歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

熱狂のライブーマネスキンに散った夏

2022年08月21日 | 音楽

「マネスキン日本に来ないかな」とぶつくさつぶやいていたのはもう1年前。

2021年にユーロヴィジョンで優勝し世界で人気が爆発したその勢いのまま、

まさか日本に来てくれるとは思いもしなかった。

今年の春だったか、サマソニのラインナップを見て叫んだ。

「マーーーーネスキーーーーン!!」

一人でも、嵐になっても、地を這ってでも見にいくと誓った。

 

ロックの時代は終わった、平成の終わりから令和にかけてそんな空気を感じていた。

あるいはもっとずっと前からか。

今時ロックなんてダサいでしょといわんばかりのchillの台頭。

確かに前時代の遺物になりかけていたし、新しい世代のロックなんて聞く気も起きなかった。

そもそも音楽においてかっこいいという価値が衰退していたんじゃないか、とすら思う。

そこにバコーンと現れたのがイタリアのハードロックバンド、マネスキンだ。

ユーロヴィジョンの授賞式でヴォーカルのダミアーノは「ロックンロールは不滅だ」と宣言した。

20世紀の終わりにレディオヘッドがKIDAの中でロックの終焉を歌い、

2000年にストロークスがデビューアルバムなの中で「Modern ege」を発表した時のような、

ロマンと必然性を感じさせる登場だ。

ラジオで『Zitti e Buoni』を聞いた時脳天を打ち抜かれた。

武田砂鉄さんには本当に感謝しています。

ーオレもイカれちゃいるがあいつらとは違う、お前もイカれちゃいるがあいつらとは違うー

イエエエエエエエエエエーーーーッ!!!

 

 

いざサマソニのチケットを取ろうと思ったら、単独公演があることを知りそちらに行くことにした。

それがまさか1日で売り切れるとはね。

チケット発売日の翌日にあぶねーあぶねーとチケットを買いに行ったら、無情にもSOLD OUT。

正直日本人の感度を侮っていた。

しょうがないからサマソニに行こうと思ってチケットを調べたら、タイミングを同じくして売り切れていたのだ。

あの時はあまりのショックにしばらく腑抜けになっていたな。

マネスキンの曲を聞けなくなるくらい悔しくて、悲しくて、辛かった。

だからサマソニの二次先着の発売を知った時は涙が出るくらい嬉しかった。

というか少し泣いた。

かなり激しいチケット争奪戦をどうにかこうにか勝ち抜き(夫が)無事マネスキンに会ってきました。

 

夫は外せない仕事が入り、代わりに誘った友達は急だったこともあり仕事とコロナで全滅。

しょうがないから一人で行くことにした。

この選択(果たして選択肢があったのか)が思いの外正解だった。

というか友達と行っていたら、友達を一人無くしていたと思う。

 

日本人が白けていて日本嫌いになったらどうしよう、指笛を覚えていこうか、

という心配は杞憂に終わった。

お昼過ぎ1時間以上並んでTシャツが売り切れていた時は驚いた。

なんとなく予感がありながら、肉眼でダミアーノとヴィクトリアの顔が見れる場所まで行って待機。

こんなに前へきたのはいつぶりだろう。

後ろでゆったり聞く心地よさを覚えてから、前の方でもみくちゃになるような見方は敬遠していた。

マネスキンはそんな大人になった私のセオリーをことごとくぶち壊す。

一人だから誰に遠慮することなく前へ前へ前へ。

 

サッシャが出てきて「次はマネスキンだ」って言った時の会場の熱気はすごかった。

夢の中のあのカリスマが、あのスーパースターがくるぞくるぞ!

現実のものと思えないあのロックの具現がくるぞくるぞ!

巨大モニターに古代の彫刻にも見劣りしないダミアーノ・ダヴィドが映った瞬間理性が吹っ飛んだ。

1曲目は『Zitti e Buoni』!!

