた人がいました イギリスから来た旅行者だという黒人でした(もちろん、イギリスから来た、というのは後でわかったことですが)。
 私が英語で事情を説明すると、「Oh,very sorry・・・」と言い、私の膝から時刻表を取り上げて、熱心にチェック。そして、ちょっと困ったような笑顔で、ページの一番下に書かれた*印の部分を指差してくれました。
 小さな小さな字で、でも確かに書かれてありました。「〇月〇日は運休」と。まさに、不運なことに「その日」がドンピシャリ、その運休の日だったのです
 その次の列車は、3時間後、でした。「あまり時間的余裕がないので、行くね!時間があれば、悲しんでいる東洋人にコーヒーでもご馳走したいんだけど」私は、何度も何度もお礼を言い、見送りました。去っていくそのイギリス人の後ろ姿に、思わず手を合わせた時の思いを、今でもよく覚えています。

 公衆電話を探し、友人のPatrick宅に電話 携帯電話も、スマホもありませんからね。お母さんと思しき人が電話に出てくれて「Patrick, Japanese friend, car, Vichy, station」とゆっくりと繰り返してくれました。
 パトリックはすでに、私を迎えるために、車でヴィシーに向かった、ということなのだろうな、と思いました。「Merci,merci beaucoup!」と何度も言い、電話を切りました。
 もう、パトリックに私が3時間遅れる、と伝える術はありません…
 仕方なく、私はパリのリヨン駅での3時間、後学のために駅構内のカフェにでも入ってみようと思いました。が…駅のカフェはどこもごった返し、私の大きなスーツケースは邪魔で、どこかに預けなければカフェには入れません。
 やっとの思いでコインロッカーを見つけはしたものの、空いているのは上の方だけで、私の大きくて重いスーツケースはそこまで持ち上げられない… 私はカフェを諦めました。
 私は、またまた空いているベンチをフラフラと探し、やっとのことで見つけた席に座り、本を読もうとバッグから出して広げましたが、ほとんど内容は頭に入って来ません。ずっと聞こえてくるフランス語、フランス語、フランス語…

 少し出発の遅れた電車が、目的地のVichy駅に到着。すでに夜9時近くになっていました。
ホームに降り立った私に数人の若者達が駆け寄りました。「Madoka~ Welcome Welcome」とPatrickと一緒に迎えに来てくれた彼の友人達。私は一気に緊張が解けて、大号泣
 彼らはVichy駅に着いてから、私が知らせていた電車が運休であることを知り、大いに心配して待ってくれていたのだそうです。
 喉カラカラの私を潤してくれたのは、彼らが手渡してくれたオーベルニュの微炭酸の天然水。あの時のお水のおいしかったこと…
 それからの3日間、小さな町、Ambertでは確かにフランス語に囲まれた生活でしたが、教会の神父さんも、Patrickの学校の先生達も、もちろんPatrickのご両親、お友達も、みんなみんなとの時間は、心の通じる温かい時間 別れる時は、またまた涙、涙、でした
 じつは、その後、パリに戻る電車の中でも、到着したパリのリヨン駅でも、言葉に関するひと悶着は諸々あったのですが、もう十分なので、書きません。

 とにかく、1978年の春に経験した、あまりに辛い時間、空気がトラウマとなり、「フランスの人達は英語を話さない。英語を話したがらない。フランスは、英語の通じない国、だから、フランス語が話せない私は、フランスには行かない」という思いだけが残りました。
 もちろん、その経験は「英語だけでは十分に外国の人達とはコンタクトは出来ない」という良い教訓も残し、語学の学習が好きにはなったのですが…

 この夏のスイス旅行は「山めぐり」が目的のツアーだったので、旅程の中に「シャモニーからロープ―ウェイに乗り、エギーユ・デュ・ミディ展望台からモンブランを見る」が入っていました。図らずも、シャモニー、つまり「フランス」です
 まあ、今回はツアーですからね。個人で交渉する必要はないので安心ですし、ランチをして、展望台に登る、だけですから、フランス国での滞在は5時間程度。それでも、私はスイスから車で国境を越え、フランスに入った時点から緊張というのでしょうか…

