クラブ・マナーズニュース

マナーズを巣立たれたみなさま、縁者のみなさまとつながっていたい!そんな私が月3回「0」の付く日にブログをアップします!

あれから15年になります・・・

2024年12月10日 | その他

 今年の12月8日で、息子の心臓弁置換手術から15年になります。
当時、息子がお世話になった心臓血管研究所病院は、六本木のミッドタウンの向かい側、つい最近まで「メルセデスme」という施設があったところにありました 現在は、同じ六本木でも、六本木ヒルズのけやき坂の側に移転しています。
 いずれにしても六本木は、息子が中学高校と6年間、母校に通った広尾のお隣の駅。11月5日の入院から手術までの約1ケ月間、入院中にも関わらず、比較的自由に外出が許され、息子は慣れ親しんだ六本木界隈をちょくちょく散歩に出かけていたものです そんな自由な時間は、じつはもう先のない息子への、ドクター達の彼への愛情だったのだ…と知るのは、ずっと後のことでしたが
 あまりに重篤になった心不全の状態で入院した息子の心臓は、手術が無事に終わっても、手術中の人工心肺から切り替えた時、再び自力で動き出せるとは、どの先生も思っていなかった、とのこと。
 手術が終わり、主治医が私達のところに来られて言われた第一声は「手術、終わりましたよ」ではなく、「動いたよ動いた動いた彼の心臓が自力で動き出した」というお言葉でした。

 心臓や循環器科専門のこの病院では、当時、手術日には2件だけ、というのが原則でしたが、この日は彼の手術1件しか行われず、外来担当のドクター以外は、全員が息子の手術に立ち会ってくださいました。
 その先生達が手術室から出てこられた時、「奇跡が起こったね」「驚異的な力を持った心臓だったんだな」と口々におっしゃっていたことを私達は聞き逃しませんでした。
 「魚釣りをしていて、釣り上げた魚をリリースしてやっても、弱っている魚の場合は、せっかくリリースしても元通りに泳ぐことはできず、死んでしまう…お分かりになりますよね?」こんな例えで、手術前の息子の心不全の状態を主治医から説明を受けました。

 そんな状態になるまで、ひと言も私達親に体調の異変を伝えず、ひたすら大学の部活のシーズンが終わるまで、主将としての責任を全うした、と言うと聞こえは良いですが… 親としては納得がいかない 諦められない
 高校卒業後、3年間の引きこもりの原因となった高2後半からの1年半。人間関係で悩み、疲弊しながらも、その原因は「自分自身の性格、自分の未熟さに起因した」と自ら結論づけた息子は、そんな「負の自分」「負の時間」を払拭すべく、大学での部活の時間や、仰せつかった主将としての責任を、自分で十分に納得できるように務めた 終えることが出来た
 その結末が「春からの体調不良を認識しつつ、部活のシーズンが始まるからとそれを放置し、心不全を発症していたにも関わらず、シーズン終了の11月まで7か月間、何の手も打たなかったために悪化させた」ということ。(息子は、ダイビング部でした)
 何と情けなく、何と残酷なことか…
 それでも息子は、自分の思い通りに部活のすべてを全うし、次学年にきちんとバトンタッチ出来たことに大いに満足をして、「体調は最悪にはなったけれど、僕は全く悔いはない」と真剣に話す息子に、高校からの大変な約5年間をただただ見守るしかなかった親としては、結局は息子が選択した道を「よくやった本当によくがんばった」とほめてやるしかありませんでした

 部活の先輩、後輩、そして友人達が心を込めて折ってくれた2組の千羽鶴。
その年の小学校受験がつつがなく終了した時点で、「じつは、息子が現在こんな状況で…」と公表したことで、マナーズの卒業生家庭に情報がまたたく間に拡がり、みなさんで折ってくださった千羽鶴
 3つの束、3000羽の鶴達が吊るされた病室には、連日、大学の友人達の笑い声が溢れていました。私はそんな様子を病室の前で、ドア越しに聞きながら、「体調は最悪にはなったけれど、僕は悔いはないよ」と言い放った息子の胸の内を思い、あらためてうん、うん、と五感で理解し、噛みしめました。
 3000羽の鶴に象徴された、多くの方々からの大きな大きな祈りと、最高の高度な医療と、心臓の専門医達に「驚異的な力を持った心臓」と言わしめた息子の奇跡の心臓のお陰で、今息子は、救っていただいた命をまさに輝かせるように、微力ながらも社会に貢献し、充実した暮らしをしています

 こんなふうに救っていただいたのだから、あとは好きに生きれば良いと、すっかりそんな偏った意識の低い思いだけに固執し、手術からの約10年間、十分なアフターケアを怠り、息子はまたもや大動脈解離で入院することになりますが… この時にも奇跡が起こりました
 命を落とす危険性の高い大動脈解離ですが、奇しくも心臓から脳に向かう大動脈は、息子の場合は弁置換手術の折、大動脈も人工物に取り換えていたため、血管の裂け目は手や足のほうに向かい、脳に向かう大動脈は無傷でした…そのお陰で、またもや奇跡的に命が救われました。まるでアニメやコミックにあるような、泣き笑いのストーリーです

 それ以降は「2度も奇跡的に救っていただいた命だからこそ、医療のケアを決して怠らない」を旨とし、過ごしています。
 毎日、たくさんの種類の、薬だけでお腹いっぱいになるんじゃないか?と思われるほどの量のお薬を見ると、健康体に産んでやれなかった母親の責任をいつもいつも感じますが、そんな悲劇のヒロインになったところで、誰にも何の利もありません
 その代わり、とでも言うのでしょうか… 私は、健康管理への啓蒙や、心身の健康のためのアドバイスやエッセンスを伝えることが、私の使命なのだと思っています
 
