クラブ・マナーズニュース

マナーズを巣立たれたみなさま、縁者のみなさまとつながっていたい!そんな私が月3回「0」の付く日にブログをアップします!

オリンピックで感じること

2024年07月30日 | 楽しいお話し

 パリオリンピックが始まりましたね
大雨の中での開会式。世界から訪れる観戦客を見込み、大きな投資をしたにも関わらず、世界を巻き込むコロナ禍で無観客開催を余儀なくされたTOKYOの涙雨 だったのかしら…と、多種多様、自由の国フランスを象徴するような独創的な開会式を眺めました

 私は、長年ブログを書いてきました あらためて調べてみると、私が「まどか先生の ママ達のおやつ」の前身である「まどか先生のひとりごと」を書き始めたのは、2004年の8月でした
 なんとまあ、20年間も書いている、ということですね それはそれは膨大な量の「持論の展開」です。お恥ずかしい限りです
 当時は、私はまだ40代。2人の子ども達も、高校生と中学生。「妻」と「母」と「まどか先生」を一心不乱にやっていた、という訳です、はっはっは 自分を揶揄するつもりはありませんが、今になって振り返れば、たくさんの空回りもありましたよねえ… まっ、そんなものでしょうが
 数多の反省は今日は横に置くとして… 夏季と冬季、2年に1度オリンピックが巡って来ると、私は「世の中の流れ」「世界の移り変わり」「人々の感覚の変化」に気づかされます

 まさに、私のブログ「まどか先生のひとりごと」の初回の話題は、2004年のアテネオリンピックのもの、でした。
 競泳のメダル授与式での出来事。メダルを授与するプレゼンターは、日本の往年の大選手。「IOCの偉い人」になった彼が金銀銅の3選手にメダルを授与した後、なんと、選手に声をかけることもなく、すたすたと帰ってしまった… そのことに違和感を感じた私が「プレゼンターにも関わらず、心がこもっていない」と憤慨している内容でした その方も、すでに故人ですが。

 私はその後のオリンピックでも、何度かブログのトピックに選んでいます。そして、そのトピックの中で、私は感動だけではなく、幾度も「私の思いは~~なのに…」「私はこんなふう感じ、疑問に思った…」のように、ネガティブなことも書いています
 内容はそのつどいろいろですが、概ね私が書いているネガティブなことは…
「選ばれし選手達は、日の丸を背負って出場している。自分の意思で大会に臨むのとは訳が違う。そういう国を背負い、代表して出場している立場なのに、インタビューを受けた時、多くの選手達が口にする言葉に大きな疑問を感じる。多くの選手達は、こんな風に答えることが多くなった。『せっかくオリンピックに出場するのだから、十分に楽しみたいです!』と。なんという不謹慎な!もっと自分の置かれた立場を再認識し、使命感と責任感を持って、必死になるべきだ」
というもの。
 当時の私は、大真面目にそんなふうに感じていたのですね

 じつは… 私がそのように感じるに至る「芽」は、1964年の東京オリンピック、そして、その4年後のメキシコオリンピックの出来事にさかのぼります。
 1964年、東京オリンピックの年、私は小学校1年生でした。その前の大会で優勝した男子マラソンアベベ選手は、すでに有名人で、小1の私もよく知っていたのでした。
 エチオピア代表、裸足のランナーで有名になったアベベ選手は、やはり東京大会でも優勝。
そんな彼に続いて競技場に戻ってきたのは、日本の期待を背負って走っていた円谷幸吉選手。誰もが銀メダルだ!と歓喜に湧きました しかし、3番目に競技場のトラックに入ってきたイギリスの選手に抜かれ、3位となります。マラソンの中継に釘付けになっていた日本国民の目の前での劇的な出来事でした…
 そんな円谷選手は、「次のメキシコオリンピックでは雪辱を果たします」と国民に約束するのでした。彼の思いはどんなものだったのか?自衛隊体育学校に所属していた彼の「日本の代表」という思いは、どれほど重かったのか… 
 誰もが期待したメキシコ大会での円谷選手の雄姿 しかし、彼はメキシコオリンピックの前年には椎間板ヘルニアを患い、その後、アキレス腱の手術も受けるのです。