私も狂っていたが、私の周りも狂っていた。

あの熱狂は形容しがたい。

他人の汗、肉体、声が渾然一体となってとてつもないエネルギーが渦巻いていた。

サッシャが「声は出さず」と言っていたのは、これを予想していたからかな。

 

役者が違う。

誰と比べる必要もない、ただただ己の魂を燃やし音楽を体現するカリスマ。

それに人々がついてく。

日本人の感度もだけど、彼ら自身の力も見くびっていたのかもしれない。

私が心配する必要なんて最初からなかった。

いいものはいい、それを感じる素養は誰にでも備わっていて、マネスキンはいいんだから。

 

祭りに熱狂するのに似ているかもしれない。

祭りの非日常空間では特有の微熱感にうかされて人々は我をかなぐり捨てて自分を解放する、あるいは引き渡す。

普段踊らないような人が夜通し盆踊りに没頭する。

自分と他人の境界があいまいになり、物理を超える。

マネスキンは私にも我を忘れさせてくれた。

他人の目などなくなり、ダサくとも、キモくとも、踊り狂う。

オ、マママママミーーーーヤーーー。

 

ダミアーノが「世界中の人たちから日本人は静かだって聞いていたけど、そんなの嘘じゃないか!」

と嬉しそうに言っていて最高だった。

日本人は確かに静かだよ、シャイで、内気で我を忘れにくくルールを重んじる。

それを変える力をマネスキンが持っていたということだ。

 

最初と中盤と最後にキラーチューンをおいて、間にカバーを挟むセットリストも最高。

最後の『I WANNA BE YOUR SLAVE』では日本語で「しゃがんでー」と促して、

みんなでしゃがんでダミアーノのカウントで一斉にジャーンプ!!

重力を見失うくらいの浮遊感と激音、誰かに足を踏まれ何か踏んではいけないものを踏み、

1年分のアドレナリンを、いや5年分のアドレナリンを放出したのでありました。

ああ、もう一生ついて行きます。

浮ついて、そんな迂闊なことも言っちゃいます。

 

グッズ全部買うつもりでお金用意してきたのに一つも手に入らなかったけど、1000%満たされた。

もともと100しか容量ないのに破裂しまくってそれでも幸福を押し込めてるから、

他が入るわけもなくおとなしく帰ったのだった。

St.Vincentも見たかったけど、マネスキンの余韻の中で中途半端になりそうでやめておいた。

グッズ行列に1時間以上も並んで他のアーティストほとんど見れなかったけど、一片の悔いなし。

帰りは大雨でびしょ濡れになったけど、全てはオールオーケー。

ありがとう、マネスキン。

観客の手の隙間から見えた低い姿勢で前のめりに歌うダミアーノの姿が目に焼き付いている。

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ときの忘れ物

2022年07月27日 | 日記

恒川光太郎の小説『夜市』は何度となく思い出す忘れがたい物語だ。

そこに出てくる怪しげな和の夜市に思いを馳せる。

 

日本人だからと限定的に考えるのは時代遅れかもしれない。

と言いつつ太古から脈々と伝わる和の郷愁を共有しているのは確かで、

根底で繋がっている、そんな気がするのは思い違いだろうか。

それがDNAなのか育った環境なのかはわからない。

 

遠くから聞こえてくる祭囃子に心が踊ったり、

縁日の提灯や浴衣姿の少女に胸が締め付けられたり、

かげろうに揺れる日傘をさしたおばあさんに懐かしさを感じたり。

 

懐かしいという共通感覚が愛おしい。

自分の知らないところで形成されたノスタルジアだ。

 

BUMP OF CHICKENの歌に『涙のふるさと』という歌があるけれど、

涙ならぬ「心」のふるさとがあるんじゃないかと思うことがある。

漫画『蟲師』の光脈みたいな川のようなイメージだ。

心の帰る(還るではなく)場所。

輪廻とは違う意味でルーツをたどれば皆同じ場所にたどり着く。

日本人に限らずね。

 

参院選の日は日曜日で七夕の3日後だった。

投票がてらいつも車で通る気になる商店街へ寄ってみた。

七夕飾りがまだ残っていてやたら賑やかな雰囲気なのに、

人気はなく大きな飾りが風に揺られシャラシャラという音だけが鳴っていた。

お店はほとんど閉まっていて、七夕は終わっているのに飾りは爛々としていて、

日曜日なのに人っ子一人いなくて、カラッと乾いたいい天気で、、、方向感覚を見失う。

いったい私はどこに迷い込んだんだ。

『千と千尋の神隠し』の最初に出てくるテーマパークを彷彿とさせる。

漂う違和感が心地よくてその空気に身を任せてしまってもいいかな、

なんてそんなことをしたらお父さんやお母さんみたいに本当の迷子になってしまう。

あれは心のふるさとへの入り口だったのかもしれない、そうだといいな。

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パンについて考える午後

2022年07月24日 | 日記

納豆って昔からあまり好きじゃない。

まずいとは思わないけれど、日常的に食べるほど美味しくもない。

ネバネバが他のネバネバ食品より強力だし、面倒臭い。

 