 とまあ、ここまで書いて終わると、楽しいクリスマスシーズンに、すっかりみなさんを深刻な顔つきにさせてしまいますよね そんなことは、ちっとも私は望んではいないのですよ
 ただ、手術から15年という節目に感じる年月を迎えて、少しお話をしたくなりました。
 どんより気分で終わらせたくないので、息子つながりのお話しで「かなり驚くお話」「不思議なお話」を付け加えますね
 上記の文中にも書いた「3年間の引きこもり」。
振り返ってみると、あれは息子にとっては「必須の、心のための貴重なリハビリの期間」だったわけで… 本人も安穏と過ごしていたわけではないのですが、正直、その真っただ中にいる時には、親としてはかなり辛く、しんどく、長い3年間でした
 3年目に入った時、やっと「優しい時間」のお陰で、重い重い腰を上げた息子は、「大学受験を目指します」と宣言。先に何も見えず、ただただエールを送るだけの私でしたが、とうとう目標が設定されたことが本当にうれしく、ありがたく、身震いする思いになりました。
 さあ、今度は目標の見えた応援です 何でもしたい、してやりたい、と思いました。それこそお祓いも、お百度参りも
 いえいえ、実際にはお祓いも、お百度参りも実践したわけではありませんが、もともと縁起を担ぐ私ですから、家族には内緒で、密かに飛行機に乗って、少しでも菅原道真公に近いのではないか?!と、大宰府の天満宮までお参りにはいきました
 そんな中で、仲良しのお友達が「よく当たる占い師さんがいるから、行ってみるのも良いんじゃない?」と勧めてくれたのです。「占い師さん」とは書きましたが、実際には「然るべき能力のあるライフプランナーさん」と呼ぶべき人、だったかもしれません。
 引きこもり中でも、私達親子のことを興味本位ではなく、大真面目に応援し、気にかけてくれていた友人のせっかくのお勧めなので、ご相談?に行くことにしました。
 その先生(と呼ばれていました)に、コレコレ、しかじか…と、様々な方向から、彼の高2以降のことをお話しました。すると、その方が然るべき作法の後、こんな風に言われたのです。
 「ご本人も、ご家族も、長きに渡り本当によくがんばられました。今回の大学受験、苦労はしますが、願いは実ります。ご安心ください。ご子息は来春には大学生になられます。でも、ご子息にまつわるご苦労、ご苦難はこれで終わりません。今後、あと2回、大きな苦難がやってきますよ。ご本人も、ご両親も、かなりの覚悟が必要です!」と。
 ちょちょちょちょっと待ってください
高2後半から卒業までの1年半、そして、時間だけが経過し、家族がそれぞれにギクシャクした2年間、もう十分に苦労をしてきましたよ来春、大学受験を経て息子が晴れて大学に入学を果たせる、ということは何よりもうれしいことですが、それからまだ1度ならず2度も苦労、苦難がやってくると断言なさるのですか
 息子には、そういう方のところに相談に行く、ということは内緒でしたし、ましてや、あと2度も苦難がやってくるなんて言えるわけがありません。そのことは、夫だけには話しましたが… 夫婦で「ははは、当たるも八卦当たらぬも八卦やあ」などと一笑に付しはしたものの、実際には密かに、夫も私も、本当は心にかなりひっかかり、時にはびくびくと過ごしたのでした…

 …が… いかがですか?気づかれましたか?

 息子は次の春、確かにかなり苦労はしましたが、中央大学に入学しました どんなに家族で喜んだかしれません。
 でも…その2年半後、大学3年の12月に心臓の弁置換手術。そして、その10年後には大動脈解離。確かに「2度の苦労、苦難」がやってきて、そのたびにかなりの覚悟が必要でした
 きゃー、ゾゾゾッとしませんか?
 その先生が今、どうされているかは知りません。友人にも確かめたこともありません。けれど、あまりの「ピタリ」に、驚愕というか、何というか… 今でも、あの相談の時に言われたシーンを思い出すと、鳥肌が立ちます… そう、実際に言われた通り、「2度の苦難」が訪れたから…

 町のあちこちのクリスマスイルミネーションがとってもきれいです
でもね、私は毎年、かならずしも町中の人達全員が「ハッピーな気分」でそれを眺めているわけではない、ということを感じます。そして、そういう方達のために一生懸命に祈ります
 息子が手術をした12月8日。この日は、仏教では「成道会(じょうどうえ)」。お釈迦様が悟りを啓かれた日で、宗派を問わず、仏教では大きな法要が営まれます。
 カトリックでは「無原罪のマリアの日」と呼ばれる日です。聖母マリアが、その母、聖アンナの胎内に宿ったことを記念する日で、イタリアやスペインなどのカトリック国では祝日で、盛大に祝われます。
 奇しくも、そんな日が手術日に決まったのも、奇跡に導かれる、とても不思議なことだったのかもしれません…

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「おはようございます!」を言いませんか?

2023年11月21日 | その他

 「これからも、10日、20日、30日、のこのブログは書き続けたいです!」と書いておきながら、一日遅れてしまいました すみません
 新規投稿をする時、いつもは見ないのですが、今日はたまたま目に入り… 昨日、20日の閲覧者数は「96人」でした。要するに私は、96人の方に「あれ?20日なのに、新しいブログがアップされてないじゃない・・・」と思わせてしまった、ということ、ですよね 今朝起きて、猛省すると同時に、自分の愚かさにすごく落ち込んでいます・・・ そんな思いは、また別の機会にでもお話をすることにして、本来ならば昨日に書こうと思っていたことを一日遅れで書かせていただきます

 みなさんは、「おはようございます」と、どれくらいの人、どんな人と挨拶を交わされますか?
朝起きて、家族に「おはよう」「おはようございます」と挨拶はしますよね。これは習慣というか、それほどの強い思いを持ってしていることではないかもしれません。
 ゴミを出しに行って、顔見知りの近所の方とバッタリと会い、笑顔で「おはようございます」というのもあるかもしれません。
 私がお聞きしたかったのは、そういう「家族」や「知っている人」との挨拶ではなく、知らない人に対して、みなさんが「おはようございます」とどれほど挨拶をされているのだろう、ということ。

 私は、この「おはようございます」に関して、特別な思い入れがあります。
いえ、実際には「おはようございます」だけではなく、「こんにちは」「こんばんは」にも同じ感覚を持ってはいますが、私が考えるに、「こんにちは、こんばんは」よりも、「おはようございます」という挨拶の方が、断然しやすい、ですよね。ごめんなさい、話しをあちこちにいかせてはいけません。「おはようございます」に戻します。
 私が持っている「おはようございます」という挨拶への特別な思い入れ・・・それは、今からもう40年以上前のことになります。
 私の父は、非常に志の高い人、自分を高めたいと必死にがんばる人、でした。若くして突然、不幸な境遇に陥った父は、もがくように父自身の考える「上」を目指していたのだと思います。
 そんな父は、私が小学校2年生の時に起業し、昭和の好景気にも助けられ成功者となるのですが、この話は「それよりも前」のことです。
 父は、毎年、私の祖母や叔父、叔母も一緒に、1泊だけではありますが、お正月を箱根のホテルで過ごしました。車の運転が好きだった父は、大晦日に紅白歌合戦が終わり、行く年くる年で除夜の鐘を聞くと、全員をワゴン車に乗せて出発。
 出発から30分後、住吉大社という大きな神社の前に車を停車させ、父と母だけが大急ぎで初詣。車で待つ間、真っ暗な中に「わたあめや焼き栗」の出店の電気だけが煌々と照り、「ああ、これから旅行だ!」という気分が盛り上がりました。両親が車に戻ると、一路、箱根に向けて出発 私は大阪に住んでいたわけですから、かなりのロングドライブ、です。高速道路もない時代。まさに、国道1号線を東へ、東へ・・・
 元日の夜、箱根のホテル小涌園はビュッフェスタイルの食事でした。あの頃は「ヴァイキング」と呼んでいましたねどね、ふふふ。
 昭和30年代後半の頃、箱根のホテルの宿泊客の3分の1くらいは外国人で、芸能人の滞在者も多く、私にとってホテルの中は「別世界」でした。
 このお正月の旅行のために新調してもらったお洋服を着て、私はロビー横の広いスペースに置かれた室内用の遊具で、容姿も言葉も違う子ども達と遊ぶのは夢のように楽しくて
 このお正月の定例旅行は、私が3歳から10歳まで、8年間続きました。父は私が7歳の時に起業しているわけですから、まだまだこの8年間、家族全員を連れてのこの旅行にかかる費用は大変だったことでしょう。よく母が「冬のボーナスはな、ぜーんぶあの小涌園行きに消えたんよ~ もう、泣きそうやったけど、せやけど、あのホテル小涌園での時間は、今思い出しても夢みたいやったよねえ。自分が別人になった気分がしたわ・・・」と話していたのを覚えています。正直、その後に成功者となり、いろいろな意味で豊かに暮らせるようになって以降の旅行よりも、私にとっても「変身できる」ような、当時の箱根のホテルでの時間は「特別」なもの、でしたねえ