 1968年、メキシコ大会が開催される年のお正月明け。
万全の状態でオリンピックに臨めない自分を意識し、「父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許しください。」
 自衛隊の上官宛には「…何もなし得ませんでした」「…お約束守れず相済みません。」という遺書を残して自殺。
 この事実は、大々的に報道もされました。そんな報道やニュースを見、両親からも教えてもらった私は小学校5年生。何事をも敏感に感じ、真剣に考える「社会派の卵」になっていました…
 
 私が憤慨し、持論を展開するブログを書いていたのは、このメキシコオリンピックから30余年経った、私40代。
 円谷幸吉氏のような深い思いを持ってオリンピック出場にかけていた日本人がいたにも関わらず、同じ日本人として「楽しむ」とはなんと不謹慎な そう思っていたのでしょう…
 10歳だった私が受け止めた「円谷幸吉選手の死」。「国を代表して」や「日本人として」という大きなテーマ。当時、私の心の中には山ほどの思いや疑問、があったにも関わらず、このことについて学校の先生や友達、親や叔父叔母と話した、という記憶はありません。だからこそ「しこり」のように心に残ったのだろうなあ… 今になって、そんなことを考えています。

 そして、それからまた20年が経過 私は60代も半ばを過ぎ、丸くなったのでしょうかね
今では「オリンピックを楽しみたい」「この機会を楽しみます」という若い選手達に何の違和感を持つこともなくなりました。むしろ「是非ぜひそうしてくださいね あなたの努力の上に勝ち取った、この代表と言う立場なんですもの」と、テレビに向かって笑顔でエールを送っています。選手自身も悔いなく戦い、その上で満足のいく成績を残せれば良いな、と。もし結果が出せなかったとしても、それは間違いなく「意味のある敗北」であり、あなたの宝物になるのだ、と。そして、あなたのがんばりが、それぞれの国の国民の喜びとなり、また、世界の人々の記憶となり、何らかの意味を持つものになるのならば、こんなに素敵なことはない、と

 閉会まで、多くの選手達が死力を尽くして挑む姿にエールを送り、この大会の無事を祈ります

 最後に。
みなさんがよく知るオリンピアンについて、私が2012年3月6日に書いた まどか先生の「ママ達のおやつ」があります。せっかくなので、ご紹介させてくださいね。
 「人の心は見えるもの」

 

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「木・樹」の効果を感じる

2024年07月20日 | 楽しいお話し

 新学期が始まり、GWが終わって、いよいよ本格的に新しい学年に落ち着いたかな?などと思っていたら、あっという間に7月も半ばを過ぎ、夏休みがやってきました
 歳を取ると、1週間の流れ、ひと月の流れをとても早く感じます。よく人から「お仕事をされていると、それぞれの曜日にすべきことがあり、それを一生懸命にこなしていると、もう週末?!なんてことになりますが、お教室を終えられると時間に追われることもなくなって、1日、1週間が長く感じられるようになったのではありませんか?」と言われます。そうそう、私もそんな風になるのだろうなあと考えていたのですよ。
 でも 不思議ですねえ…  時間に追われていた時のほうが1週間を長く感じていたように思います どうしてなのでしょうねえ…私自身でもよくわかりません。

 さてさて、今日は「木・樹」のお話し。
ご存知の通り、雨天でない限り、朝のウォーキングが続いています「この暑い中?!」と思われるでしょうが、じつは1時間半歩いている中で、陽ざしを浴びて歩いている時間は15分もないかもしれません。
 幸いなことに、ルーティンの歩くルートはビルの陰だったり、並木の木陰だったり…で、暑さそのものはありますが、陽ざしによる猛暑を感じることはほとんどないのです。これは、とってもありがたいことです
 とは言え、1週間ほど前から、ウォーキング中、めっきり人に会わなくなりました 出勤をする方々は四季を通してルーティンで行動されるわけですが、早朝のランニングやジョギング、ウォーキング、犬のお散歩、というお仕事以外の方々は、夏の季節には「それぞれの考え方」によって、屋外での時間に制限をかけたり、変更をされたりしているようです。
 今まで見かけていた人に会わなくなるのは、ちょっと寂しく感じているのですが、それも仕方のない事ですね