それがなんのことはない、

筋肉をつけようという意識が芽生えると大事なタンパク源として重宝するようになった。

受け身にならず正面から向き合うとなかなか面白いやつでここ最近気に入っている。

今日なんかパンにのせて納豆チーズトーストを作って食べたくらい。

 

パンのサクサク食感に納豆とチーズのネバネバがのっかっていて美味しい。

いや、正直なところ美味しいのかまではわからない。

パンの味は薄れ主張の強い納豆に覆いかぶさるチーズが全体をマイルドにしている。

満足度が高いのはこのボリュームなんだろう。

 

ふーん、と思いながらサクサクネバネバやっていると、今度はパンについて気になり始めた。

「パン」ってなんだ?

パン、パンッ、パン、パパン

英語ではないし、いったいどこから来た言葉なんだろう。

「パン」ほどヘンテコな言葉パンだけだよな。

日本独自の言葉だったら面白いな。

日本にパンが入ってきたのが大航海時代くらいだとして、

その頃「パン」に近い言葉があったとしたらなんだろう。

鉄砲の発泡音?

信長が「今日はパンだ」とか言っていたら面白いな。

秀吉は「パン」と言っても違和感ないけど、家康は言わなそうだな。

 

調べてみると、

パンはキリスト教布教によって伝来したものでポルトガル語の「pão」に由来するのだとか。

なーんだ、よく考えればわかりそうなもの。

そもそも中国語や英語が語源でないとヘンテコに思えてしまう言語感覚が乏しいのだな。

発見があったようなないような、ポルトガルに少しだけ心の距離が近づいた午後でした。

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電車の中のおじいさん

2022年05月29日 | 日記
夕方、電車に乗っていた時の話。

混んでも空いてもいない車内で、目の前に座っていたおじいさんが眠りこけていた。

どこで手に入れるのか、おじさんがよく被っている紺色のキャップを目深にかぶり頭を垂れていた。

小さな体にくたびれたポロシャツを着て足を投げ出していた。

こちらに向いた帽子の頭頂部をぼーっと眺めていると、寝姿がとても静かなことに気づいた。



もしこのおじいさんが前に倒れこんできたら私はどうすればいいだろう。

そんな妄想が頭をよぎる。

移動中の閉鎖空間なので通常時よりイメージしにくい。

救急車を呼ぶのか?車掌さんに連絡する手段は?素人が触らないほうがいいのかな?

心臓マッサージ?人工呼吸?AEDってどこにあるの?

救命の講習をもっとちゃんと受けておけばよかった。

何もできずオロオロする未来の自分が見える。



ネットで調べるとまず肩を叩いて声をかけ意識・呼吸の有無を確認することが大事らしい。

そして非常用ボタンを押すなどして車掌さんにこの事実を伝えること。

呼吸をしていない場合は心臓マッサージをする。

外での対処とほとんど同じだ。

おじいさんは目の前の女がまさか自分でそんな妄想しているとは思わないだろうね。

我ながら失礼な話だ。

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34歳、冒険に出る

2022年05月29日 | 日記
あらゆるエンターテイメントが好きだけどほとんど触れてこなかった分野がある。

ゲームだ。

ゲームはアニメや漫画の世界にも多大な影響を与えている。

夫はファイナルファンタジーⅦから人格を育てられたとか言っている。



私は数字のパズルのようなものはするけれどアクションやRPGには手を出していない。

一番の理由はRPGを一度やったらゲームの世界から抜け出せない可能性があるということ。

子供の頃から『ロードオブザリング』や『ハリーポッター』で描かれるファンタジー世界が大好きだった。

未知なる世界での冒険譚が大好物なのだ。

危険をはらむとはいえその主人公になれるなんて夢のような話だ。

とはいえゲーム脳が育まれていないのでゲーム内であってもやっぱり戦いたくない。

生き返ることがわかっていても死にたくない。

敵とはいえ無駄な死人は出したくない。

そんな具合でまぁゲームには向いていない。



それがなんだ、今年の誕生日に夫が名作と名高い『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』をプレゼントしてくれたのだ。