 話は脱線していないのですよ。そのホテルでのこと。
朝、レストランに行くためにエレベーターに乗ると、必ず!外国人のお客様と一緒になりました。すでに乗っている人、乗ってこられる人。そして、顔を合せると、「全員が」必ず挨拶をしました。「Good morning」この「Good morning
 見知らぬ人ではあっても、全員が満面の笑顔で、顔を合せると間髪を入れず言う「Good morning」3歳の時の記憶はありませんが、幼稚園児くらいになった私は、子ども心に「なんてステキな言葉なんだろう」と思ったのでした。知らない人でも、一日の始まりに「笑顔」で「Good morning」と挨拶をする。一瞬、その言葉が発せられた空間には、あたたかい空気に包まれる
 思えば、あれがエレベーターという狭い閉鎖空間だったから、余計にそう感じたのかもしれません。本来ならば、知らない同士が狭い空間で一緒になり、たとえわずかの時間とは言え、気づまりになる時間。そこに流れるホンワカとした空気。その魔法の言葉「Good morning」。そんな風に感じたのかもしれませんね。
 それからというもの、私は率先して「Good morning」を言うようになりました。もちろん、満面の笑顔で、です そして、その「あたたかい感覚」は、65歳になった今でも同じように感じます。だから、私は朝、多くの人に「おはようございます」と声を掛けます。もちろん、電車やバスの中で、ということではありませんよ。道を歩いていると、いろんな人と顔を合せることがありますよね。工事現場の保安員の方、コンビニの前の道をお掃除をしている人、交番の前で立っているおまわりさん、etc.etc. するとね、一瞬驚くような間の後、ほとんどの方は「おはようございます」と返してくださいます。

 いつの頃からか、世の中は物騒になり、特に子ども達には「知らない人には声を掛けられても返事をしてはいけない」と教えるようになりました 確かに、掛けられた声に応えることが、大きな問題の引き金になってはいけませんもの。けれど、私は少し、残念だな・・・と思ってもいます。
 道を歩く子ども達には、人に対する笑顔はありません。信号待ちで冷たそうに手をこすり合わせている女の子に、「おはよう、寒くなったわね。明日は手袋、要るかもね」と、笑顔で声をかけても、返事は戻ってはいきません・・・特に、制服姿の私学の子ども達は、「知らない人に応じてはいけない」は徹底されています、笑。
 十分にその無言の意味は理解できても・・・でも、私は世の中すべての人に、「人と人との間に生まれるあたたかい空気」を忘れないでいて欲しい 時には、能動的にそういうあたたかい空気を作り、感じて欲しい、と願っています。
 もし機会があったら、一度、「おはようございます」と挨拶をしてみませんか?

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あるカフェでのこと

2023年10月31日 | その他

 ここ連日、渋谷区長が発した「渋谷はハロウィン会場ではありません。渋谷に来ないでください」というメッセージに焦点があたり、頻繁に報道されます。さてさて、ハロウィン当日はどうなるのでしょうか・・・

 この前の休日、予定と予定の間の時間を埋めるべく、都心でカフェに入りました いつもは混んでいるところですが、都心とは言え、オフィス街にあるそのカフェは静かで、小一時間落ち着いて過ごすには最適でした 
 好き勝手にカスタマイズしたコーヒーを手に席に着くと、直前まで気づいていなかったのですが、一つ向こう側の席に親子3人が座っていました。何かスイーツを食べたのであろうお皿は空になっていて、すでにそれなりに時間が経過しているのかな、と思いました。
 女の子は4歳、そしてパパとママ。どうして「4歳」などと断言できるのか?と言うと、その子が「わたしが 2さいや3さいのときには できなかったけれど、4さいに なったから できるようになったでしょう!」と話しているのが聞こえたから、です。なかなか、しっかりと話すお嬢さんでした。その日、その子はディズニーのプリンセス どこかの仮装イヴェントに参加した後・・・のようでした。
 私は本を読むつもりでいたのですが、「子ども」「親子」がすぐそばにいて、会話まで聞こえると、「まどか先生センサー」が始動してしまい、本を読んでいても、耳のほうが主に働き、文章が頭に入ってきません もう観念して、うつむいてコーヒーを飲みながら、親子の会話が耳に入ってくるならば、無理に「聞かないようにしよう」などと思わないことにしました(盗み聞きなんて、嫌なヤツ、ですね、すみません)。
 女の子は落ち着きなく、席を立ったり、歩き回ったりするようになっていましたし、ママのバッグの中のものを出したり、入れたり・・・まあ、仕方はないなあ、と思いました。
 きっと、入店してからかなりの時間が経過しているようでしたのでね。その子の席の前には、絵本や折り紙等々、時間つぶしで遊べる何がある訳でもなく・・・もし食べ終わったあと、20分以上が経過していたとしたら、4歳の子に「何もせずに、黙って席に座っていなさい」というほうが難しい。「黙って座っているため」には、彼女が集中できる「何か」は必要です。