 話を元に戻しましょう。
私が関東に移り住んでから、今年で41年になります。最初の3年間は千葉県の流山市というところに暮らしていて、その後の27年間は横浜市。今でこそ流山市は、成田エクスプレスの沿線となり、「おおたかの森」に代表されるような若いファミリー層の憧れの町になりましたが、私が住んでいた40年前は、首都圏とは思えないような「静かな郊外の町」でした
 私が関東に移り住み、一番最初に感じたことは「東京は、町中でもとても緑が多いところなのだな」ということ。何といっても、東京駅の目の前には皇居があり、広大な緑が広がります。そして、仙洞御所(東宮御所)、神宮外苑、代々木公園、新宿御苑、上野恩賜公園、etc.etc.
 私が生まれ育った大阪は、東京に比べると都市部は狭く、本当に緑の少ない町だと思います 大きな公園もたくさんあるわけではありませんしね…
 大阪で普通に住んでいて、町中の樹木から季節を感じるというようなことは、ほとんどなかったように思います 町の中心、御堂筋のイチョウ並木は有名ですが、何と言っても御堂筋は人が歩くための道とは言えませんからね。道幅は約45m、6車線の日本一の一方通行。交通量の多い道のイチョウの木は、歩きながら愛でる存在ではないでしょう。

 とにかく、私は関東に来て、あらためて「人は木、樹木によって、知らず知らずのうちに心を癒されているのだなあ」ということに気づいたのでした
 比較的、イチョウは、私達にとって馴染みのある樹木で、多くの人が「これはイチョウの木だ」と認識しますね。もちろん「桜」は言うまでもありません。でも、ポプラやケヤキやプラタナス、等、比較的街路樹によく使われる木であっても、私達はその並木道を歩いたとしても「これは〇〇の木」と認識しているわけではないし、毎日のルーティンで街路樹のある道を歩いていたとしても、その木が何と言う木なのか?なんて、考えもしない   残念なことですが… 本当は、その毎日通るその道に、木が植わっているか植わっていないかでは、私達の気分は大違いなのに、です
 そうです、私自身もそんな一人でした。でもね、ウォーキングをするようになって、意識が変わりました バッグを持つわけでもなく、重い荷物を持つわけでもなく、次の予定の時間に急かされて駅に急ぐのでもない。ただ、まわりの風景やいろいろなものに目をやり、感じたり考えたりしながら歩く、歩く
 すると、自分が歩いている道の街路樹や、公園の中の樹木に自然と目が行くようになりました。そして40年ぶりに?!あらためて気づかされました。「ああ、私達は『木』というものに、とてもとても癒されているのだなあ…」と 
 その「癒し」は、植わっている「樹木」からだけではなく、「木」というもの、からも感じられます。例えば、国立競技場に使われているたくさんの「木」も然り、です

 世界中が経験した「コロナ」という艱難によって、結果的に散々だった2021年(2010年の予定)の東京オリンピックでしたが… あれから3年、私はほぼ毎日、国立競技場を見ながら、「こんなにも素敵なものが残ったのだなあ…」とうれしくなっています
 古い国立競技場を壊し、新しく建設される競技場が、2012年、一度はザハ・ハディド氏の未来的?なデザインに決まったものの、その後、その案が白紙に。そして「杜のスタジアム」をコンセプトとした隈研吾氏デザインの現在の国立競技場が建設されました。
 新しいデザインの選考から、決定、着工まで、メディアで頻繁に取り上げられた「木にこだわったデザイン」にも関わらず、私はさほど特別の感情を持つこともなく、工事が進んでいきました。完成まで、幾度となくその周辺を歩き、目にしていたものの「へえ、びっくりだなあ。あんなところにいっぱい木を使ってるんだあ…」程度にしか感じてはいなかったのでした
 でも今、ほぼ毎日のようにこの競技場の下(周り)を歩き、一周する間、驚くほどたくさんの箇所に使われている「木」を見るにつけ、その「木」がもたらしている効果、パワーというものを日に日に強く強く感じています
 そして、その競技場と「対」とでも言わんばかりに、競技場の千駄ヶ谷門の正面に建てられたホテル。ふんだんに木を使い、曲線を重視して建てられています。本当に美しいのです…