これには笑った。

軽い気持ちでちょっとやってみたら、案の定ゲームの世界から抜け出せなくなった。

寝る間も食べる間も惜しんで没頭していたら4日目くらいには目の下に隈ができていた。

こりゃあ大変だ。





最初はその世界を走っているだけで感動した。

差し込む光、きらめく木の葉、夕日に染まる草原、照りつく岩、繊細な影、透明な水。

光の表現があまりに繊細なもんだから、その世界が本当に存在しているかのように錯覚してしまう。

ゲームってこんなすごいん!?そりゃあゲームの世界で生きる人も出るわ。

途方ない制作の過程を思うとくらくらする。



私はゲームのセオリーを知らないので勝手なことは言えないけれど「Breath of the Wild」はとても自由だ。

押し付けがましくないので気楽に進められる。

次はこれその次はこれ、と進む順番が決まっていたらきっと続かなかったと思う。

好きな場所へ行き、新しい村を発見し、知らない森をさ迷う。

その自由さが生み出す冒険感がたまらない。

また行く場所に制限がない(環境によって装備は必要)ので、

無意味と思われた散策の先で思わぬ出会いに巡り会えたりちょっとしたサプライズを味わうこともできる。

立ちはだかる壁の解決方法も人それぞれだ。

ちょっと視点を変えると難敵を軽々倒せたりと奥が深い。

人がこの世界を作ったと思うと飽きずに唖然としてしまう。

こ、これがオープンワールドか、、、。







最初は戦いたくないとか言って逃げ回っていたけれど強い装備を手に入れ自信がつくと好戦的になっていく。

傍若無人に敵をなぎ倒し「あれ、どっちが悪者だっけ?」と一瞬我に返ることも。

ちょうどそんな頃合いに身ぐるみ剥がされ裸一貫で無人島ミッションを与えられ、

クリアできないと「私はまだまだだった、強い武器を手に入れ自分が強いと錯覚してしまった」と反省させられる。

本当にどうなってんのってくらい作り込まれている。

そりゃあ発売から5年以上経っても値下げしないわけだ。



「Breath of the Wild」が特にそうなのかRPGの特性なのか、プレイヤーの性格が出るのが面白い。

ゲーム経験者は皆似た動きをするのかもしれないけれど、夫はとにかく敵を恐れない。

装備も食料もない状態で敵に突っ込み問題を早々に解決していく。

「敵は倒すものだから」、単純な話だ。

私はまだまだそんな風には割り切れず、強そうな敵が出たら全速力で逃げる。

まだ立派な勇者ではないか、、、。

勇者とは何か、敵とは何か、と一度立ち止まるとゲームは終わらない。

ふと大山海の漫画『奈良へ』を思い出した。

『奈良へ』はちょっとすごい作品だったのでまとまったら感想を書きたいと思う。



私の友達はゲームをしない人が多い。

それが面白いもので私がゲームにはまったタイミングで久々に会った友達がかなりのゲーム好きだった。

もちろん「Breath of the Wild」は経験済み、めぐるなぁ〜つながるなぁ〜。

女友達とゲームの話で盛り上がれるってのは新しい境地だ。

あの武器がどうだ、あの場所は怖い、あの装備は好きだ等々子供みたいにはしゃいでしまった。

「来年新作出るね」と確認しあい二人でウッシッシとなったわけだ。



私が装備万全で敵に向かっていく姿を観て夫が笑いながら「たんの大冒険だね」とか言ってよく馬鹿にしてくる。

「タンタンの冒険」ならぬ「たんの大冒険」、いや「ダイの大冒険」ならぬ「たんの大冒険」?

端から見ればバカバカしいことなのかもしれない。

いい大人がなにやっとんねん、なのかもしれない。

でも本当に面白いんです。

今更だけど私も言いたい、「ゼルダの伝説 Breath of the Wild」は名作です。

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