 そのうちに、彼女は腹いせ的に?!、ママの嫌がること、ママがそのつど「やーめーてっ」ということをしつこく始めたのです。ママのその言葉にも、だんだん「本気度」が増していくことがわかりました。「やーめーてってばあ」「もう、やめて
 女の子は両親の制止を無視して、椅子をガーガー、テーブルをドンドン・・・
 とうとう、パパが登場。
最初のうちは、「やめなさい」「ママがやめて、って言ってるでしょう」程度だったのですが、それでも女の子が止めないと、「とにかく座って」から始まり、お小言。
 「あのね、ママが嫌だっていってるよねえ。聞こえてる、ママの言葉。君だって、お友達に嫌だっ、やめて、って言っているのに、その子がやめてくれなかったら、嫌でしょう?どう?ねえ、どうなの?どう思うのか答えて
 「・・・」
 「君がずっと嫌なことをしているのを、ママがどんなふうに思ってるのか、わかる?わかるかなあ?どう?聞いてる?ママ、さっきからずっとやめてって言ってるよね。君が嫌だって言っているのに、やめてくれないお友達のこと、好きになれる?どう?そんな子、君は好き?ねえ、どう?」
 「・・・」
 「そもそもさあ、君のそういう態度って、どうなんだろう?・・・・・✕✕✕✕✕・・・・・✕✕✕✕✕・・・・・✕✕✕✕✕・・・・・(まだまだ続きます」

 なんだか、私は途中から可笑しくなってきました 
このお父さんって、何だろう?パワハラと言われる上司が、まだまだ新米の部下に説教をしている?
 それに、4歳の子どもに、「そもそも」って何?

 お父さん、あなたねえ、「大声で叱ったりせず、理路整然と我が子に道理を説いている、賢い父である」と確信している自分に「酔っている」んじゃないんですか???

 まさに「そもそも」、このカフェでの今の時間、最も大切にすべき論点が違っていますよ 今、この子に教えなければいけないことは「静かに過ごしている他の人達の迷惑になるだろう、静かに、お利口にしていなさい 今の君は恥ずかしいよ」と、このポイントを伝えるべき、ですよ。
 確かに「人の嫌がることをしてはいけない」と教えることは大事なことです。でも、この状況下で教えるべきは、そのポイントではなく、一番は「この場では静かにしないといけない」ということではありませんか?
 もし、理路整然の部分をどうしても今伝えたいならば、こちらのほうはいかがです?
「自分のお家から一歩外に出れば、いろいろな人が暮らしているところ。そこでは、他の人の目を気にすることは大事なんだよ。他の人が「いやだな」と思うようなことをしてはいけないんだよ。どう?このカフェで、まわりの人は静かに過ごしているでしょう?君がここで騒いだり、大きな音をたてたりするのは良いこと、かな?」

 「自分に酔ってるパパ」と私が感じたその人は、店を出るまで、ずっと「賢いパパ(と自分が信じている姿)」を演じる?装う?ままでした。

 「恥ずかしい」ということを知らない子ども達。「諭すばかりで、叱ることをせず、自分に酔う」パパ、ママ達・・・
 すごく増えている気がしています

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひたむきに頑張る、という姿勢

2023年07月22日 | その他

 まずは「お詫び」です
今回は、20日にアップできるように、18日の夜に「予約投稿」をしたのですが、どうもそれが上手く機能しておらず、今日チェックしてみると「ななななんでアップされていない」と気づきました。
 大変失礼いたしました すでに2日が経過。すっかりアップが遅れてしまいました 下記が、20日にアップされたとばかり思っていた内容です。

 まだ梅雨も明けていないのに、連日、カンカン照りの信じがたい暑さだったり、陽ざしがなくとも空気が膨らんだような熱気を帯びた湿度の高い日だったり・・・こんな様子だと、せっかくの夏休みも「外遊び」なんて出来ませんね プールに行っても、海に行っても、プールサイドや浜辺を素足で歩くことは出来ない 足の裏が火傷してしまいます。どうぞ上手に夏休みを過ごしてくださいね
 夏休み・・・と言えば、「宿題」です 自由研究、というのもあるのでしょうか?なかなか、のんびりと過ごすことは出来ず、パパやママは「トホホ」なのかもしれませんね。
 そんな中、ちょっとアドバイスというか、苦言というか・・・嫌がらずにお聞きくださいね。
 ここ15年ほど、でしょうか。子ども達は総じて「ほめられて」育っています。アナウンサーごっこをしていて「あなたは、どんな時に叱られますか?」と子ども達にたずねると、考え込み、黙ってしまう子ども達が少なくありません。特に「あなたは『お父さん』に叱られる時はどんな時ですか?」と聞いた時にそれが顕著です。
 要するに、父親は総じて優しい。もしかしたら、子どもを叱ってしまうと、「パパ、嫌い」なんて言われてしまうんじゃないか?などと思う、父権のかけらもないお父さんが増えれしまった??? これは、とっても「困ったこと」です
 「叱る」と「怒る」は似ているようで違います。調べてみた結果、こういうことが言えるようです。
 怒るとは、一方的に相手に自分の感情をぶつけること。 叱るとは、時には語気を強めたりもしながら、諭すように相手に伝えること。 叱る目的は、相手を正しい方向へ導くために、何が良くないのかを気付かせること。
 今の時代、きっと親の方が「叱ると怒る」を混同してしまい、叱ることを躊躇しているのかもしれない、と思ってならないのです。

 常にほめられ、甘やかされ、然るべき時にしっかりと叱られないで育った子ども達は、ほとんどが「がんばること」が苦手です。
 自分のイメージ通りに上手くいかなかったら途中で止めてしまったり、時には上手くいかない自分を見せるのも、見るもの嫌だから、最初から挑戦しなかったり・・・上手くいなかいと、いろいろと自分に都合の良い言い訳や理屈をこねる・・・
 こんな風に、敢えて文字にしてみると、きっと「こんな子に育ってしまったら大変だあ」と気づいてくださることでしょう。

 「辛くてもがんばる」「やり抜く」「歯を食いしばって努力する」
こんなことを書くと、昭和の時代の古い教育のように感じてしまうかもしれませんね。しかし、古今東西、どんなに時代が流れ、変わっても、人種や生きる環境が違っても、「人として」の部分に違いはないはず、です。

 この夏休み、あらためて「ひたむきにがんばる」という姿勢について親のほうが真剣に考え、我が子に「がんばる、ということの尊さ」を実感させてあげましょう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハノイに行ってきました