 ランチをしたレストラン 最初こそ「Bonjour!Bienvenue!」でしたが、その後は「What would youlike to drink?」「Is everything OK?」え、え、えいごです
 名札を見ると「Irène」さん。列記としたフランス語の名前です。まあでも、観光客の多いシャモニーのレストランですし、中の広さから鑑みると、海外からのグループツアーを受け入れることも多いだろうから、決まり文句くらいの必要な英語は話せるのだろう…
 ところが、です
 展望台行きのロープ―ウェイの係員のおにいさんも、一緒に列に並んだ「パリから」と「ニースから」というフランス人の観光客も、多くの人が英語で話しかけてくれました。それも笑顔で
 あの時、木で鼻を括ったように「Je ne parle pas anglais!私は英語が話せない」「Je ne sais pas!わからない」と言っていたフランス人はどこに消えたのか?あれはもう、私の「記憶の中」にしかいないのか?
 50年間の私の中の「辛いフランス」は、3842mの展望台で、モンブランやグランドジョラスなど、雪をいただいた山々の絶景の中に消えました

 時代は20世紀から21世紀へ。世の中は大きく変わりました。世界も狭くなっています。ヨーロッパの絶景だって、20時間近く飛行機の中で座らなくても、スマホで、パソコンで、テレビの画面で、インターネットを使えばライブ映像だって見られますし、話す場合だって有線の電話の必要もなく、すぐに外国と繋がり、簡単に話せます。
 そんな時代になっているからこそ「コミュニケーションのツールとしての言葉」を必要とし、やはりその時の共通語として、人々は「英語」を選んだようです
 果たして、この50年間で、どれだけ日本人が「英語を話せる国民になったか?」はかなり疑問ではありますが、どんな事柄であっても「道具、ツールは、使いこなせるほうが良い、便利」ですよね

 最近、YouTubeでよくモンサンミッシェルの映像を見るようになりました。本当は、とっても遠いところだけれど… 私の中では、ググっと近くなったように感じています、そこはフランスだけれど

 「秋の保税展 2024」 

10月18日(金)、19日(土)、20日(日)

10月24日(木)、25日(金)、26日(土)、27日(日)

11月1日(金)、2日(土)、3日(日・祝)、4日(月・休)

 * いずれの日も、午前10時30分 ~ 午後6時
 * 会場:内原東京保税蔵置場(ガレリア UCHIHARA B2ホール)東京都港区六本木7-2-7

 保税展は一般公開されない催しで、保税展の性質上、東京税関の管理下におかれています。来場には、事前登録が必要です。ご来場日時が決まりましたら、必ず事前に私にメールで来場者のお名前をお知らせくださいね

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「秋の保税展 2024」と、鉱物のお話し

2024年09月20日 | 楽しいお話し

 「秋の保税展」のご案内をする季節がやってきました
秋の保税展は、ピタリと神奈川校の面接、考査の時期、東京校の面接の時期にかぶります。ここ10年は、11月にも開催日が設定されるようになったので、まさに何もかもが重なっていたのでした 
 うれしいことにジュエリーマナーズファンの方々は年々増えていき、特に春と秋にしか開催されない「保税展」の人気は高く、この時にしか日本にやってこない世界のジュエリーを楽しみに待っていてくださる方は多いです。
 けれど、「まどか先生」としては、秋の保税展は完全に正念場と重なるため、とてもとても複雑な思いでした… この時期は、妻であるよりも母であるよりも「まどか先生」でしたから。毎年、面接や考査のことで頭がいっぱい。赤い爪を眺めながら、常に自分を鼓舞する時期 だからこそ、この時期に重なる保税展で、ジュエリー達から発する絶大なパワーにも感謝をしていました。
 保税蔵置場である乃木坂のガレリアUCHIHARAの地下ホールで、届きにくい電波を気にしながら、「今、無事に面接が終わりました」や「これから面接に向かいます」などのメールを受け取り、ホッと胸をなでおりしたり、目を閉じて、祈ったり…  この時期だからこそ、宝石のパワーを一層「感じて」いたかもな、とも思っています
 世界からやってきた1000点を越える宝石達に囲まれると、全くジュエリーに興味のない「夫達!?」や子ども達まで、会場に入ると「おっおー…」の声。
 今年からは、ここで得るパワーを誰かに送る必要はありませんが、私の元気とやる気にチャージします
 今日は、単に味気なく保税展の会期をお知らせするだけではなく、ちょっとした宝石のお話をごしましょうね。