 よく木造住宅のCM等では「木のぬくもり」というフレーズが使われますよね。本当にそうですね。
 昭和の時代によく使われていた「コンクリートジャングル」という言葉。温かみが感じられないこと、そのことからくるさびしさなどを表現した戦後の新語だったわけですが、確かにその対極にある「木」を使った建物には、あたたかさ、優しさ、包み込む空気を感じます
 でもね、私は今、早朝の町を歩いていて、あたたかさというよりも、むしろ木から大いなる「清々しさ」「爽やかな空気」を感じています あたたかさ、ぬくもりではありませんが、決して「冷たさ」ではなく、爽快感と言うのでしょうね

 写真を4枚用意しました。2枚は「オマケ」です。
 1枚目は、まさに今回話題にしている国立競技場と、三井ガーデンホテル、双方が映った写真です。

    
    

 2枚目は、青山墓地の中央を貫く「桜並木」。
都心のど真ん中にあるとは想像し難い、まるで森のように見える並木です

    


 そして「オマケ」の2枚です。木、森そのものの真髄、とでも言うのでしょうか
コロナが始まってまもなく、久しぶりに上高地に行った時の、早朝の2ショット。歩きながら、目の前に現れたこの風景に息を飲みました。

    

       

 いろいろと物議をかもしている「大阪万博」。
そのシンボルともなる巨大な木の大屋根「リング」。最初、このニュースを見た時、私は「本当に無駄遣いだよなあ… こんなにお金をかけて、開催後は解体するのでしょう?」と大きなマイナスイメージを持ったものでしたが… 
 図らずも、朝のウォーキングから「木」の持つ意味「人を魅了し、人を癒す力、パワー」を実感し、あらためて「是非とも大阪万博の会場で、木の大屋根、リングを見てみたい 実際に行って、その中に立ち、深呼吸をして感じてみたい」とワクワク、考えるようになりました。
 大阪は、私と夫の生まれ育った郷里とは言え、今では4人の親達は亡くなり、実家もなくなり、その上、私の実家のほうでは、叔父達が墓じまいをしてしまった今、すっかり大阪は遠いところになってしまいました 母の生前は、毎月2泊3日で帰省をしていたのにね、笑。
 でも、是非、ホテルをとって、万博会場に通ってみたいと思います。その木の大屋根を見て、感じるために

 

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言葉の発達で考えること

2024年07月10日 | 考える ひとしずく

 孫が2歳になり、どんどんと話す言葉が豊富になってきました
我が子を育てている時は、24時間体制で母親をしていたはずなのに、きっと気持ちの余裕もない上、目の前のことを主観的に見ながら子育てをしていたのでしょう 孫を見ている「祖母」の立場の今ほど、いろいろなことを考える時間も、余裕がなさすぎて感じることも少なかったように思います
 まあね、もっとも、当時には「まどか先生」としての30年間の経験があたわけではありませんからね。今のように、孫を含め、「子ども達の一挙手一投足」に目が留まり、感じ、響くことはなかったのも仕方のない事ではあります、ふふふ

 先日、「とても面白い」と感じたことがありました
前日から発熱し、保育園を休んだ孫を、午後から半日みた時のことです。
 幸い熱も下がり、少し楽になったのか、孫はたっぷり、しっかり、デュプロブロックで遊びました。そして、夕食の時間になりました 遊んでいる孫に「キッチンでご飯の支度をするから、その間、一人で遊んでね」と伝え、娘が支度をしたメニューを整えた後、声をかけました