2023年05月30日 | その他

 主人の出張に同行することが急に決まり、ハノイに行ってきました 現地で3泊、そしてナイトフライトで戻る、というバタバタの旅程でした。
 この話があった時、私としてはめずらしく難色を示しました・・・というのも・・・
 私が子どもの頃、テレビのニュースでは毎日毎日、ヴェトナム戦争の悲惨な映像が流れていました そう、物心づいてからずーっとです。
 もともと、この戦争は長いフランスの統治下からヴェトナムが独立したところから始まります。しかし、当時は共産主義の北ヴェトナムと、資本主義の南ヴェトナムとに分かれていて、それを統一しようとしたヴェトナム人の戦争でした。でも、私の残っている記憶では、すでに資本主義国家のアメリカが介入し、アメリカとヴェトナムの戦争と思えるような状況になっていたのでした。
 青々と茂るバナナの木の森、その周辺の町や村にアメリカ軍のヘリコプターから落とされるナパーム弾。すると、一気に周辺が火に包まれるのです。逃げ惑う人々。全身にやけどを負った子ども達の泣き叫ぶ様子・・・それらが、まるで戦争映画のシーンのように、「ニュース」で流れます 子ども心にとても不思議に思ったものです。「どうして、このニュース映像は流せるのだろうか?この映像を撮っている人達は、まさに戦場のど真ん中にいる訳で、それはどういう意味なのだろうか?」と。
 20年間続いたこの戦争は、1975年4月30日、現在のホーチミン(当時のサイゴン)が陥落したことで終わりを迎えます。私は高校2年生でした。サイゴン陥落の様子がニュースで流れているのを見ながら、私はテレビの前で号泣しました・・・やっとヴェトナムに平和が訪れる そう思うと、感極まったのでした。
 それが、私の「ヴェトナム」でした。
すでに、その時から50年。10年ほど前でしょうか、娘が大学の先輩と一緒にホーチミンに旅行に行き、昔のことがまるで嘘のように発展した町の様子を写真で見せてくれた時、本当に本当にうれしかった そんなこともあり、もちろん、ヴェトナムがすごい勢いで発展していることは知ってはいらものの、幼い頃の記憶は、まさに「トラウマ」になっていて・・・

 今回の訪問地はハノイ。もともと北ヴェトナムだったことで、敢えて中部や南部に比べるとすれば、被害は少なかったかもしれません・・・そんなことを何度も自分に言い聞かせ、重い腰をあげたのでした。
 現在のヴェトナムは共産党一党支配の社会主義の国です。しかし、1986年、国が打ち出した「ドイモイ政策(直訳すると、新しいものに置き換える)」という、社会主義と資本主義の「良いとこ取り」的な政策により、国が大きく経済的にも大きく発展。短い期間ではありましたが、人々に勢いが感じられ、音を立てて国が動いているような、そんな気がしたものです

 やっと、私の中の「ヴェトナム戦争」が終わりました。
幼い頃、「目と頭と心」に焼き付いた記憶・・・
 私は今回、ふっとこんなことを思ったのです。
あの当時から、もっともっと「ヴェトナム戦争とは何なのか?」を、子どもの私にもわかりやすく説明してくれていれば・・・きっと、もう少しは異なった記憶が残ったのではないか?そんなふうに思いました。
 もちろん、ヴェトナム戦争は非常にややこしく、小学校低学年の私に説明をするのは難しかったでしょう。しかし、当時は、ただただ映像から「悲惨さ」ばかりが先行して幼い私の目に焼き付き、「何も考えること」が出来なかったな・・・と振りかえっています。
 そうです、単純に悲惨な映像だけが残り、考える材料、考えるチャンスがなかったから、記憶には「悲惨な映像」だけが残ってしまったのでしょうね

 悲惨だから、残酷だから、難しいから・・・と蓋をしてしまうのではなく、それぞれの年齢に合った知識を与えてあげることは大事だ、と思います まさに私の例のように、辛い記憶だけが残ってしまうのは、あまりに残念ですからね
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

働くママ達、ごめんなさい!

2023年04月10日 | その他

 ご入学、ご進級、おめでとうございます
新しい出発に胸ワクワクさせたり、クラス替えでちょっと凹んだり・・・4月は「はらはら」「どきどき」「わくわく」ですね。
 そんな子ども達の様子に、パパママ達も同じ気分。特に「落ち込む」子どもを感じた時には、本当に悲しくなるもの、です。そしてついつい「大丈夫、がんばりなさい」などと、安易に言葉かけをしてしまう・・・いやいや、決して「安易に」ではないものの、自分が辛いこともあり、自分をチアアップするためにも「がんばれ」という言葉を、気づけばすぐに使ってしまう・・・それが親、だと思います
 でもね、最近はよくよく思うのです。子どもは一番欲していることは、「がんばれ」の言葉ではなく、「共感」ではないのか?と。
 辛い、悲しい、悔しい・・・などというネガティブな我が子の言葉を聞いた時、ドキッとして、うろたえたとしても、まずは一緒に「そうよね、辛いよね・・・」「うん、悲しいよね・・・」「ママも悔しい・・・」と共感してあげること。それが、まず、必要なことではないのか?と。
 がんばれ~!とエールを送るのは、あくまでも、共感のあと、であるべき、だと。

 さてさて、私事で恐縮ですが・・・
まもなく仕事に復帰する娘。それに伴い、今月3日から、生後11か月を迎えた孫は「保育園に入園」しました 最初の1週間は慣らし期間ということで、3時間足らずのお預け。けれど、孫は最初の3日間はずーっと泣いていた、とのこと。やっと週の後半になり、少しずつ遊べるように・・・
 私が幼児教室マナーズを開校したのは、娘の入学と同時期なので、私には「保育園に預ける」という経験がありませんでした。ですから、孫の保育園生活には興味津々です。
 幼稚園と保育園、どちらがどう、ということではなく あくまでも「まどか先生の感想」として、保育園児達の何でも自分で出来ること(出来なくても、自分でしようとがんばること)には、常々感服、感動していた私としては、保育園児達が「どのような毎日を過ごしているのか?」を知りたい!と思っていました。

 先週、初めて孫のお迎えのため、娘と一緒に保育園に行きました。緊急時の連絡先になっている私は、時には娘(娘婿)の代わりにお迎えに行かなくてはなりません。そのたびにグーグルマップに頼っているようでは、緊急連絡先にはなり得ませんものね
 保育園の門の前で、娘がインターフォンを押し、「さくらんぼ組の〇〇です」と声をかけると、カチャンと門の鍵が解錠され、こんな声が聞こえてきました。
 「お母さん、おかえりなさ~い
我が子を預ける園の先生から、私が初めて聞く言葉、「おかえりなさい」。その言葉に「???」となりました。なぜって?私は母親として、幼稚園の先生からは「おはようございます。こんにちは。さようなら。」としか、言われたことがなかったから、です。
 しかし、保育園にお迎えに行くパパ、ママ達は、ほぼ皆、お仕事を終えて我が子を迎えに行く・・・だから、保育園の先生達が、お迎えのパパママ達に「おかえりなさい」と声を掛けられるのですね。知りませんでした。
 仕事を終え、社会人の顔だった働くお母さん達が、保育園の前で「我が子のママ」の顔になる・・・ああ、そうだったんだなあ・・・
 朝、保育園に我が子を預けると、先生達はパパやママに声をかける・・・「いってらっしゃい」と。駅に向かう間に社会人となり、今日一日の仕事に思いを巡らせる。