 ダイヤモンドやエメラルド、ルビーのように「宝石」と聞いて誰もがすぐに思い浮かべるような石もありますが… 私は、頻繁に思い出す「美しい石」があります。それはキラリンキラリンの宝石ではなく、エジプトに行った時に見た採掘品。
 カイロのエジプト博物館で見たあのツタンカーメン(正確には「トゥト・アンク・アメン」大気の神、アメンの生き写し、という意味)の墓から出てきた装飾品の数々。
 「胸飾り、耳飾り」は、トルコ石(青緑色)、ラピスラズリ(瑠璃色)、カーネリアン(赤褐色)で装飾されていました。それらの石は、金の台にはめ込まれています。確かに、金はキラキラしている… でも、その前に立ち、眺めていると、あくまでも主役はキラキラの金ではなく、その青緑や瑠璃色、オレンジ色の石達のように思えました これらが作られたのは、紀元前1500年~1600年。
 宝石好きの私ですが、その時、あらためて「石、鉱物」の美しさに魅せられたのでした。あれ以来、私は世界の遺跡から発掘される王や貴人達が用いた「美しい鉱物」に目を留めるようになりました
 もちろんこれは実物を見たわけではありませんが、中米のマヤ文明の出土品、大量のヒスイを使ったお面やボトル。マヤ文明は2000年近く栄え文明ですが、この出土品は、A,D700年あたりのものだということ。
 ペルーのモチェ文化からの出土品には、金台にトルコ石の装飾が施された飾り。年代としては、紀元0年から700年あたり。
 こういう出土品を興味深く見ていると、人類は太古から、そういう「美しい石」に惹かれ、それらの貴重な石に宿るパワーを感じ、信じ、神に祀ったり、捧げたり、そして身に付けたりして、お守り的な装飾品として大切にしてきたのですよねえ…

 石、鉱物が持つパワー 私は信じますねえ… それが「きれいな石」であれば、なおさらです。
地理的に決して「お隣さん」とは呼べない文明同士であっても、年代も大きく違う文明であっても、美しい石を崇め、珍重した理由、それは、それら美しい石に宿るパワーを感じ、そのパワーを信じたからに他ならない…そう私はそう思っています。
 私がジュエリーを毎日欠かさずに身に付ける理由。それは、きれいな宝石だから、身を飾るために付けるということではありません その宝石にパワーがあるから、そのパワーを感じるから、なんですよね ふふふ、またまた熱弁をふるってしまいました。

 そう言えば… 私の孫は2歳半になりました。
月に2度ほど、保育園にお迎えに行くのですが、その孫は、よく帰り道、歩いている時に小さな石を見つけては「ばばちゃん、いし、ひろう」と言って手に取り、「このいしね、ぽけっとにいれる~」と言い、大事に持って帰ります。それをコレクションにしている、ということを娘から聞いたことはありませんが、少なくとも持ち帰ったその日は、帰宅すると大事そうにポケットから自分で石を出して(その日によって1個だけのこともあれば、2個や3個のこともあります)、テーブルの上に並べて、嬉しそうに眺めます
 彼が選んでいる石は、よくお家の前、ちょっとした植込みのところに敷かれた緑や白、茶褐色のツルツルした「きれいな石」ではないのですよ。アスファルトの道の端っこや、電柱の下にあるような、いびつな黒い石 でも、なぜかその石達は彼にアピールする、んでしょうね。
 そんなことが何度も続くので、私は考えました…「むー… 幼いからこそ、原始的な感覚があって、その石に何かを感じるのかなあ?」なーんてね。はははっ、考えすぎかっ

 それでは、ここでさっき話した出土品の「きれいな石」について。
トルコ石、ラピスラズリ、カーネリアン(日本語では紅玉髄 べにぎょくずい)の他にも、きれいな色の石にありますよ
 たとえば、瑪瑙(メノウ)や柘榴石(ざくろ石)、マラカイト(孔雀石)、緑柱石、碧玉などがそうです。一般的に「半貴石」と呼ばれるものですね。
 「えっ?半貴石って何です?『半貴石』ってことは、『半』の付かない『貴石』もあるってこと、でしょうか?」という声が聞こえてきそうです。
 じつは、貴石と半貴石には、きちんとした定義はそれほどありません。シンプルにお答えすれば、このようになります。
 貴石・・・世界中で宝石として認められている鉱物の中でも希少性が高く、どこでも珍重され、高額で取引される宝石。貴石の中でも4大貴石と呼ばれているものが「ダイヤモンド」「ルビー」「エメラルド」「サファイア」
 半貴石・・・美しい鉱物ではあるものの、それほどの高い希少性は認められず、硬度の面で貴石よりも比較的低いもの。
 でもね「希少性」という面だけで言えば、ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、サファイアより、はるかにはるかに希少性が高く、希少性が高いが故に高額なもの、はいろいろあります。
 その代表的なものが、最近、少しだけ知られるようになった水色の宝石「パライバトルマリン」かもしれません
 ただ、ここで「希少石」について話を向けてしまうと、どんどん話題の裾野が広がってしまうので、この希少石に関しては、また別の機会にお話をするとして、「きれいな色の石」に話を戻しましょう。