 「ご飯の支度ができたよ ご飯、食べようよ」すると、孫が返事をしました。
 「たべなーい」いつもは大食漢。微熱のため、食欲があまりないのか?と思いつつも、遊び足りないから「食べない」といったのかもしれないなあと思い、もう一度声をかけました。
 「おかあさんがね、あなたの好きなおうどんの支度をしてくれてるのよお。お豆腐もチキンもあるわよ。おいしいよー 食べたくないの?」と。
 すると、今度は「たべなーい。たべたくないよー。」という返事。
その返事を聞いて、私は考えました・・・「たべなーい。たべたくないよー。」

 まだ2歳になりたてで、やっといろいろと話し始めた幼い子どもではあっても、彼の頭の中には、すでに「たべない」というボキャブラリーはあるのだな、と。
 でも、彼が「たべない」と言った後で、少し間をおいて言った「たべたくないよー」という言葉は、明らかに声のトーンも、言葉の滑らかさも「たべない」という言葉を発した時とは違いました

 そうです 彼が「たべなーい」の言葉に続けて言った「たべたくないよー」は、私から彼に対して言った「食べたくないの?」という問いかけの言葉を真似て、リピートした言葉だったのでではないか?いや、きっとそうだ

 ごめんなさいね… いったい私が何を言いたいのか?が、よくわからないかもしれません
それでは、違う表現をしてみます。

 食べない=I don’t eat. 食べたくない=I don’t want to eat.

「食べない=I don’t eat.」は、食べるeatという行為をしない、という意味ですね。
それに対して、「食べたくない=I don’t want to eat.」です。この表現を使う時には、語り手の意志、eatという行為をしたくないという思いを表しています。

 孫が現時点で話せている他のボキャブラリーから推測しても、また、この時に「たべたくないよー」と言った彼の声のトーンからも、彼にはまだ「自分の意思を言葉に込める術を知らない」ということが明らかでした。
 つまり、彼が発した「たべたくないよー」は、I don’t want to eat. と言ったわけではなく、単に私の言葉を真似てリピートした、したかった、ということ。
 こうして、彼はその時、「たべたくないよー」という、「don’t want to」という意志を表す言葉を新たに学習した
 ああ、幼児期は、こんなふうに言葉を覚えて、話せるようになっていってるんだなあ・・・何だか、私は大きな発見を「自分でし得た」ことに感激してしまいました

 この「~たくない」という表現を理解し、会得することによって、これから彼は「しない」だけではなく「したくない」、「行かない」だけではなく「行きたくない」という表現をしていくのだろう、と思いました
 子どもの話す力の成長って、すごいと思いませんか?
小学生くらいになれば、母国語力は向上してきます。当然、大人は自由自在に母国語を話すようになります。(まあ、母国語力でさえ、人によって「高い、低い」はあるとは思いますが、汗)そう、母国語を会得した後で学ぶ他の言語は、母国語に置き換えて学んでいきます。
 でも、幼い子ども達、真っ白な子ども達は、言葉そのものを、まさに「聞いて」「真似て」「覚えて」「使う」ようになっていく!

 しつこいですが 私は「きゃーーーーーーすごーーーーい」という思いになり、病み上がりとは言え、少しでも夕食を食べさせるほうが良いよな、なんてことはそっちのけで、「そっか、食べたくないのか。食べたくないのね。わかったわかった」と笑顔で応え、「〇くんは、食べたくない♬ 〇くんは、食べない 〇くんは、食べたくない♬ 〇くんは、食べない」と節をつけて歌いました。
 孫も、何だかよくわかんないけれど、ばばちゃんは上機嫌だとわかり、一緒に彼も「たべない♪、たべたくない」と歌い…

 ほんと、我が子の時には、こんな余裕というか、悲壮感のない子育ては出来なかったですねえ… いつも、良く言えば一生懸命。悪く言えば、理想を追い求め、子どもに自分の好みを強いていたんだなあ、と振り返り、苦笑いです

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