 働くママ達、ごめんなさい
私はわかったような口を叩きながら、本当はわかっていなかったことがたくさんあったのだ、と思います ママ達に理不尽な要求をしたり、不理解から残酷な言葉を発していたかもしれません
 時間は巻き戻し出来ないので、そんな私の「ひどい仕打ち」で傷ついた時のママ達に詫びることも、別の理解ある言葉かけもできませんが・・・とにかく、遅ればせながら、お詫びをさせてください

 人生は、毎日は、本当に「学び」ですね。
初めて知ること、気づくこと・・・そういうことに出会うたび、たくさんのことを感じ、考えます。それは、生後11か月の孫も同じなのではないか?とも思います。今までずっと一緒だったお母さんがいなくなり、お母さんのように優しい声で語りかけてくれる先生と呼ばれる人達に囲まれ、自分と同じような仲間がそばにいて・・・きっと、驚きの連続なのでしょうね。
 65歳の私としては厚かましいことかもしれませんが、それでも、11か月の孫と同じ感性で、日々をワクワク感を持って過ごしたい、そう考えています

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコの地震

2023年02月10日 | その他

 トルコで大きな地震がありました
距離的にも遠いですし、「あんまり馴染みのない国だな・・・でも、お気の毒」という感覚の方が多いでしょうか。
コロナ禍になって、すっかり「外国への旅行」ということが身近なことではなくなりましたね。コロナ前は、あんなに「えっ?どこ・・・どちらにいらしたのです?」と聞き返さないといけないほど、メジャーではない国や地域にも出かけていたのに、です 
 例えば・・・コロナが始まる前の2年ほど、私はよく「クロアチアに行ってきたんですよ」というお話を聞いていたものです。元ユーゴスラビアの1国。世界地図を見て「ここです」とすぐに指で指すことの出来る人は稀だと思う国ですが、当時は、すでにフランスやドイツ、イタリアに慣れ親しんだ海外旅行愛好家にとっては、新しいブームになろうとしていた国だったと思います。
 おっと、話しが脱線してしまいました。「トルコ」です
じつは、もしコロナの流行がなかったら、すでに私は2度目のトルコを経験していたはず・・・です。
2019年の5月、初めてトルコを訪れ、すっかり歴史や文化に魅了された私は、トルコの大ファンになっていたのでした。
 1度目は、オーソドックスなコースということで、イスタンブール市内、トロイ遺跡、エフェソス遺跡、コンヤ、カッパドキア・・・と巡りました。次回は、もっとゆっくりと時間をかけてイスタンブールの市内を歩くこと、そして、シリア国境に近いガズィアンテップでローマ時代の精巧なモザイクを見たり、ガズィアンテップ周辺が産地のピスタチオをたっぷり使ったお菓子を食べたり・・・イラン国境に近いヴァン湖も訪れてみたいそんなことを夢見ていたのでした。
  
 今回の地震の震源地は、まさにそのカズィアンテップから、それほど遠くはない地域でした。
被害の大きいシリア北部には、有名な古代都市アレッポもあります。
 広範囲にわたる大きな地震で、死者や被災者は膨大です。まずは、そこに一番に目を向けるべきですその通りです。
 しかし、ユネスコもすでに発表している通り、トルコ南東部にある世界遺産、古代ローマの遺跡「ディヤルバクル城塞とヘヴセル庭園の文化的景観」の複数の建物の壁が崩落。このほか、古代遺跡「ギョベクリ・テペ」など3つの世界遺産で被害が出た可能性があるらしい、とのことです。
 シリアでは危機遺産に登録されている古代都市アレッポで、城塞や塔、スーク(市場)の建物で崩落。アレッポはシルクロードの歴史を刻む商都でありながら、シリアの内戦で2013年、危機遺産に指定されています。

 阪神・淡路大震災の時も、東日本大震災の時も、私は亡くなった方々のことや、被災された方々のことにしか目が行きませんでした。しかし、今回、偶然にもつい数日前に「ガズィアンテップ」のことを考え、ゼウグマモザイク博物館を訪れることや、画像でしか見たことのないピスタチオで出来たお菓子「バクラバ」や、朝食に食べられるという「カトゥメル」のことを考え、一人でニマニマしていたのでした。その直後に地震が起き・・・今までよりも、もう少し広い思いを持ちながら、毎日のニュースを一生懸命に聞いています

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

65歳のお誕生日に

2023年01月10日 | その他

 2023年も穏やかに明けました
特別な規制もない久しぶりの年末年始に、町は大きな賑わいを見せましたね。その代償として、大勢のコロナ罹患者数が発表されていますが、それでももう「元には戻れない」気がしています

 今回は長くなるので、まずはお知らせから。
下記の通り、今年最初のジュエリーフェアが開催されます

 「新春ジュエリーフェア」 1月21日(土)13:30~18:00
 場所 : 「ガレリア UCHIHARA」地下2階ホール 東京都港区六本木7-2-7

 毎年ご案内いたしますが、この新春のフェアは、「目玉商品」と銘打ったジュエリーの数々のご用意があったり、くじ引きがあったり…と、紅白幕に囲まれる商店街の「新春大売り出し」的な様子があります 日頃、ジュエリーは敷居が高い、と思われている方にもおいでいただきやすいフェアだと思います。
 是非ぜひご来場、ご検討くださいね。おいでいただける時間がお決まりになりましたら、どうぞメールでお知らせください。madoka@madoka-manners.com もしくは、madoka.manners@gmail.com どちらにいただいても結構です
 尚、「ガレリア UCHIHARAって?この会社はどんなところ?」と思われたら、是非、このサイトをご覧になってみてくださいね。https://www.galleria-uchihara.com/
 初めてご覧になる方には、「なるほど!」が詰まっていますし、すでに何度もフェアに足を運ばれている方には、楽しい発見も豊富だと思います