 太古から珍重されてきたのがトルコ石とラピスラズリ、カーネリアン。そして、先ほども書いた「瑪瑙(メノウ)」や「柘榴石(ざくろ石)」「緑柱石」「碧玉」について、もう少し。
 「柘榴石(ざくろいし)」の中でも、跳びぬけて美しいものは「ガーネット」と呼ばれています。
 「碧玉(へきぎょく)」の中でも半透明で美しいものは「翡翠(ヒスイ)」として扱われます。ここでまた脱線して、ちょっとその「ヒスイ」のお話を。
 10年ほど前までは、香港の複数のブランドから、ヒスイはよく保税展にも出品されました。ヒスイを専門に扱う工房もあったほどです。
 それに「ヒスイ」という名前が日本人に馴染みがあるのは、昭和50年台頃までは、和装の「帯留め」などにも使われる宝石だったから、だと思います。
 ところが 中国の経済力がどんどん上がるにつれて、日本に入ってくるヒスイが激減 今では世界の宝石業界に流通するヒスイはほとんどない、と言っても過言ではありません。
 なぜならば、ヒスイ、つまり碧玉は、中国の方々が大好きな宝石だから、なのですね とは言っても、ヒスイは中国で産出されるわけではなく、世界最大の産出国はミャンマーです。
 清王朝時代に中国に伝わったヒスイは、またたく間に高貴な身分の象徴となり、置物から食器に至るまで、あらゆるものに使われ、非常に尊いものとして珍重されました 中国の博物館には「ヒスイで出来た〇〇」という国宝級のものがたくさん出展されています。中国では、伝統的にそういう意味を持つヒスイ、なのです
 中国の人々の暮らしが豊かになった今、その「豊かさの象徴」であるヒスイは、太い腕輪として男女を問わず、愛されています 敢えてブレスレットとは呼ばず腕輪と表現したのは、それほど「太い形状」だからなのです 
 中国のあの人口ですからね。富裕層の多くが「腕輪」をするとしたら… 当然、他国には流通しなくなるのも想像に易い。なにせ、指輪なんて「小さな細工」ではなく、腕輪ですから

 次にご紹介するのは「緑柱石(りょくちゅうせき)」。鉱物学では「ベリル」という石、鉱物です。
 そのベリルは、含有する成分によって色合いが違ってきます。つまり「ベリルは〇〇色の石、鉱物です」とは言えません。
 鉄分を多く含むとブルー系となり「アクアマリン」と呼ばれ、マンガンを多く含むと、淡いピンクになり「モルガナイト」と呼ばれる宝石になります。
 せっかくなので、このモルガナイトの豆知識を披露しましょう。どうして「モルガナイト」と呼ばれようになったか?
 それは、アメリカの財界人J.P.モルガン氏が関係します。彼は、じつは無類の宝石愛好家でもあり、宝石業界にも多額の投資をし、貢献しています その彼にちなんで、この淡いピンク色の宝石を「モルガナイト」と呼ぶようになったと言われています。
 最後に「マラカイト(孔雀石)」は、エジプトが繁栄した時代から使われている美しい深い緑色の石です。このマラカイトを細かく粉になるまで砕き、それを絵を描くための顔料としても使われました。そう言えば、この粉をクレオパトラがアイシャドーとして使っていた、なんてお話もあります、ふふふ。

 宝石には興味がない、あまり身に付けない、という方も少なくありません。でも、だからといって知らんぷりをするにはもったいないほど、宝石を「様々な角度」から見ることによって、面白い話はたくさんあるものです
 宝石の中でも、最もポピュラーなダイヤモンド。誰もが「ダイヤモンドは知ってる!」と思うものですが… もう少し深堀りすると、もっと「へえ」「なるほど~」はたくさんあり、楽しいですよ。もし興味を持っていただければ、お時間のある時に、下記の回のブログも見てみてくださいね。
 「保税展」って何でしょう?
 「春の保税展」日程と、ダイヤモンドのお話し

 まっ、宝石に限らず、どんなものも「もうちょっと興味を持って見てみる、考えてみる」と、今まで見えていなかったものが見えたり、あらたな興味になったり、フフッと賢くなったり… 私はそういう「新しい気づき」にワクワクしてしまいます

  「秋の保税展 2024」 

10月18日(金)、19日(土)、20日(日)

10月24日(木)、25日(金)、26日(土)、27日(日)

11月1日(金)、2日(土)、3日(日・祝)、4日(月・休)

いずれの日も、午前10時30分 ~ 午後6時

会場:内原東京保税蔵置場(ガレリア UCHIHARA B2ホール)
    東京都港区六本木7-2-7

 保税展は一般公開されない催しで、保税展の性質上、東京税関の管理下におかれています。来場には、事前登録が必要です。ご来場日時が決まりましたら、必ず事前に私にメールで来場者のお名前をお知らせくださいね

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出願は「web」で?!

2024年09月10日 | 考える ひとしずく

 夏休みが終わると、毎日の残暑は厳しくとも「ああ、夏は終わるのだな…」と感じますね。
私はこの時期にも関わらず「さっ、いよいよ近づいてきた。居ずまいを正して、いざいざっ」という「仕切り」をすることもなく、毎日を穏やかに過ごしています 
 徐々に秋らしくなっていき、夕方になると虫の声が聞こえ、一気に陽が短くなっていく… そんな時期にサブクラスが始まり、ちょっと長めの講評の時間が終わると、日吉の教室の階段が暗くてねえ。あれやこれや策を講じましたが、なかなか安心には至らず。とても気になりました
 そんな時期なのに、全く緊張感のない私 うれしいような… 悲しいような… そう、一抹の寂しさ、ですかね。
 30年間続いた「私の秋」。今思い返せば、毎日パソコンに向かい、頭をひねりながら真剣に願書の添削をしていたことは、私の「喜び」でもあった… 苦心もしたけれど、何よりも「生み出す」という感動だったのだなあ、とあらためて実感しました
 文章を書くというよりも、モニターの上の紙面に、その家庭の、その子の「暮らしの情景」「生い立ち、成長期」を描く時間は、とてつもなくクリエイティブであり、同時にその子の人生の大切な1ページを創り上げるような気持ちだった、のだと思います。
 他にも、サブクラスのカリキュラムの内容や進め方を考えたり、事務的な作業で模擬面接の日程表を作ったり、それぞれの家庭の受験日時のカレンダーを作ったり…と、この時期以降、11月末あたりまでは、私の頭の中は「エンジン、フル稼働状態」でした
 そんなことを、とてもとても懐かしく思い出しています。

 昨年末までに教室を片付け、お借りしていた日吉のお部屋もお返し、つつがなく終えた…との安堵はあったものの、気がかりがゼロであったか?と問われると、じつはそうではありませんでした それは「第二子が受験する」というご家庭があるのをわかっていたから、です。
 その中の1つのご家庭は、新しい先生のもとで問題なく準備をされている、ということをお聞きしていましたが、もう1家庭は、とてもお歳の離れた第二子でいらして… 日頃からお親しくしているにも関わらず、いつも別の話題でお話することが多く、第二子ちゃんの準備については、おたずねしたこともありませんでした。教室を終えた私が、そんなことをお聞きするのはとてもおこがましい、との思いがあって。けれど、そのご家庭のことを考えていると「たぶん、私に出来ることは、ある…よな…」との思いも頭をもたげ、心の中がザワザワ
 私も、先方も、熟考の末(だと思います)… お互いに思い切って8月に入ってから声をかけ合い「いろいろとご相談に乗る!出願に関しては私に出来ることはお手伝いをさせていただく!」ということになりました。