 さて。
今日、1月10日で65歳になりました 家族や、その年の卒業生のみなさま方に「還暦のお祝い」をしていただいたのがついこの間!のような気がするのですが、あれからもう5年も経過した あの時にお祝いをしてくださった卒業生のご家庭のお子様達は、この春から6年生・・・もう、びっくりです。
 最近、卒業生のお母様方から、「まどか先生ったら、この頃よく『私も歳をとったわあ』ておっしゃってません~?」と言われます 自分では、そんな風に言ってることを気には留めてはいなかったのですが、きっとそうなんですね。なぜかって?本当にそう実感することが多いから、です
 例えば・・・
深夜まで願書の添削をしていた時、ふっと気づくと、パソコンの画面に「rrrrrrrrrrrrrrrrr・・・」の文字。ヒャーっと思って、デリートを始めたら、ななななんと、それが20ページ以上も どれだけの時間、指を「r」のキーの上に置いたままで居眠りをしていたんだああああああ
 もしかしたら、「そんなこと、私にだってありますよー!」と言ってくださるかもしれませんね。ありがとうございます。でもね、そんなことは許されないのです
 「願書の添削」でからね。受験の時期を目前に控えたご家庭の、大事な大事な日頃の姿や志望校への強い思いを、志望する学校にお見せし、強くお伝えする最初の重要書類です。そんな大切な内容を考えているうちに、居眠りをしてしまうなんて・・・許されることではありません 
 私は、そんな風になってしまう自分が許せないのです。一言一句を選び、言い回しに気を配り、そのご家庭の空気を、ご両親の思いを大切にし、同時にその願書を提出する学校の教育理念に思いを馳せ、敬意を込めて、言葉を絞りだし、綴る・・・それが「願書の添削」です。その思いの下、1つ1つに居ずまいを正して向かっているにも関わらず、「気づけば居眠り」なんて、あり得ない。信じられない
 それが、たった1回であれば、百歩譲って苦笑し、自分を叱咤激励して、また気合を入れ直してがんばります でもね・・・ここ2年、それが1度ではなくなった、ということ。
 今まで同じように暮らしていても、深夜になると、そんなふうになってしまう年齢になった、ということなのだ、と実感しました。加齢です。誰にでも訪れる「加齢」です。
 私はね、歳をとる、ということは、一向に嫌な事ではありません。冗談めかして言っていることですが、「私は今日の私よりも明日の私のほうが素敵になってるはず。だって、毎日、新しい発見をして、新しいことに気づいたり、学んだり。だから、私は死ぬ瞬間が、一番賢くって、素敵になっていると思うのよ~」本当にそう思っています。
 みなさまよくご存知の通り、私は粗忽者なのでね うっかり、もよく仕出かします。けれど、毎年毎年やってくる、合否に関係する非常に大きな意味を持つ時期。加齢による居眠りや、ボンヤリや、うっかりは許されない・・・

 みなさまの前に、ご家族一丸となって努力をした結果、幸せになる学校に神様が導いてくださったように、私に対しても、やはり神様が「まどかさん、自ら気づき、しっかりと判断しなさいね。」と示してくださっているのだな、と感じます。

 2023年の年末を持ちまして、幼児教室マナーズの教室、クラスを、終了することを決めました。
1993年3月の開校以来、足かけ30年・・・やっぱり長い長い年月でした・・・
 最初の10数年間は、我が子2人の成長と共に、という様子でした。その間には、息子の中学受験もありましたし、言ってみれば、私自身の子育てと同時進行の形で、それほど我が子達とも年齢の違わないお子様達をお預かりしていたわけです。
 次の10年間は、まさに波乱万丈。息子の高校卒業式翌日からの3年間の引きこもり、娘の大学入学後のプチ家出、主人の沖縄での大腿骨骨折。平穏だったのは3年弱で、次にやってきたのが息子の急な心臓病の発覚、大動脈弁の弁置換手術。ドクターから、一度は諦めなさいと宣告された状況からの奇跡的な生還。
 そして、最新の10年は、夫の食道ガン、息子の大動脈解離、親達の他界、等々。けれど、娘の結婚も含め、うれしいこともありました。
 私自身は・・・と言えば、40代に発症した緑内障の多少の進行は否めないものの、2年前の白内障の手術で視界も明るく広くなって快適になりましたし、バレット食道はあっても、きちんと内視鏡検査も怠らず受けていますし、ね。ここ1年は、なかなか治らない右肩の五十肩や、ひどくなっていく両手のヘバーデン結節も気にかかりますが、こちらはステキな指輪を左右の薬指に装うことで、納得させています

 なんて、本当に公私の「私」のほうには、たくさんのことが起こりましたが、マナーズの中では大きな波風も立たず、毎年、かわいいお子様達をお預かりさせていただき、聡明なご両親と共にお子様の成長を見守らせていただきました。そして、巣立たれた後も、みなさまとお付き合いをさせていただき、お子様を遠くから応援させていただける・・・目には見えなくとも、卒業生家庭からの大きな大きな力によって支えていただき「まどか先生も、マナーズも」順風満帆でやってこられました。すべて、みなさまからの応援の賜物です 本当にありがとうございました

 と、このように告知はさせていただきましたが、マナーズの教室は、あと1年続きます。そして、その後も、クラスは開講しなくとも、何らかの形で、子育てをするご家庭のお役に立ちたい、と考えています どういう形でか?みなさまにお知恵はありますか?クラスの時間や受験の時期に縛られることなく、自由に動きが取れるようになることによって、あらたに広がる世界もあるのかもしれません。
 もちろん、ジュエリーマナーズはそのまま、です
書かせていただいた通り、ヘバーデン結節では、指の第一関節の左右が膨らんできて、見た目には美しい手とはいかなくなります。手だって、首筋だって、昔よりも血管が浮き出て、「そのまま」では年齢丸出し。でもね、ジュエリーが持つパワーでイキイキ、ワクワク。その上、身も飾れれば怖いものなし、です 歳をとるからこそ、ジュエリーが重要な意味を持ってくる、ということを、ここのところ実感しているのですよねえ

 さあ、2023年もがんばります
新しいこの1年が、みなさまにとって充実した、実り多いものとなりますよう、お祈りしています

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人ってすばらしい!

2022年12月11日 | その他

 本当にごめんなさい 最近は、一日ずつアップが遅れます
昔、友人に言われたことがあります。彼女は歯科医。大の仲良しで、私の考え方や生き方に大きな影響を与える「ひと言」を言ったり、ピシャリと辛辣な苦言も呈してくれる人でね・・・
 その彼女が私に言ったことがあるのです。
「あなたは知らない人、親しくない人との約束では、必ず10分以上、約束の時間よりも早く着く。どうしてかって?『私はこんなふうに、きちんと振る舞える立派な人間です』と認識してもらいたいから。でもさあ、親しい人との約束では、微妙に遅れることがあるよね。15分とか30分とか、そういう単位の遅れならば、きっと『何らかの事情』があるのだと思うけれど、あなたの場合は違うよね。遅れる時間は3分とか4分とか・・・これってさあ、間違いなく『あなたがギリギリまで自分のことをしていた』ってこと、だよね?要するに、あなたは約束をした人、約束をしたことよりも、自分のことを重視したってことだよ この人ならば私を笑って許してくれるだろう、って思ってる・・・それって、無意識なのかもしれないけれど、その相手を一番ないがしろにしてることにだよ それをわかってるのかな?」
 私はこの彼女の言葉を聞いた時、音もなくシュッと切り倒された気がしたのでした なぜならば、彼女の言葉は、ズバリっ、的を射ていたからです