 でもね、そんないろんなお手伝いから見えてきたことで、私は本当に本当に驚いたのですよ
なんとまあ、たった1年で、各校の出願方法が大きく様変わりしたのですから。
 すでに昨年は「コロナ禍が明けた年」でしたので、いろいろなことが「元に戻った」という安堵というか、喜びというか… 各学校には新年度の受験に対する「意気込みのようなもの」をとても感じました。ただ「やっと普通じゃない状態から、元に戻して良くなった」という状況でした。なので、今になって思うと、昨年はどの学校も「本当にこれで良いのかな?」というような、手探り的なところも多かったのかもしれません。
 たぶん、各学校ともコロナ禍で行われた数回の受験を通して「見えてきたこと、見えてきたもの」は少なからずあったのでしょう。こういう「コロナ禍からの気づき」という点では、小学校受験の世界以外でも、たくさんあったに違いありません。

 すでに、お子様達が中学生以上になられているような卒業生家庭のみなさんは、まさにこの時期、メールでこんなやり取りをしたことがあったのを覚えていらっしゃるでしょうか?
 パパ・ママ「先生、出願は初日ですよね。何時頃に学校に到着すれば良いでしょうか?記載された時間、ぴったりでしょうか?それとも、少し早目、が良いですか?早目ならば、どのくらい早目が良いですかねえ…」
 私「あまり早すぎるのも学校にご迷惑ですよね ご近所との兼ね合いもありますし。それでは、40分くらい早めにおいでになって、様子をうかがう、というのはいかがでしょう?」
 受験をするに当たり、これはものすごく大事な質疑応答、でしたよね。

 ところが 今年はね、多くの学校が「webでの出願」になっている、のです。昔は「インターネット系」が不得意だと思われていたカトリックの伝統校であっても、です。驚かれませんか???

 もちろん、すべてをインターネット利用で完結させてしまう、ということではなく、最初の出願だけをweb利用として、その後は自ら記入したものを郵送する、というようなシステムも多いのですが…
 それでも、出願の朝の「武者震いするような緊張感」や、「失敗できないという思いで頭が痛くなる」そんなことからは解放されるかもしれません。
 まさに、コロナ禍での笑い話のように「明日の会議はweb会議だから、画面に映る上半身だけはきちんと着替えるけれど、先方には見えることのない下はパジャマのままでもOKだよね、はっはっは。」という感じで、出願も可能なのですね

 「web出願なんてとんでもない そんな緊張感がないことでどうする 」なーんて、古狸の皺くちゃ先生として憤慨しているわけではありません ただただ、そんな時代になったのだなあ、と、心底驚いているだけ、です。
 web出願だから起こりうるトラブルもあるのだろうなあ、と想像もします。手順通りに入力をしていったのに、なぜか繰り返しエラーの画面になってしまう…とか、そんなことを考えると、私はドキドキしてしまいます

 でも、そのうちに、すべてが「ネット上で済ませられるように」なるのだろうな、と考えています。なぜならば、ネット上で志望動機等を書いた願書を共有することが出来れば、複数の先生方が簡単に読めるようになりますものね 膨大な量の紙媒体を、校長先生や受験担当の先生方の手元に留めるよりも、はるかに効率が良いかもしれません。ただ、今までは「そういうことを考えもしなかった」というだけで…

 ただ、もしそうなったとしたら 私はちょっとだけ残念に思うことがあるのです。それはね…
 お父様やお母様の中には、とても達筆な方がおいでになります 今の時代、なかなか「書いた文字」を見る機会が少なくなりましたが、ちょっとした走り書きや、頂戴したお年賀状や季節のお葉書で「まあ、このママ(パパ)は、こんなに達筆でいらしたんだあ」と感動することもしばしば、でした。
 そういう保護者の方がお書きになる手書きの願書は、当然とても読みやすく、紙面が輝いて見える
 そういうものに対する先生方の評価?感激!にっこり!がなくなってしまうのは、残念です…
パソコンに打ち出された文字は、誰にとっても読みやすいですが、思わず加点したくなる?というプラスアルファは起こらなくなってしまいますよね
 なーんて、そんなことも思いましたが、いやいや… 私自身、簡単なお葉書以外は、長文だからという理由で、文末の署名以外は、ほとんど自筆でお手紙を書かなくなっていることを思えば、私がいろいろ言える立場ではありませんねえ
 いずれにせよ。時代はどんどん変わっていくのだなあ、としみじみ感じています…

 そして何よりも。web上での手続きや何や、そういうことに関して決して強くない私です
まさに、そんな昔流の私に「天のカミサマ」が教室を終える潮時を、奇しくも教えてくださったのかもと、晩夏の青い空を見上げ、苦笑の思いで考えています

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