 ・・・ということで。
ブログのアップが1日遅れるのも、結局、同じことですね・・・ 本当にすみません。

 正確に言えば、まだワールドカップは終わってはいません やっとベスト4が出揃い、これからが準決勝ですから。でも、日本選手団も帰国して数日が過ぎ、私のようなにわかサッカーファンの興奮も治まってきました。
 そんな中で、いろいろと報道されるワールドカップでの「JAPAN」。
あらためて「日本人とは、どういうアイデンティティを持っているのか?」ということを、客観的に知ることが出来たそんなふうに思います。
 何と言ってもサッカーでは素人なので、詳しいことはわかりませんが・・・とても強く感じたのは、例えば、フランスのエムバペ選手、ブラジルのネイマール選手、アルゼンチンのメッシ選手のように、個の力が突出した選手がいないからか、日本の選手団は「和を以て貴しとなす」という諺がピタリとくるように、それぞれの力を1つにし、協力、協調しあって大きな力になるそんな強さのように思いました。
 そして、それはサポーター達にも通じるところがあり、全員が一丸となって会場の片付けをするその行動は「日本人として」の行動だったのですよね。

 時代は昭和から平成へ、そして、令和に・・・どんどん日本人の暮らしの中でも、「個」が大切にされることが一般的になってきています。そんな変化の中にあって、やはり今回のワールドカップで見えた日本人の姿は、「個」ではなく「和合の精神」だったように思えてなりません。
 それをして、日本古来の美徳だと言ってしまうと、きっと語弊があるのだろうとは思いますが、ロッカールームの折り鶴も、森保監督のスタンドに向かって深々と一礼する姿も、謙虚に行動する良さ、のように思えるのは私が歳をとったから、ですかね・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘れない、ということ

2022年08月12日 | その他

 10日にアップできませんでした ごめんなさい
今週末、13日の土曜日、教室は「お盆休み」休講です。とは言え、何も言わずに「10日の回」のアップをしなかったら??? わずかの方かもしれませんが、「あれ?どうしたのかな?」と心配させてしまいます 以前、一度そういう勝手なことをして、大層、ご心配をさせてしまったのです 
 今はこんなご時世ですからねえ・・・私が勝手にブログをお休みしてしまうと「もしかしたら、コロナに感染?自宅療養?」などと気をもませてしまいますね。本当に失礼しました
 コロナでも何でもありません。元気にしています

 今日、8月12日は、37年前、羽田発大阪行きの日航のジャンボ機が御巣鷹山に墜落した日、です。朝から、各局のニュースで繰り返しそのニュースが流れていました。37年にもなるのですよね・・・
 もう今では、「ジャンボ機」と言ってもピンと来ない方も多いことでしょう。
まだまだ世界中がノリノリ、イケイケの時代の1980年代 大型のジェット機「ジャンボ」と呼ばれた飛行機が、大量の燃料を使い、世界中の空を飛び回っていた時代でした。

 私は、あの凄惨なニュースの一報を、実家のリビングのテレビ、流れてくるニュース速報で目にしました。午後7時過ぎのことでした。
 「日本航空、羽田発、大阪空港行きの飛行機が、レーダーから消えた」と。
 まもなく、実家の電話に、私の高校時代の友人から電話が入りました。
 「おばさん、まどかは東京から帰って来ていますか?帰省するのは、今日じゃありませんでしたか?私、11日って言われたのか、12日って言われたのか、はっきりと覚えていないくて
 もちろん、電話から友人の声が聞こえたのではありません。
母が受話器を持って、電話が置かれていた廊下から私の方を見ながら、何度も何度も頭を下げ、私の友人に応えてくれていたので、私は容易に話の内容を察することができたのでした。
 「ありがとうね、Mちゃんうんうん、もう帰ってきてるよ、東京からあの子達、昨日東京から帰ってきたんよ、今日とちゃうちゃう、昨日、昨日。そう、うんうん、そう、もうここにいてる ありがとうね、心配させて。ありがとう、ありがとう
 電話の最後のほうは、話しているうちに感極まったのか、母は泣いていました

 私と主人、そして生後約4か月の息子と3人、前日の8月11日、日航123便で大阪に帰省しました。
 「私達の帰省が、もし昨日ではなく、今日だったとしたら」父も、母も、もちろん主人も私も、ニュースを食い入るように見ながら、ずっとそう考えていました。身体が冷たくなり、テレビの前から動くことが出来ませんでした・・・
 しかし、「ああ、昨日で良かった良かった」などと、私達は一度も言いませんでした。そんな思いにはなれなかった
 「東京からの帰省」「日本航空の大阪行きの便」等々、あまりにも身近な事すぎて、自分達は実家のリビングに座っているのに、とても不思議な、心ザワザワする感覚とでも言うのでしょうか。ずっと身体はこわばり、言葉が出ませんでした。

 十分に余裕を持って羽田空港に着いた私と、生後4か月の息子。私達はすぐに授乳室に行き、息子はミルクを飲みました。羽田から大阪へはたった50分程度の短いフライトです。とは言え、まだまだ小さな赤ちゃんの息子が泣いたり、むずかったりしたら、他の乗客に迷惑をかけてしまう・・・新幹線のように車両を歩くわけにもいかず・・・そう思うと、私はとても緊張していたのでした。
 当時の羽田空港は、まだ現在のターミナルではありませんでした。今は、羽田沖を埋め立てた、広い土地に建設された近代的なターミナルビルの空港になりましたが、あの頃はとっても狭く、いつもごった返している息の詰まるような場所でした。授乳室も狭くて、そこにはたくさんの母子がいたものです。

 その後、会社から羽田に着いた主人と合流し、私達3人は、他の大勢の乗客達とジャンボ機に搭乗。普段はビジネス客がほとんどの大阪便ですが、この日はたくさんの帰省や旅行の家族達でいっぱいでした。
 刻々と入ってくるニュースを見ながら、父も母も何も言いませんでした。
私と主人も何も話さず、すやすや眠る息子を抱っこして、前日の羽田空港でのこと、機内でのこと、空港に迎えに来てくれていた両親と顔を合わせた時のことなど、ずっと思い出していました・・・

 主人の大学時代の友人が、この事故で亡くなりました。
お子様は、息子とほぼ同じ年齢。ご子息は、息子同様、37歳になっていらっしゃるのですね。すでに、ご自身が「パパ」になっていらっしゃるかもしれません。
 私達は毎年、このニュースを眺めながら、お父様を亡くされ、お父様のお顔も知らない彼が、お母様のもとでどんなふうに成長されているのか?と静かに考えたものでした。

 様々な出来事を「忘れない」というのは、なかなか難しいことかもしれません。
どんなに大きな出来事であっても、時間という不思議な薬によって、その当事者ではない限り、痛みは引いていくものなのだ、ということを、みなが密かに知っています
 それでも・・・たとえわずかな時間であったとしても、「思い出し、考え、語り、祈り、忘れないでいよう」とすることに大きな意味がある、と思っています

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする